柚子林檎初恋のハナシ。 2



 体の中を駆け抜けてくような緑の爽やかな風が、5月の蒼い季節を気持ちよく通り抜けた。
 ゆずが友達と別れて家までの道を歩いていると、見慣れた後ろ姿がかばんをひょこひょこさせながら歩いていた。
「ほくくん」
 振り返った北斗がぴたりと立ち止まる。
 自分は年上だから見かけたら声をかけてあげなきゃいけないと感じていたゆずは、北斗と同じところまで辿り着くと努めて優しく話す。
「ねえ今日うち来る日だよね。実はね、急に友達と出かける約束しちゃったから、もし良かったら夜からにして欲しいんだけど。7時半くらい」
「…いいよ」
 色々言われたり拗ねられたりすることを想定していたゆずは、このあっけないくらいの簡素な返事にほっと胸をなで下ろした。むかし北斗を本気で怒らせ泣かせて、すごく気まずい思いをしたことがあったのだ。ゆずは「ごめんね」と顔をのぞき込むようにして謝ったが、北斗はちょっとつまらなそうに俯いた。あ、やっぱり怒ってるのかな、とゆずは慌てて取りなしにかかった。
「その代わりさ、今日の夕飯ほくくんの好きなものいっぱい出してもらうよう、ママに言っとくから。あとお土産買ってくるね。何がいい? お菓子?」
「いいよ」
 北斗は少し気色ばんだが、ゆずは強引に話をまとめあげた。
「いいっていいって。それじゃ、また後でね!」

 その夜。約束の時間までに帰ってきたゆずが部屋で待っていると、7時半を少し過ぎたくらいに部屋をノックする音がした。
「どうぞー」
 がらがらと引き戸を開いた北斗が、入り口のあたりにわだかまって、黙っている。
「どうしたの?」
「あの……夕飯だって」
「うん、わかった。すぐ行くから、ありがと」
 そうして北斗が行ってしまってから、ゆずは北斗がノックしたことに思い至った。
 あれ、北斗ってば、少しは大人になったじゃん。
 正直ちょっと得意げな気持ちになった。ゆずは気取った様子でリビングへと向かう。もう勝手に席について食べ始めていると思っていた北斗は、いつもの席にぽつんと座ってうつむいている。
「あ、やったねほくくん。豚汁にコロッケだよ」
「…うん」
 そこでもまた、あれ? とは思った。食事が始まっても、北斗はあまり喋らなかった。好きなものばかりついばむのはこれまで通りだったけど、ゆずが話しかけても「ああ」とか「うん」とか間投詞ばかりが戻って来た。それで、ゆずも少々みょうな気分になった。
「ほくくん、例のゲームは進んだの?」
「やめた」
「えっ」
 そうして、気がついたら先に食べ終わって、お邪魔しましたなんて結構なこと言いながら、北斗は帰ってしまったのだった。
 ゆずは唖然と、見送った。
 北斗が夢中だったあのゲームをあっさりやめるなど、驚きだ。
 だがまあきっと、移り気な彼のこと。別のゲームに対象が移っただけだろう。そう思い込んで、いたのだけれど。

 気づいたら、北斗から「ゆず姉ちゃん」と呼ばれなくなっていた。
 言葉遣いが変わり、口数が減っていた。
 ゆずが何気なく触れたら、すっとかわされるようになった。
 いつしか、「今日はうちにくるの?」と誘っても、そっぽを向いて「行かね」と、来なくなった。
 学校の帰りに見つけてゆずが話しかけても、両隣の友人にひじでつつかれれば怒って「話しかけんな!」と言うようになった。

 目を、合わさなくなった。

 外は憂鬱な雨ばかりで、じめついた季節が夏の到来を告げている。
 いつものように窓枠にぼんやりと肘をついているゆずの頭の中には、気がつくと北斗のことばかりである。
 近頃の北斗は、着られていた制服が縮んで、ぼさぼさだった頭には、校則違反の整髪料のあとが見受けられる。
 なにか北斗の気に障ることをしたのか、ゆずのことは完全に無視してたけれど、廊下でたまに、クラスの女子と楽しそうに話しているのを見かける。
 なんでだろう。なんでだろう。
 ゆずにはまるっきりわからないけれど、胸の奥の奥が痛んで、ぎゅうと手で押さえつけないと、こらえきれないような気持ちが去来する。
 外は暗い。

 プールの水をぶちまけたように、夏の大雨が降り注いで、雨だれが痛いくらいの日。
 友達と帰りそびれて、置き傘のなかったゆずは、激しい雨を避け、ときどき雨宿りしながら帰っていた。
 ちっともやみそうにないし、もうここまで濡れたならびしょ濡れになってもかわりない。諦めて屋根の下から飛び出ると、雨はいっそう激しくゆずの体に叩き付けられる。
 悪くなる視界の中、必死に泳ぐようにかき進んでいると、激しい水の音の隙間に「ゆず!」という声が自分のかばんをつかまえた。
 北斗が、怖い顔をして見ていた。
 数秒間、目が合った。
 濡れたはずの体が、熱かった。
 北斗は、投げ捨てるように傘を押し付けて、走り去っていった。
 その瞬間。
 北斗の傘の柄をつかんだ瞬間。
 ああ自分は、北斗のことを男の子として見てる、と確信していた。



 正直、雨中に進むゆずを見たとき、カッと体が熱くなり、よくわからない腹立ちが襲った。
 濡れたゆずの制服を見て、見てはいけないものを見た気持ちで、だからゆず! って思わず怒鳴った。

 素直になれなくなったのはいつからか。
 中学にあがるまで自分がどうやってゆずと喋ってたのか、思い出せない。まるで林檎を食べたアダムとイブのようだと思う。
 声が真っ直ぐ出なくなる。クラスの女子とはいくらでも話せるのに、ゆずの前に立つともう、その時間が苦しくて、なにをしていいのかわからなくなる。
 気がついたらゆずと距離をとって、気がついたらゆずのことばかり考えて。
 この矛盾をどうすれば解消できるのだろうと頭の片隅で考えている。それが煩わしい。

 ずぶ濡れて帰り、母親に怒鳴られるのを無視して部屋に転がり込むと、頭の中はますますゆずのことばかりになった。
 考えたくないのに、布団にもぐりこんでしまうと、もう遠い昔、ゆずの触れた腕や、ゆずの部屋で嗅いだ匂いを思い出している。
 またひとつ矛盾が起こり、北斗は苛立たしげに叫ぶ。
 忘れろ。ムカつくことなんて。
 ゆずのことは忘れ去るべき、というのが、今の北斗に出せる唯一の答えだった。


Fin