ステップス特別篇 1

鳴かぬなら 鳴かせるまでさ ホトトギス

* * *

「しまっっっ―――たあ……!!!」

 ワタシの人生って、ツクヅク『!』が多いと思う。
「寝坊! 寝坊よ、完璧に!! ああ〜〜まずいまずい、どうしよう、急がないとっ!」
 土曜日の今日。目に飛び込んできた壁の時計は10時を指している。がばりと起き上がると、目覚し時計をひったくるように見た。ヤダ! 今日ってば10時に学校行かなきゃいけないんじゃなかった!? 今まさにその10時じゃなくて!?
 今日は寒いらしい。身震いしながらワタシは着替えるためベッドから這い出そうとして、重い何かが腰に絡み付いて思うように動けないことに気がついた。
「…ん?」
 何かを見る。膨らんだ布団。もぞもぞと動き出す物体。目がカチリと合う。
「オハヨ」
「ギヤー!!!!!!!!」
 この再度の悲鳴にはさすがに耐え切れなかったらしい。潜り込むようにしていた布団からはいずり出た人間は嫌そうに流し目をくれている。もう少し静かにできないの? と枕にうずめるその顔を見て、ワタシは顔面蒼白になった。
「なんで…なんでなのよ、なんであんたがここにいる――」
 言いかけてワタシは失言した。
 だって、昨日彼をここに泊めたのも、そうさせたのもワタシだったと思い出したからだ。
 ――そ、そうだ、しまった〜〜
 思い出して冷や汗が大量のあぶら汗に変わった。何言ってんのよワタシ、自分で決めたことなのにあっさり忘れて。カ〜っと熱い頬に手をあてると肩からずるりと布団が落ち、現れたのはむき出しの腕や胸や臍や何か。なんだ服着てないじゃん、どうりで寒いと思ったわよ。
「って違うでしょ!」
 自分で自分にツッコミを入れてようやく事態を思い出した! 慌てて毛布をかき寄せる。
 これはただの添い寝ではない。何を隠そうワタシは昨日、彼に告白してしまったのだから。自分から「あなたが欲しい」なんてセリフ柄にもなく吐いちゃって、あれはどう考えても恥ずかしい。思い出すと尚更恥ずかしい。思い出さなくても恥ずかしい。なんにせよ恥ずかしい!
 ――そ、そうか。ってことはもう、ただの生徒じゃなくて、その、なんだよね
 ワタシは毛布を頭からすっぽりとかぶって、隣りに眠る男、倉本悠也(くらもと ゆうや)を眺めた…。

 自分の勤め先である男子高校の1生徒に、ワタシはとうとう陥落してしまった。
 男性経験が乏しい、いや正確に言うなら皆無のワタシにとって、倉本悠也という男の子は未知以上の存在だった。
 化粧っ気もなく、女らしいわけでもなんでもないワタシが、彼に触れ彼の一言に出会う度変わっていって、すんなりと脱皮できたのは、彼の言葉がいつも真っ直ぐだったからかもしれない。そうして、いつの間にか彼に惹かれ、彼を信じ、彼の言葉を真摯に捉えたいと切に願うようになっている自分がいて、ワタシは気がついたら倉本を求めていた。
 ベッドに沈み込んでいるその姿を眺める。一体誰が、こんなワタシとまだ高校一年生の彼が付き合うなんて考えただろう。7つも年上で、教師である、ワタシと…。
 腰に絡んでいる腕が暖かい。倉本ってば、一晩中このままだったのかしら。しどけない肩と気だるい体の動きが色っぽく、枕にうずめた頭はちょっと癖がついてて母性をくすぐる。倉本のこんなアンバランスなバランスの良さが、ワタシを煽るのかもしれないな…
 …なんて…言ってる場合じゃないんだった! 遅刻だチコク! この腕を外さなきゃ!
「ちょっと倉本っ! ワタシ、ガッコ、学校行かなきゃ行けないんだけど!」
 眠れる獅子はまだ反応しない。倉本の腕のせいで微妙に起き上がれず、距離としてはとても近い不自然な体勢のままもう一度揺さぶってみる。
「ね、ね、チコク! チコクしてるのよ、ワタシ。当直なんだってば」
 テニスで鍛えた形良い腕の予想外の力強さに苦戦しながら、ワタシは体に感じているなめらかな肌の感触にドキドキしていた。未だ成長過程という若さが大人の男性ほどゴツゴツしてなくて、このままこの腕の中で寝たらさぞかし気持ちいいだろうななどと思ってしまう。寒い冬の朝、暖かい腕に包まれて素肌のまま一緒に入る毛布の心地よさ…
 はっ、いかんいかん。ワタシったらすぐに脱線する。
「ね、ねえ〜〜っっ」
「…くれるなら」
「ん?」
 ようやく反応しだした言葉を聞き取れない。ワタシは耳をもぞもぞとする倉本の方に近づけて聞いた。
「なんて?」
「結花ちゃんが…くれたら」
「…くれたら?」
「…考えてあげる」
「なにを?」
「キス」
 う゛っ――当然倉本から体を仰け反らした。
「い、いくら――(こんな関係になった)――とは言え、そ、そんな――(キス)――なんて、無理、無理に決まってるじゃないっ! ワタ、ワタシからそんなこと、そんなこと、そんなことっっ」
 カァーっと顔に血が上って、もごもごと口ごもりながら可愛げもなく反抗してしまうのに。
「ば、バカ言ってないでよ!」
 しかし倉本は。
「早く電話して、休むって言いなよ。一緒に、もう一眠りしよう」
 横を向いて見上げられたら。色素の濃くない瞳から鼻梁にかけてのライン、その下で柔らかそうにかすかに微笑んだ唇、唇から発せられる声、少し尖った綺麗な顎、しなやかに伸びた肩、その先の形のいい手。その全部がワタシを誘っているなんて。なんて!!
「――ね?」
「ね、寝ないぃ!」
 半べそのままうだうだ抗っていれば、とうとう倉本は起き上がった。するすると腰から腕が抜けて、ワタシの体はようやく自由を得る。なのに動けない。彼のすんなりとした上半身がまるでシルクのリネンをまとったようになまめかしく、ぎゅっと毛布にくるまって全身を隠しているワタシに近づいてきたからだ。窓から差し込む光が一瞬影になる。息が止まる。ぶつかり合いそうな睫毛と動けば触れそうな唇がワタシの注意を見事にそらしている。そして北風と太陽の勝者のように簡単に毛布を奪って行く。
「わっ」
 焦っても遅い。イタズラっぽい視線が山猫のように素早く捕らえて言ったのは。
「なら、違うことする…?」

 めまいがする。ノウサツってこういうこというんだ…

* * *

「結ー花ちゃん」
「なに!」
 ビクッとして廊下で振り返ると、そこにいたのは顧問をしているテニス部の1年生たち。『結花ちゃん』なんて呼ぶのは彼らしかいないのだけど、ビクついてしまうのはこの際仕方ない。
「結花ちゃんこそ、ぼうっとして」
「えっ? あっ、あはは」
「まだ風邪治らないの? 顔が赤いよ」
「! …ええ! そう、そうなの。本当に、熱がひかなくて」
 生徒達が心配してくれるのをいいことに、その場を適当に誤魔化してワタシは逃げるようにたち去った。英語科教員室で一息つくと、どっと疲労がでる。

 もちろん本当の熱なんてない。じゃあなんでこんなに赤いかって、先週のあのあられもない倉本とのやりとり。一週間毎日、この同じ記憶がリピートして止まらないのだ。本当はその前の日のこともあるんだけど、それは余りにも恥ずかしすぎて、ここでは語れない。とにかく今ワタシは淫乱教師のレッテルを貼られても仕方のないくらいおかしな回想に脳を支配されている。
 あの土曜日は結局、通院する為に遅刻しますという話になってしまった。だって電話連絡の最中横でイタズラする倉本のせいで、ひきつった声が『風邪ですか?』という誤解を生んで、ワタシは風邪をひいているということになっちゃったんだもの。今更「いいえただの寝坊です」とも言えなくて、風邪気味の演技なんてオマケまでくっついてしまったわよ。6日経った今も演技を続けている理由はこっちの勝手な事情だけど…。
 当の倉本はブーイングを言いつつも、さっと支度をして帰って行ったっけ。その辺大人と言うかこっちが引き止めたくなるくらいさっぱりしている。男女の初めて迎える朝としては少々色気も名残もないけれど、ワタシの責任だから仕方がない。まあ、変に意識して気まずい思いとかしないで済んだし、その、色々ぎこちないのも誤魔化せたし…はぁ、ワタシ本当に大丈夫だったのかな。なんか記憶が曖昧で、バチバチとんでるけどヘンなとこだけ覚えてるというか、何回考えても信じられないのよね。土曜は学校でも家に帰ってからもなんか体がギスギスしてて…ってまた、だから思い出しちゃだめ〜〜!
 邪念を振り払うように両手を頭の上で振ってみたけれど、同じところにたどり着いてしまうのを避けられない。ああもうイヤ。こんなことを考えてるって知れたら絶対教育委員会から追放される。でも隙あらばワタシの思考に入り込んできて、体力を奪っていくんだもの。これだから一週間まともに倉本の顔も見れなかったし、会話なんて死んでも避けたのに。メールも電話も全部おざなりにしたのに…。
「はあ〜〜〜」
 自席につきながら、自然溜め息ばかりついた。すると2年生を担当する久波(くば)先生が振り返る。
「覇那町(はなまち)先生、風邪がおつらいんですか?」
「風邪…? ああ! ええ…」
 嘘臭い笑いのワタシにも、優しい先生は心配そうに聞いてくれた。
「この後って、1年Aクラスの自習でしたよね? 駄目そうならあまり無理せずに、別の先生を探しましょうか」
「あ、いえ、そこまでは」
 ワタシは顔の前で激しく手を振って思案する。
 Aクラスの自習。それはAクラスの英語を担当している先生の子供が怪我をした為に早退したので、急遽ワタシが引き受けることになってしまった授業のことだ。でも単なる監督とは違う。
 ――Aクラスには、彼がいる。
 ワタシはビクリと反応してしまう体を必死に抑えて、今日ずっと考えていた。
 自習の内容は簡単。毎週やっているらしい小テストと指定された範囲の予習を、時間内いっぱいやらせておけばいい。ただその監督をして、テストを集めるだけ。なんだけど、倉本のクラスに入って、彼がいる前で教師然としてなきゃいけないのは無理。いると思っただけで体が消えたみたいにフワフワしてるのに、本人を前にしてとても正気でいられるかわかったもんじゃない。
 ――そりゃあ、彼に会いたくないわけじゃないけど…。
 ワタシときたら、恥ずかしさとどんな風に立ち回ればいいのかの困惑が先に立って、大人の社会人としての立場を見失っているのだ。第一、土曜の朝のあの短い時間でさえ心臓が破れるかと思ったのに、今倉本と会ったら、多分ワタシの体は崩壊してしまうもの。それくらい気持ちが上ずって、動揺しているってことよ。
 これでも倉本がウチに押しかけてた時は、何とかやってたんだよね。あの頃はまだ、自分の中の気持ちが固まってなかったからかしら。わからなかったから被害者意識でいられたのかもしれない。でも今は違う。自分の気持ちがわかるだけに、無視するなんてこと、絶対出来ないに決まっている。そんな中で、<先生>をしなくちゃだなんて…。
「無理なさらない方がいいですよ。落ち着いた生徒の多いクラスだって話ですし、ホラ、顧問してるテニス部の生徒なんかもいるんでしょう。最悪彼らの自主性に任せても問題ないと思いますし」
 優しい顔をした久波先生はうんうんと眼鏡をずりあげながら、色々と言って下さる。
 ある意味面白い状況ではあるのだろう。ようするに、ワタシに意気地と恋愛経験が足りないだけなんだろうけど。でも、緊張だけでこんなに体が変になったことは今までで一度もない。試験も面接も教育実習ももっと落ち着いてたような…。
(…ううん、監督だけなんですもの。黙って座ってるだけなんだから、なんとかなるって……多分)
「本当に大丈夫なんですか?」
 久波先生の心配顔が疑っているように見える。ワタシは曖昧に笑いながら、どうせこの先逃げられないのだし、この状況にちょっとずつ慣れなくちゃ、と自分を慰めると、勢いよく立ったものの、腰がひけている自分にやっぱり溜め息をついたのだった。

* * *

 ガラガラとドアを開ける。
 予想と違う人物の登場に、一瞬声を失う生徒達。ワタシはガチガチに固まった体をぎこちなく教室に押し込んだ。
「み、皆さん、マナベ先生のこの時間は自習となりました。この時間ワタシが担当しますので、よ、よろしくお願いします。出席を取ったら予定していた小テストを実施します」
 声が上ずってる。えーという反応。ワタシは教壇にあがると、天井の電灯と教卓を交互に見ながらざっと席を見回すふりをして「全員出席ね」といい加減なことを言った。生徒達がビックリしている。
 絶対に生徒達の顔を見ないようにと目を泳がせて、心臓を必死で止めることばかり考えてると頭が回らないようだ。額にはうっすら汗。「いつも通り15分で解いて下さいね」と同じく湿った手でプリントを端の列からまわし始めると、早々に声があがってこわばる。
「結花ちゃん緊張してるのー?」
 思わず声の主を見た。テニス部の子だ。やだ、脅かさないでよっ。幸い目をやったその周囲に倉本の姿はなかったのでホッとしつつも警戒を緩めない。
「ち、違いますっ。ちょ、ちょっと熱があるのよ。それから授業中は『覇那町先生』でしょっ」
 ワタシは威厳を作って言うと、次の列に移動した。どこかにいるであろう人物を極度に意識しながら配っていくのは疲れる。前の列の机に足を引っ掛けながらどうにか移動し、ド近眼になったつもりでプリントの枚数を数え配り続けた。――が。
「!?」
 最後の列にテストを渡そうとしたその時、プリントの裏側で、差し出すワタシの右手にどう考えてもかぶさって紙を持つ左手が現れた。思わず相手の顔を見て、一気にボルテージが上がる。
「あ、あ」
 馬鹿みたいおろおろしながら、どもった。ゆっくりとニヤけた顔の倉本が、ワタシを見返している。ほぼすっぴんに近いワタシの顔がみるみる赤面していくのを感じて、ワタシは焦りに焦ってそのまま手を引こうとした。だけど離れない。他の子も見ているだろう中、テスト用紙がワタシと倉本の間を右往左往する。倉本の手は紙の下でワタシの指をなぞって、赤味が更に増す。倉本がゆっくり口を開いた。
「センセー。紙離してくれないとテスト回ませんけど」
「あっ、そっそうねっ」
 紙を離せばよかったのか。触れた指先にドギマギしたのを隠すように、感触残る右手を体の後ろに隠した。彼は優しいのか意地悪いのかわからない微笑で「どうも」と言った。
 ――ま、まったく、なんて子なの〜っっ
 教壇に戻りながら指先を握り締める。1度見てしまったら目が離せない倉本の顔をもう一度盗み見ると、まだニヤついたままの笑顔がそこにある。
 ヒ、ヒトの気も知らないで〜〜
 これ以上ないくらい波打ってる心臓の辺りに、拳を当ててみた。思い切り走った後みたいにドクドクして、止まりそうにない。こんなままじゃ変に思われちゃう。落ち着かないと。
 なのに、考えを止めようとすればするほど、つい先日起こったばかりの信じられない記憶が甦ってしまう。
 あの倉本が。ワタシ、倉本と…。ああ、もう、どうしよう…
「先生ー、プリントまわりましたけどー」
 突然妄想(?)を打ち切るように生徒の声がした。やだっ、また回想にひたっちゃってたみたい、慌てて返事をする。
「はっ、はいっ! あっ、じゃあ、はじ、始めてくださいっ」