狼の愛


 毛ひと筋、爪の先ほどもあまさず君を食い尽くしたい
 この飢えをかわかすにはとてもとても足りない


 君を見初めたのは、爽やかでも、冷え冷えとした日でもない、陽射しのまばゆい初夏の午後だった。
 たゆたう水の光が顎に反射して、開いたシャツの襟は白く光ってた。
 目の前にある水は透明で、でも、僕の心はそれとは裏腹にどんどんと濁っていった。
 君の肌はしっとりと汗ばみ、きっと指先で触れたら柔らかな濡れた弾力が返ってきたことだろう。
 ぞわりと背筋を硬直させ、僕は君を眺め続けた。
 君は僕の視線に気付きもせず、ただ水の光に捕らわれていた。
 僕はそんな君を視姦し、熱と共に募る劣情を捻じ曲げることもせず、身を震わせた。
 危うく、欲望のままに、水の中に、突き落とすところだった。
 それが、僕が初めて君を殺した瞬間でもあった。


 それ以来、僕は君を殺し続けた。
 その綺麗な喉に両手をかけ、強く締めたことも。
 窮屈な箱に縛りつけ閉じ込めて、密封してしまったことも。
 巻き上がる炎の中に投じ入れたことも。
 でも君は、殺しても殺しても現れる。
 けして無くなることなく、僕を苦しめ続ける。
 殺しても殺しても死なない君は、愛しい笑顔で僕を地獄に落とす。
 僕を愛していると言って、僕を地獄の果ての果ての果てに突き落とす。


 君が僕を愛しているなどと言わなければ、
 僕はきっとこんな痛みに耐えることもなく、生きただろう。
 君がこの世にいなければ、
 僕はこの世に激しい患難を知ることもなく、過ぎただろう。
 僕はずっとずっと胸の奥で君を殺し遠ざけてきたのに、
 君はいともたやすくその障壁を乗り越えて僕の元へと辿り着いてしまう。
 それは君を殺し続けても無駄だと教えたいのか。
 辿り着いた君は、僕が君を殺さないかわり、君の愛を欲しがって飢えるように狂わしてくんだ。
 飢えに飢えた僕が、羅刹の如く舞狂うのを、君が助長させるんだ。


 ねえどう思う。
 愛しいんだよ。君のことがこれ以上もなく愛しくて、君が離れている間は優しい愛情だけに満たされているんだよ。君を想って泣くことさえある。
 だのに本物の君がそこに現れると、ひどく貪欲に、卑しさに呑まれてる僕だけがいる。
 君を傷つけ、泣かし、苦しめたいと考えてしまう。
 滂沱の涙に歪んだ顔が許しを乞い、痛みと愛の狭間に呻いている姿を見たいと願ってしまう。
 君の愛を疑うつもりはないのに。
 けれど、君が僕を飢えた狼にしたから。
 毛ひと筋、爪の先ほどもあまさず君を食い尽くしたい。
 この飢えをかわかすにはとてもとても足りない。
 君を殺すことができないならば、
 かわりに君の愛を欲しがって狂って、罰ならぬ行為に貶めたい。
 君の愛の深さを測り、
 僕がどれほど酷くても君が逃げないことを知り、
 愛の壁が叩き壊せないほど厚いことを確かめるべく爪を立てたい。
 痩せこけた体に、食べても食べてもなくならない獲物があることを確かめたい。
 そういう狼の愛しか知らないんだよ。
 ねえ?


 ――殺しても、殺しても、死なない愛。
「どうしたの」
 僕が君の目の前で無邪気に他の獲物を狩ってみせるのも。
「この人がね、どうしても僕に食べて欲しいっていうから。ごめんね」
 口先だけで謝って、だけどやめないのも。
 ――全部、愛ゆえだ。
 君は呆然とその様子を眺めながら、だけど目を逸らすことができずにいる。
 傷つきながらもでも僕への愛情に苦しむ君の美しさに、息を呑む。
 だからご褒美に僕は、他の獲物は途中で放り投げて、君を愛してあげる。
 他の獲物に食らいついたこの口で、君に甘い睦言を囁く。
「僕を愛してるんだったら、どんなことでもできるよね」
 そう言って、君を別の苦しみへと導いてあげよう。
 束の間の、刹那の満腹だ。


 わかったろう、これは全て君のせいなんだよ。
 君が僕を「愛している」なんて言うから。
 狼の愛は生半可なことじゃ済まされないんだ。
 骨の髄までしゃぶりつかれても生き続ける覚悟はできてる?

 この飢えをかわかすには、とてもとても足りない。

Fin