おかえりなさいませご主人様


「ただいま〜」
 誰もいない空間に向かって挨拶をする習慣のある小此木雨音(オコノギ アマネ)は、自宅コーポのドアを開けた瞬間、憤死寸前になった。
「な、な、な……!」
「おかえりなさい、雨音」
 狭い玄関に、三つ指をついて出迎えてくれる、美しい妻。
 ――じゃなくて!
「ここで何してんのよ、有堂くん!」
 女のわたしが妻ってなんだ、と自分で自分に突っ込んだ雨音は、わなわなと震える。
 雨音の自宅に勝手に上がり込み、新妻のようなエプロン姿でうっとりと溜め息の出るような微笑を浮かべるのは、やはりというべきか、押しも押されもせぬ世紀のセクハラ美男子こと、有堂未来(ウドウ ミキ)の姿であった。
 ミキは花のように美しい仕種できょとんとする。
「何って? ご主人様が帰ってきたのを迎え入れてるんだよ」
「ご主人様ぁ!?」
 仰け反って見下ろすと、滲み出るような優しい笑顔が向けられた。それだけで雨音の単純な脳みそは噴火しそうになる。大慌てでぶんぶん首を振り、笑顔の残像を消すように言い放った。
「また変なプレイとか考えてるんでしょ! ともかく言ったでしょ! わたしに断りなく勝手にうちにあがらないでって!!」
「プレイだなんて。これはそんな幼稚な遊びじゃなくて、ちゃんとご飯も作って、お風呂もタイミング合わせて用意して、オレもエプロンの下は準備万端臨戦態勢っていう本物の新婚家庭の実践編だよ」
「後半がおかしいでしょー! っていうか、新婚家庭って何よ!!!」
 ミキがどんなに卑猥だとて、その口から『新婚家庭』などという甘い単語が出てくるとドギマギさせられるからいけない。雨音は早まりだした心臓を堪えるように両手を胸に当てると、
「け、け、結婚なんかした覚え、ない、し」
と蚊の鳴くような声で付け足した。
 途端に、三つ指から立ち上がったミキが距離を縮める。
「本当に雨音の希望を叶えてあげただけなのに」
「わ、わたしの希望!?」
 玄関ドアに阻まれてこれ以上逃げ場のない雨音は、近すぎるミキとの距離に目眩を起こす。
 そのままミキは、蕩けるような声を直接脳に響かせた。
「だって、家に帰ったら、灯りのついた部屋と、美味しい食事と、その上オレが待ってたら、嬉しいって思うでしょ?」
 ドクン、と胸が弾ける。
 雨音は今にも折れてしまいそうな膝をふるふると震わして、その言葉を反芻した。
 灯りのついた部屋と、美味しい食事と、その上オレが――
「別に、有堂くんは――」
「オレが待ってたら、嬉しくない?」
 雨音の言葉を隠すように、ミキの長い指が唇を押さえていた。
 その感触だけでも勘違いできるくらい、甘い。
「雨音は、嬉しくないの?」
 見つめちゃいけない。
 そう思うのに逸らせない真っ直ぐな瞳は、星が瞬いてそうなほど美しい。
 綺麗な長い睫毛が憂えるように瞳を覆っている。
 鼻梁から唇にかけての優雅なラインは、雨音だけを向いている。
「あ、あ」
 一瞬腰が抜けたかと思ったら、ミキの力強い長い腕がしっかりと支えていた。
 体中を自分の心音が駆け巡ってる。腰に回されている腕がしなやかながらも男性らしさを強調している。近すぎる顔は眩しくて、目から火花が出そうだ。息ができない。息が。息が。
 最後の息の根を止めるかのように、ミキが星屑のような言葉をもたらした。

「オレは雨音のこと、こんなに待ってたのに。ずっと雨音のことだけ待って、生きてたのに。雨音はオレがいなくても、寂しいって思ってくれないの?」

 ドーーーーーーーン!
 頭が弾けた。
 脳みそが沸騰して、吹き出した。
 鼻血が飛び出たかと思った。
 体がぐんにゃりと反対側に折れ曲がった。
 完全に仰け反ってしまった雨音をもしっかり強く抱えたミキは、雨音を狂わしたその美貌に似合いすぎる、甘い甘いセリフを口にした。
「おかえりなさいご主人様。ご飯にする? お風呂にする? それともオレと、めくるめく愛の長い夜の帳をおろす?」
 ……もうどんな抵抗とて起こす気にはなれない。
「……わかった。オレを選んでくれるんだね」
 雨音は美麗な笑みを浮かべる天使にお姫様抱っこされると、返事をする前に、狭い部屋の奥のベッドへと運ばれた。



「雨音」
 上から落ちてくる言葉は魔法のように体を雁字搦めにしている。
 ぼうっと見上げると、一片の美しさも損ねていないのに、そこには色を匂わせたオスの表情をしたミキが、雨音の両脇に手をついて見ている。
 雨音はそのまま視線を漂わせた。
 ミキのややはだけた胸元から滑らかな白い肌が見えている。
 自分なんかよりも余程きめの整った美しい肌をしている。
 あれに触れたら、気持ちいいだろうか――
 ミキの喉がごくりと唾を飲み込んだのがはっきりわかるほど動いて、ハッと現状認識能力を取り戻した。
「ま、待って有堂くん、わたし――」
「雨音」
 たったひと言。ただ名前を呼ばれただけで、自分はどうすることもできなくなってしまう。
 なぜだろう。
 どうして。
 ミキのことが好きかどうか、まだわからない。
 ミキだって、雨音のことをどこまで本心から望んでいるのかも。
 でも、いつもセクハラばかり、いやらしいことばかりで、何を考えてるかさっぱりわからないミキなのに、今日はどこか違う。
 さっきのセリフもそうだ。
『オレは雨音のこと、こんなに待ってたのに。ずっと雨音のことだけ待って、生きてたのに』
 その言葉は、何よりも強く雨音の心を打った。
 そこにはミキの本心がこもっているような気がした。
 切ない表情のミキは、目尻をやや赤く染め、苦しげに雨音を見ながら、小さく告げた。
「雨音が、欲しい」
 ――そんなにわたしのこと、望んでくれてたのかな。
 雨音は胸がいっぱいになった。
 ずっとひとりだったミキ。
 ずっと満たされることのなかったミキ。
 そのミキが、ただ自分のことだけは待っていて、欲しいと言っている。
 時々瞳に現れる、ミキの本音。
 それを覗いてしまえばもう決して逆らうことのできない力を持ってる。
 今もまた、ミキの瞳には同じ力が現れていた。
 そしてそれは嘘は絶対に吐かないと告げていた。
「……雨音」
 いつもはあんなに図々しく雨音の領域に踏み込んでくるくせに、今のミキはなぜだか遠慮がちに、むしろ怯えていて。
 そうっと雨音の額から頬を撫でる手が微かに震えてるのを感じると、泣きたくなった。
「ダメ……?」
 その顔も泣きそうに見えた。
 雨音はただ、そんな顔を見たくない。させたくないと願った。
「――いいよ」
 願ったら、言葉が自然に出ていた。
「有堂くんがそれで満たされるなら、わたしのこと、あげる」
 お互いがそれで幸せになれるというのなら。
 ゆっくりと、ミキが体の力を抜いて、雨音に体重をかけてくる。百戦錬磨のはずのミキが、まるで初めて女の子に触れるかのように緊張している。雨音に対してはその殻を脱いで本当の、昔の柔らかい優しいままのミキで雨音に応じようとしてるのがわかる。
「雨音……」
 ミキの瞳にちらりと炎が宿ったのを見て、とくん、と胸が熱くなった。
 これから、自分はミキのものになる。
 ミキが望んでくれるから。
 そして自分も、ミキのことを――――
 覆い被さるように、薄い形のいい唇が、雨音の目尻に落とされた。
「泣かないで」
「!」
 本当に泣いていたことに気づかなかった。
「オレのせいで泣かないで」
 でもそれはきっと、喜びだから。
 怖いんじゃない。決してこの状況が嫌なんじゃない。
 ミキの柔らかい唇が何度も何度も目尻に吸い付く。ちゅ、ちゅ、と音を立てて、雨音の涙を消そうとする。だから雨音は笑った。
「大丈夫だから」
 はっきりと告げる。
 緊張していないと言ったら嘘になるけれど、ミキにだったら何もかも預ける気でいる。だから。

「――お願い」

 触れあった鼻でじゃれ合うようにしていたミキが、ぴたりと止まった。
「――――」
 言おうと思った言葉は、初めて交わす甘美で切ない口づけに柔らかく呑み込まれ、ミキの手がゆっくりと雨音の服の裾から這い上がって直に触れた。



「――――んわあああああああああっっっっ」
 勢いのままにベッドから飛び出した。
 ピチピチと、小鳥のさえずる声がする。
 土曜の、陽気のいい朝だった。
 早朝の起き抜けだというのに心臓がバクバクいっていて、とても体に悪い。その場からきょろきょろと左右を見回し、自分1人と知って安堵する。
「……」
 とんでもない夢を見てしまった。
 赤面はもう既に全身に及んでいる。
 わた、わたしったら、なんと、なんというはしたない夢を……!!!!
 思い出すことすら恥じらわれるような卑猥な夢だった。
 人生においてそういう経験は全くないくせに、それらは全てうやむやでありながらも何事か行われたという形となっていたのだ。しかもその相手はあの有堂未来で、自分はミキと、合意の上、致してしまったのだ!
(信じられない、夢のわたし!!)
 その理由だってなんだか捏造甚だしい。何がミキが望むからだ。何が嫌じゃないだ。冗談じゃない!!
「夢の中のわたしの、馬鹿っっ! ってゆーか、そんな夢を見たわたしも大馬鹿っっっっ!!」
 大声で叫んだ時、ガチャガチャとドアが開く音がして、ぎょっとした。
「おはよう雨音! 夕べはぐっすり眠れた?」
「ひっ――――」
 いきなり全ての元凶が現れ、さっきのはやっぱり夢じゃなかったのか、もしや現実かと雨音はパニックに陥った。
「やっ、なっ、うっ、どっ」
「……? どうしたの雨音苦しそうに。もうオレの子でも身籠った?」
「!?」
 なっ、なっ、なっ、なんだってぇぇぇえええええええ!!!
 大慌てで口とお腹とを手で押さえる。
 てことは本当に夢なんかじゃなく、本当の、本当の、本当だったのか! しかも初めてのたった一発で当てちゃったなんていう種馬の名に相応しいものを頂いてしまったのか!?
 確かに考えたら夢にしてはやっぱり生々しかったような気がする、という変な回想で、しばし茫然自失になる。
 じゃあ、じゃあわたしは、本気で、有堂くんのことを、受け入れ――……。
 あまりに反応がおかしかったからだろう。玄関から一足飛びに雨音の傍までやってきたミキが、パジャマ姿の雨音の顔をじっと覗き込んだ。
「本当に雨音は初心だなあ。本気にしたの?」
 ……へ?
「あのね、男女ってのは喋ったり仲良くしたりするだけじゃ妊娠しないんだよ。今時幼稚園児だって知ってるよ。保健体育で習ったでしょ。大体オレがそんなヘマするわけないじゃん。それとも何、心当たりがあるわけ? まさかこの間一緒に寝た時にオレの知らないところでオレを襲ったりしたの! なんだよ、そうならそうと早く言ってよ。オレあの日結構熟睡しちゃってたから気がつかなかったし、惜しいことしたなあ。え、てことは騎乗位? 雨音ってけっこう大胆だったんだ。うわあ、マジかよ。そうだもっぺんヤってみない? 恥じらう雨音の騎乗位って燃えるかも」
 ……て、ことは、やっぱりあれは、夢であって、全部わたしの妄想で――
「って紛らわしいこと言うなーーーーーーあ!!!」
 両耳を塞いで仰け反るミキに、朝から雨音の爆撃が落ちた。
「なんだよ紛らわしいって。嘘、本当にコウノトリとかキャベツ畑とか信じてんの? 雨音、そりゃマズいって、ちゃんと男女交合の方法は正しい知識として持っておかないと。『カーマスートラ』貸してあげようか。大体人間におしべとめしべはないでしょ。その代わりペ――」
「ってゆうかなんで朝から有堂くんがうちに勝手に来てんのよ!! わたしが起きてなかったらどうするつもりだったわけ!?」
「だって雨音がいる時ならいいんでしょ。っていうかもう朝じゃないし。もう夕方だけど」
「えええええええ!」
 慌てて時計を見たが、早朝かと思った時間は日が沈む時間帯だと知って、なぜだか落ち込んだ。
 あんな変な夢を見たために!
「さっき『おはよう』なんて言うから!」
「雨音、パジャマだし、頭寝癖ついてるから」
「キャッ!」
「今さらさあ隠すほどのことでもないじゃん。オレたち仲良くベッドを共にした仲でしょ」
「だから誤解を生むようなことを言うなーーー!!!」
「それよりもさ。さっき言いかけたこと。良かったらオレが実践編で教えてあげるけど? どうやって子供を作るか。ね、知っておいた方がいいって」
「ばっ馬鹿言わないでっっ! それくらい知ってますっ」
「え! 知ってるの? 本当に? じゃあオレに教えてみせてよ」
「変態は大人しく帰って!」
「せっかく夕飯作りに来てあげたのに。食べたくないの? オレの特製揚げ春巻き。冷製茶碗蒸しと鶏肉のピリ辛揚げも付けちゃうよ」
「うっっっっ」
 そう言われると起き抜けだというのにもうお腹が空いてくるから胃袋は現金にもほどがある。
 一連の雨音の動揺を見逃さずににんまりと綺麗な顔を歪ませたミキは、まるで全部知ってるかのように楽しげにこう言った。

「それとも、お夕飯の前にオレを食べますか? ご主人様」

 ――おかえりなさいご主人様。ご飯にする? お風呂にする? それともめくるめく愛の長い……――

「帰れーーーーーー!!」
 夢を見たことすらも忘れようと、雨音はカッカしておさまらない顔を精一杯怒り顔にシフトした。

(おわり)  

 

2008.7.6