柚子林檎初恋のハナシ。 1



 4月の教室の窓から見る桜の正門は賑やかで、あちこちに春が届き花やぎに満ちている。
 新入生のぱりっとした濃紺の制服や、風に乗って届く明るい声、少し学校生活に慣れてきた雰囲気のこの2年生の教室も、こうして教室から頬杖でぽかぽかした外を眺めている自分も全部春の中にいて、正体のわからないときめきのような楽しさがあふれだしてる。
 中学校に入った1年前の時も初めての世界にどきどきしたものだけれど、こうして1年経った今は今で、また新たな期待のようなものを抱けていることが嬉しかった。そういう中で常に変わらぬものがあるというのも、逆に時間の重みを感じさせてくれるものなのかもしれない。
「ゆず姉ちゃーん!」
 のどかな想いを裂き上級生とか男とか女とかそんな境界線軽く踏み越えてやってくる声に、ゆずは半分呆れた気持ちと半分恥ずかしさで顔を腕の中に埋めた。先輩がこんなにいるのに大声でひとの教室にやってこれるのは、空気の読めないあの人物しかいないとゆずには当たりがついていた。
「ゆず姉ちゃん!」
 ぎょっとしたクラスメイトたちの視線が恥ずかしくて、ゆずは素早く「なに!」と振り返り、急いで教室を出た。姉ちゃん姉ちゃんと言ってはいるが、北斗は弟でもなんでもない。1つ年下のたんなる近所の子だ。小さな頃からゆずに懐いてて、ゆずも小学校中学年くらいまでは弟のように思って可愛がっていた。昔は友達が「いいね」とか「かわいい」とか言うから得意げにもなったけど、中学2年にもなった今は、依然変わりなくまとわりつかれる行為が恥ずかしくて仕方がない。だがようやく小学校を卒業して中学生になったばかりの北斗に、ゆずの気持ちなんかがわかるはずもなかった。
「あのさ、今日も行っていい? どうしてもわかんないとこ、攻略調べたい」
「…わかった」
 はあと溜め息はあからさまにつかないものの、ゆずは軽く頷いて少々素っ気ないくらいの態度で返事する。北斗はそんなゆずに気づいた様子もなく「じゃ学校終わったらね!」と勢いよく駆けていく。満足なのだろう。
 北斗はしょっちゅうゆずの家に出入りしていた。未だゲームだ漫画だと子供っぽいものに夢中で、自分ちにないPCがゆずの家にあると知れば、ゲームの攻略サイトを見たいとほぼ毎日ゆずの家に上がり込んだ。友達の家に行けば? といつか言ったが、相手の知らないことを調べ出して勝ちたいからだめ、という回答が戻ってきただけだった。身なり1つ気にも留めないで、寝癖の頭とパジャマの上にトレーナーでやって来たこともある。北斗のそういうところはゆずが中学に上がっても変わらずで、多少年上であることを意識してるらしいが、後は小学生の女の子に相対するのと同じに思えた。
「まぁ、しょうがないか」
 年が近いとはいえ1年の差はきっと大きい。女の子であるゆずの方がやっぱり精神年齢は高くなるものなのだろう。別に北斗が嫌いなわけではないゆずは、たんに同級生にからかわれるのが恥ずかしいだけで、後はどうでもよかった。だから、教室に戻った時あれこれ言われたことも「近所の子だから」というひと言で軽く済ませた。



「ねえ、このモンスター表だけ印刷したいんだけど、どうやんの?」
 学校からいったん家に戻ったのだろう。着られてます、という感じの大きな制服から、いつもの小学生みたいな服装に着替えた北斗は、ポータブルのゲーム機だけ手にして、来るなりゆずを呼んでリビングを占拠した。操作がわからない時にすぐにゆずに助けを求めるためだ。あまりに入り浸るので、北斗のお母さんが行ってもいい曜日を決めたが、こうして臨時に押し掛けてくることもあるし、逆にゆずが友達と出かけて不可の日はじりじりしてたらしく、同じ学校へあがった途端に日中先約をとりつけるようになった。律儀に相手する必要もないのだけれど、外見も中身も子供にしか見えないから、無碍に断ると泣き出すんじゃないかと思って、なんとなく断れないでいる。
 ゆずはいつものように部屋の隅で壁にもたれて雑誌を読み、PCの前を占領してゲームの音をガチャガチャさせている北斗の相手を時々してやる。やり方を教えてあげてうまくできると、満足そうに鼻を鳴らす北斗の横顔がますます幼いものに見えてくるが、こんな子供でももう中学生なのだ、と思うとまるで奇妙な気がするのだ。
 自分が中学に入った時は、在校生が全員大人に見えた。特に3年生ともなるとかなり雰囲気が違って、小学生と変わりないような1年とは雲泥の差があると強烈に当てつけられた。その差は特に男子に顕著だったろう。ともかく、ゆずは早く大人っぽい先輩のようになりたいとあれこれする努力をこの1年続けた。だから2年生になった今、余計に1年の北斗が子供にしか見えなくて、こっちが恥ずかしいような気がする。思い返してみても北斗はこうやってゲームばっかりやって、ゆずの部屋にもためらいもなくあがりこんだり、着替え中をのぞいて怒った時もあははと笑ってるだけのような鈍感さで。図体ばかりでかくなって中身は一生このままなんじゃないかと、なんだかいたたまれないような気がしてくる。
「ほく…くんはさ、部活とか、なにやりたいの」
「漫画クラブ」
 小さい頃は北斗のことを『ほくちゃん』なんて呼んでたけど、いつからかそう呼ぶのがためらわれ、仕方なくくんづけしてる。そうやってこっちがちょっと持ち上げてあげても、北斗はゲーム機から目を離すことなく、おまけに漫画クラブってとゆずは目を丸くする。
 まだ夕方には早い時間で、外は明るい。すぐそこの台所ではゆずの母親が夕飯の支度をしている。さっき鶏肉をたくさん用意してたから、北斗の大好きな唐揚げを作るのかもしれない。北斗はゆずのうちに来るとたいていご飯まで居座る。そういうの、ちょっと図々しいな、とかも感じる余裕もないんだなあ。やっぱり子供なんだとゆずは密かに徒労する。
 北斗が喋らないと部屋はしんとしていて、聞こえるのは壁の時計のかちこちいう音とゲーム機から漏れる音楽、それから母親の台所の音くらいだった。読んでいた雑誌の後ろ側に恋愛コーナーがあって、ゆずはちょっと北斗から隠すように雑誌を立て直してから見始めた。そこには片思いや告白した話、彼氏との初体験とかかなり年上の人との秘密の恋までいっぱい載っていた。その体験談を語っているのはどれも中学生から高くて高校生までで、世の中では日々こんなにもたくさん、女の子たちの上に恋が落ちていることを証明してた。自分だっていつか好きな人と、という思いは強いけど、幸か不幸かゆずには本気で好きな人なんていない。友達には「誰かいないの?」と聞かれれば芸能人以外でも一応口にする人はいる。でもそれは、友達が恋バナを楽しそうにしてるから自分もそれに倣(なら)いたいだけで、正直なところ「憧れ」に近い存在だと思ってる。「好き」だし「付き合ってもいい」とは思うけど、絶対絶対告白して付き合いたいか? と聞かれたらちょっと考えるかもしれない。そんな感じ。彼氏がいたら楽しそうだなあとは思うものの、リアルに付き合うこととのギャップが怖い気もしてる。
 例えば、この隣の失敗談コーナーを読むだけでも気をつけなきゃと身につまされるようなことがあふれてる。誰かと付き合ったら注意しなくちゃならないことがこんなにあるんだ、ってなんかげんなりする。ゆずは自分がドラマや小説の女の子みたいにいつ見ても完璧で可愛くて性格もいいわけじゃない、って知っていた。知ってるだけマシだと思ってた。だからきゃあきゃあ友達とアイドルのおっかけみたいに騒いで楽しむとこだけ楽しんでればいっかな、なんて考えてた。そりゃあときには寂しい気もしたけど。
 ぱたっと雑誌を伏せて、目を上げる。何度見てもここにあるのはゲームをしてる北斗と自分ちのつまらないリビングと母親というロマンスのかけらもない世界だった。唐揚げの匂いしかしない。『ケーキ屋さんでラス1のショートケーキを同時に注文、どうしようと思ったら譲ってくれました。それがきっかけで発展。今じゃわざわざ1個だけ買って半分こしてまーす』なんて甘い話、たぶん一生起こらない。ゆずは諦め半分で立ち上がった。
「夕飯、唐揚げみたいだよ。食べてくんでしょ?」
「うん」
 北斗は一瞬顔を上げると、キッチンの方を見て嬉しそうにした。その表情になんとなく母性をくすぐられてゆずは「唐揚げ、好き?」と尋ねた。北斗は「1番好き」と妙に男らしく豪語した。

 こんな北斗があんなに変わるなんて、誰が気づける? と、その時のゆずに聞いたならば多分そう答えただろう。