花待つ、人



 春光のどかな太鼓橋のてっぺんで、男が片腕を袂に落として、すいと横を向いていた。
 欄干に身を所在なげに預け、切れ長の目を体よりもやや後ろに投げている。
 りゅうと着た鼠の縞は渋く、面白の誰もが振り返るような顔にぴたりと合っていた。素足の草履をちょいと動かすだけで、芝居を見てる気になる。所作が全て粋と言えばいいだろうか。その風情に通り行く人々はいちいち目を見張るよと口々に言い表す。それが女ならば、黄色い声のひとつもあげて、あんな錦絵があったらすぐにでも手に入れるのにとその色男ぶりを称える。枕絵の艶かしささえ漂わせてる男は誰を待っているのやら、あんな色男を待たせるのだから余程の小町なんだろうねと噂したが、結局誰もその相手を見ることはなかった。
 男は一刻もそんな風に道行く人を楽しませたが、日が落ち始めるとゆるりと体を起こして歩き始めた。吉原の大門から通りを流せば我先にと声がかかる。素見でもなさそうだが、涼しい目元に色気が溢れて、こっちの方が霞んでしまいそうだと囁きが聞こえた。しかも男からは不思議な良い香りが漂っている。女たちは匂いに惹かれるように籬(まがき)に鈴なりになって熱い視線を送ったが、男は愛想こそ浮かべても見向きもしなかった。ちょっとは遊んでいかないのかい、揚げ代はいらないからさと声をかけても、男は穏やかに無視した。優しそうには見えるが、良く見ると口元は笑っていないことに気付く。ここでも果たしてお目当ての人物はどこぞの花魁太夫か、ありゃその間夫に違いないと囃し立てられるも、結局男はどこの鼓楼にあがる気配もなく通り過ぎて行った。
 一通り流し終わると、男は再び元いた橋に戻ってきた。
 その目は、先ほどと同じ場所で川の流れを追っている。
 それだけだった。




 ミンミンと蝉の声が響いた。
 彼女がそこを通りかかった瞬間、蝉は鳴き出した。
 夏休み。部活の帰りで制服の白いシャツに汗が浮いていた。
 日差しが強い。蝉の声が張り合うように強くなる。
 誰かの家の立葵の大きな枝が道にせり出して、真紅の花を沢山つけてる。
 上へ向かって伸びる埋もれるような花の影。斑模様の道を通り過ぎて、彼女はふと足を止めた。
 ここには、小さな石碑が立っている。
 [空蝉橋 −うつせみばし−]
 この橋、元橋だった所を横切ろうとする時、彼女はいつも予感めいた何かに足を止められる。
 この立葵の花を過ぎると、決まって誰かの視線に絡め取られてるような気分になる。
 それは彼女を落ち着かない気持ちにさせ、何がいけなかったんだろうと視線を彷徨わせる。
 何がいけなかったんだろう。
 幸せになれるはずだったのに。
 そんな意味のない言葉を呟いて、彼女は恐れおののいた。
 自分が何を考えてるのかわからないのだ。何に怯えてる。
 ここには何もない。誰もいないし、私が勝手に想像を膨らましてるだけだ。
 ぎゅっと目を閉じると、一気に道を駆け抜けた。
 瞬間的に空蝉橋の映像が脳裏を横切る。
 あふ瀬なき涙の川に沈みしや。お太鼓の弧の字の上に踏み出せば、忍ぶとも下駄がからころ恋しいと言ふ。くらくらと紅い花が散り急いで、見事に消えた。瞬く間に炎が上がった。去(い)ね。去ね。お前などいらぬ。ここは暗い。冷たくて暗くて――
 やめて!
 彼女は青ざめた顔をぶんぶんと左右に振り、空想を断ち切った。
 何、何、何……!
 知らない。知るわけない。
 私は橋なんて知らない。
 私は散っていったものなんて知らない。
 私のせいじゃない。
 私は、何も知らない




 男はまだ待っていた。
 この橋の川沿いにある柳の合間には、桜(はな)が豪勢な枝ぶりを見せていた。
 枝先にはいまかいまかと咲く時を待つ蕾が我も我もと連なっている。
 もう幾日もすればこの陽気のことだ、ふっくりほころんで薄桃色の恥じらいを見せてくれるだろう。あとは程なく花の季節となる。そうなれば、終わり、だ。
 日は再び西へと傾きつつあり、昼には賑わっていた通りもすっかり鳴りを潜めている。物珍しげに男を眺めていた町衆も我が家へと引っ込んでしまった。後には男自身が放つふくとした好い香りが漂うばかり。今日も無駄骨かと闇に泳ぐ水の流れを見下ろす。
 この川は大川(隅田川)ほど隆々たるものでもないが、それなりの深さと勢いはある。男の立つこの[右京橋]から飛び込めば、あっという間に浮き世からおさらばだ。暗い水音に男の心も沈む。この橋、元は浮橋に毛が生えた程度だったのを直す際、どこをどうしたつてか宮大工が粋な高欄を作ることになったらしい。そこで[浮世橋]と名づけたが、浮き世と称したが悪かったか、憂き世から来世への橋渡しだと心中する男女が後を絶たず、[右京橋]と名づけ替えたという。
(わっちとの逢瀬なんざ、それこそ夢の浮橋、忘れちまったかね)
 ふうと一息吐くと、男は懐手してた手を出し、つと身を乗り出した。
(このままでは、一緒に出る前に、寿命が尽きちまう)
 それもいいか。もし戻って来なければ、生きていたって仕方ない。思えばあれから必死に生きてきた。金を貯めるため、店を持つため、それこそわき目も振らず必死で働いて。ようやく京で見つかりそうだった幸せも、夢幻になるのならば。
(もしや、全て芝居だったのかい。わっちから金を工面して、自由を得るための)
 男は相手の姿をとよとよと絶え間ない流れに映し出した。舞いの姿の凛とした、気丈な面(おもて)がこちらを涼しげに見てる。
 男は女を待っていた。
 男が待っているのは、抱え主から身請けしたばかりの花街の女――といっても遊女ではない。太夫にも劣らぬ柳橋の芸者だ。2人は夫婦になってお店(たな)を持つ約束を交わしていた。
 女は芸名を、浮舟と言った。
 浮舟を想うと、ただ川の流れるままに、時も流れていきそうだった。




 茹(う)だるような暑さに、玉のような汗が浮かんでいた。
 じっとりと濡れた肌をひとぬぐいして彼女はのそりと起き上がった。
 疲れて部屋で寝ていたらしい。
 頭痛がしそうなほど暑い。風はそよとも吹かず、開け放たれた窓は開けた時のままじっと動かない。
 夢は見なかった。でも重苦しいものがのしかかるように体を押さえつけてて、とても嫌な感じだった。こんなに暑いのに、空気だってこんなに熱を持っているのに、彼女は眠りながらひどく冷たかった。冷たく寒々しいと思えるほどの重さに潰されそうになっていた。
 気だるい体を起こすと、シャワーを浴びようと階下に行きかけた。
 とその時、携帯が着信を告げる。彼女は特に考えもせず通話ボタンを押し、耳にあてた。総角(あげまき)結びのストラップが不安げに揺れた。
「はい」
『舟橋? 薫だけど。話があるから、今から会えない』
 声を聞いて彼女は微かに顔をゆがめる。すらりと背の高い薫の優しげな表情やすっと切れ長の目なんかを思い浮かべて彼女は苛立ったのだ。
 薫は仲のいい友達だとずっと思っていた。性別を越えて誰とでも気さくに付き合える人間だと思った。なのに最近、それはとんでもない誤解だということに気がついて、彼女は腹を立てていた。薫はしつこく彼女を何度も呼び出しては、困らせるようになったのだ。私は薫なんてどうでもいいし二之宮君のことが好きって知ってるくせに。そう、彼女は二之宮に想いを寄せている。それは二之宮も承知していること。なのに薫はわかろうとしない。二之宮への気持ちを変える気などないと言っても、薫は頑として聞き入れないまま、彼女を悩ませている。
(何度言われても、変わらないものは変わらない)
 もはや薫は、彼女と二之宮の仲を裂きにかかってる。人に媚びを売り、たぶらかすのが手だから。二之宮にも妙なことを吹き込んでいるかもしれない。
 この綺麗な石の付いた組み紐のストラップだって、修学旅行で行った京都で薫に横取りされ、譲り受けるという貸しを作るはめになった。実は、同じものを二之宮が買おうかどうか迷っているのを彼女は見ていたのだ。その二之宮が手に触れていたのを、彼女が手にする前に薫に取られてしまった。彼女はただ、二之宮が可愛いと思ったものを欲しかっただけだし、薫はその気持ちを利用してわざと奪ったのだろう。後から彼女がストラップの話をすると、薫は恩着せがましく『あげる』と言ってきた。貰わなければいいことだったのかもしれないが、二之宮はこのストラップをとても気に入っている様子だった。二之宮の気持ちがこもっているのはまさにこのストラップだった。だから彼女には貰わないという選択肢を選べなかった。だが薫からすれば話を曲解させて二之宮に伝えることだってできる。二之宮なら彼女の本当の気持ちを理解してくれるとは思いつつも、薫の手練手管には一抹の不安が残る。
 彼女は重い頭を捻ると、電話の向こうでまだ答えを待っている薫の気の長さにうんざりと返答した。
「…どうせ会いたくないって言ったって、押しかけるんでしょ」
『まあ』
「今寝てて、起きたばかりだから。準備するまで待って」
『わかった。じゃ、いつものとこで待ってるから。あの――』
 全てを聞かないまま彼女は通話をぷつりと切った。薫はしぶとい。そして諦めない。彼女は粟立つほど怒りを募らせて、先ほどの冷たいのしかかるような重みを思い出し震えた。
 ストラップがゆらゆらとする。
 水が淀むような暗い色で暑い自分の部屋を眺めた。
 いちいち聞かなくたってわかる薫の言う待ち合わせ場所を思うと、脂汗が浮かんだ。きっと薫のせいだ。だから私はあそこを通る度に。
 薫がいつも指定する待ち合わせ場所。
 それはあの[空蝉橋]だった。
 舟橋香菜を落ち着かない不安な気持ちにさせる橋。




 小体(こてい)な安い一膳飯屋の縄のれんをくぐった。男は適当に頼むと今日は酒もつけた。いよいよもって事態は悪化しているように思われる。まだ浮舟は待ち合わせの場所に戻って来ない。
「おや、かをるさん。お久しうございます」
「これは先生、ご無沙汰で」
「奇遇ですな」
「へい」
 声をかけられれば無視するわけにもいくまい。男は大人しく先生のついている席に相席した。素早く出てきた酒を無言で先生に突き出す。
「ま、一杯」
「馳走になります」
 先生はお上品に飲み下すと、男が猪口を干す喉をじっと眺めて目を細めた。
「かをるさんがお酒を飲むところなんて初めて見ましたよ」
「そんな時もありますよ」
 先生は古いがきちんと手入れのされた袷(あわせ)に年がら年中着たきりの茶羽織を羽織って、お年の割りには背筋もぴんと伸びている。男を“かをる”と呼ぶのは一種の洒落と言ってよかった。儒者崩れの先生は博識で古典にも通じている。男が眉目秀麗でいつもいい匂いをさせているところから『源氏物語』にひっかけて“かをる”とあだ名したのだ。男から香りがするのはでも別に、物語の薫のように生来のもんでもなんでもない。男の生業(なりわい)のせいだ。
 つまるところ、役者のようなこの男の商売は、紅や簪(かんざし)、香と言った女小物の行商なのである。商い熱心な男はいつも懐に香を忍ばせていたので、匂いが肌身に移って香りを放っていた、種を明かせばそんなものだ。だがこんな男前が売りにくるというので女はいりもしない紅や櫛を買って、なかなかに成功をおさめている。
 商売柄岡場所や置き屋にはちょくちょく出入りするし、浮舟と知り合ったのもその縁。先生は“かをる”の相手が“浮舟”だったのも運命だなどと『源氏物語』について色々教えて下さった。が、今の男にとってはもうそんな話はあてにできないどころか、結末を思えば不安にさえさせる余計な話。早く浮舟を連れ京に上がり、お店を開いて軌道に乗せたい。このまま浮舟が戻らねば、全ては水の泡と化してしまう。焦りばかりを募らせる。
「京に開く店の算段はついたんでしょう。まだ行かれないのですか」
「戻らないんでさ」
「戻らない――浮舟さんが?」
「へえ」
「…思ったよりも手間取っておるようですね」
 男はすっと瞳を細めた。先生はそんな言い方をしなさったが、心の底じゃ浮舟を疑っていることだろう。もちろん浮舟を信じたい。だが約束の日はとうに過ぎた。男だって疑心暗鬼にもなる。
「お国は常陸(ひたち)でしたっけね」
「はぁ」
「常陸にも、東海道の大井川ほどではないが、なかなか難儀な川があると聞きます。雨が降って足止めされているのかもしれません」
 男は返事をしなかった。浮舟は夫婦になる前に、一度生国(しょうごく)である常陸へ帰りたいと言った。二親はとうに亡くなっていたらしいが、芸者になるまで随分と世話になった人がいるからという。京へ行けばもう会えないだろう。男は承知した。自分も付いていこうとも言った。だが思いもかけず浮舟は首を振った。
「私ひとりで行かせてくださいまし。これが最後のお願いです」
 浮舟はそれまで決して我侭を言ったことはなかったのに、これだけはきっぱりと言った。一旦こうと決めたら引かない勝気な性分。浮舟なぞというまるで遊女の源氏名も、色街で1番人気の太夫、紫に張り合おうという気概で付けたような女だ。男も、そこまで言うのならとついひとりで行かせてしまった。
 しかし、朱引きの外に出て行く浮舟を見送ると――夫婦になる約束をした時に送った櫛…美しい蒔絵の施された素晴らしい、京でしか手に入らない一品で、男の現在の身分ではやや贅沢だったが、髪を「総角(あげまき)」結びに結った童子の戯れる絵が、「浮舟」のある『源氏物語』の宇治十帖の巻に結びつくと気に入ったもの…その櫛を大切に布にくるみ入れた胸元を叩く姿を見失うと――男にはもう、縛れるものが何もなかった。ただ待つよりない頼りない身だ。
(ただ…ただわっちから姿をくらますだけならいい。だが。だがもし)
 あまりにとんとん拍子に事が運ぶ喜びに忘れかけていたが、実はもう1つだけ懸念することが男にはあった。
(仁王…)
 浮舟は売れっ子芸者だったが、男の他にもうひとりぞっこん浮舟に入れ込んでいる男がいた。それが“仁王”だ。仁王――匂宮(におうのみや)。そうだ、そんなところまでも『源氏物語』に絡んでいる。
 仁王は臥煙(がえん、火消し)で、荒々しさと気の強さがまんま面に出ている偉丈夫である。ひと睨みすれば火も逃げるような姿から“仁王”などとあだ名されたほど男伊達のいい、いなせぶりが、男とはまた違う魅力を放っている。
 その仁王を出し抜いて素早く浮舟を我が物にした男だったが、仁王が黙っているとも思えない。どうにも不安だ。
 いや、むしろあの仁王がなぜ男のすることに口出してこなかったのか。喧嘩上等のあの男が浮舟の身請けからこっち文句のひとつも言わずにいたなんて。
 それが、男の心に新たな疑惑を生んだのだった。
 ――浮舟は、本当は仁王と添い遂げるつもりだったんじゃあ
 金だけ出させて、後はどろん。浮舟にやったあの櫛だって売れば当分は金に困らないだろう。だから浮舟は執拗に付いて来られるのを拒んだのでは。
 ごくり、と喉を鳴らす。
 もし、そうなら。
 奪われるくらいなら、この手で。浮舟を、この手で、あの川にでも――
 いつの間にやら忍び寄るような闇に囚われていた男を、先生はそっとたしなめた。
「かをるさん、ご心配なさんな。きっと浮舟さんは無事帰って来る」
「へ、へえ」
 余りの闇の深さに、男は足元をすくわれるかと思った。
 生唾を飲むのを、酒を飲んで誤魔化した。




「舟橋」
 彼女が約束の場所に赴くと、薫は既に待っていて、ホッとしたように振り向いた。
 ――何であんなに嬉しそうな顔をすんのよ。
 彼女はしかめ面すると、なるべく意識しないように視線をあやふやに動かした。日が落ちかけて、ヒグラシの声が夕闇に迫ってる。
 薫はTシャツにビンテージっぽいデニムといういつもの格好で、スニーカーよりも下にある長い裾をずるずる引きずりながら両手を腰に当ててる。背の高い薫の影が彼女に近寄った。彼女はますます鼻に皺を寄せた。薫の黒く染めた襟足の下にある意外に白い肌からは、石鹸のいい香りがする。だらしない雰囲気のくせに、シャワーを浴び香水を漂わせてる自分よりも美しく清潔感あるような気を覚えるから腹が立つ。彼女は自然に顔を背けた。
「ごめん舟橋。呼び出して」
「謝るくらいなら、最初からしないで」
 彼女は吐き捨てるように言った。太陽が建物の陰に消えて、薫の影も消えた。彼女は何に怯えてたのか息を詰めていた自分に気付き、急いで付け足した。
「何度も言うけど、私は二之宮君を諦める気はないの。多分二之宮君だって私の気持ちわかってくれてる。あんたこそもう、私の気持ちを変えようなんてこと、諦めてよ」
 薫は悲しそうに眉を下げた。
「舟橋…」
「いい加減うんざりなんだけど。そうだ、そういえば君中(キミナカ)が薫のこと好きみたいだよ。どお?」
 薄闇に立葵の紅い花が妖しげに艶としている。気味が悪い。彼女はできるだけ目を逸らしたのに、まだ目の前には紅色がちらついていた。言い知れぬ恐怖に体が揺れていた。
 やっぱりここは嫌いだ。だから薫のことも好きになれないんだ。
「話がないなら…私、もう帰るから」
 彼女は逃げ出すように走り出そうとした。その時ポケットに無造作に突っ込んでいた携帯が音を立てて地面に落ちた。彼女と同時に薫の視線が同じものに向けられた。
「…その、ストラップ」
 総角結びの房が花形に広がった。
 薫の目がじっと足元に注がれている。その目は彼女が薫のストラップを未だつけていることの意味を勘違いしてるようだった。確かに薫から貰いはしたが、別に薫に恩を作るつもりも、薫の気持ちに応えるつもりもない。二之宮がいいと言ったから欲しくなって、二之宮のために手に入れたのだ。つまりこれを彼女が未だ持っている意味なんて二之宮が理由でしかない。そこを薫はわかっていない。
 彼女はハッとして携帯を拾い上げた。
「勘違いしないでっ。あんたとはもう友達でもなんでもない、こんなの意味ないから」
 薫がなおも見ているので、苛々とした彼女は引きちぎるようにストラップを外し、薫に向かって投げつけた。
「こんなもの!」
「舟橋っ」
「大嫌いよ、あんたなんて最初から大嫌いっ。さっさと君中とくっつけばいいのよ。そうだ――そうよ、君中がいるじゃない。私からあんたの気持ちは伝えておけばいいんだ。そうよね。そうすればあんたも諦めてくれるよね? だって君中がどんな人間か、知ってるでしょ」




 すっかり人外のものの時間となった中を、男は足早に歩いていた。未だ宵闇と油断していたのだ。店主に火を入れてもらった提灯1つでは心もとないが、今夜は月明かりを借りれるだけマシだろう。酒で若干ふらつく足をさばきながら家路へと向かう。
 帰る時またあの右京橋を渡った。ゴトン、ゴトン、歩く度足音があらぬ方から響いてどきりとした。一歩間違えれば簡単に橋から落ちてしまう。いっそ落ちてしまった方が。でも男はしっかりと橋を渡った。ようやく橋の上まで辿り着いたその時、ぬばたまの黒闇の中からぬっと白い顔が浮かび上がった。
「…! おなかさん」
「まささん」
 現われたのは物の怪(け)でも何でもない、ただの人だ。
 男は張り詰めた息を吐き、こんな夜更けに女一人で、と小さく呟いた。相手が知った仲とわかっても、男はまだ気を張っている。
「だって…まささん、最近ちっとも来てくれないから」
「それは」
 男は困ったように柳眉を寄せる。大体、こんな闇の中で歩いているのが自分だとどうしてわかったのか。ただならぬ気迫を覚えてじわりと汗が浮かぶ。
「おなかさんは、歩いているのがまさとよくわかりなすったね」
「それは、まささんはとってもいい匂いがするから。ほら、あたしも持ってるもの、香袋」
 確かにそれは男から買った香袋だ。男がいつも懐に忍ばせていたものと同じ匂いがする。
 おなかは男の客かといえば上客である。まだ若いが女髪結いとしてはなかなかの腕らしく、遊郭などでも時折見かける。男もそこで知り合った。確かに「髪結いの亭主」と言われるほどの商いだ、そこらで流すよりはおなかのところへ向かう方が確実に儲かることもある。髪結いのついでにちょっとした簪なんかも扱ってみたいなどと言われれば、男とて商売、熱心に足も向けるだろう。
 しかしそれも、浮舟との先行きが見えるまでのこと。必要な金が貯まりさえすれば明日にも京へ旅立つと思っていたのに、おなかの元へ通うこともない。男は浮舟を身請けしてからは商いを休んでいる。こんなに長く休むとは思っていなかったが、浮舟を待っている間商売するには気が乗らないし、大した品も手元にない。何より大事な客には一通り、京へ向かうからと挨拶に回ったはずだ。それを『来てくれない』などとは了見違いもいいところだ。
 おなかは大事そうに香袋を抱えると、つと歩み寄った。下駄の音がゴンと橋に響き渡る。地味な女だが、妙にまとわりつくような印象を受ける。いや、男は知っていた。おなかが自分のことを少なからず想っていることを。だが男はそれを知っていて無視していた。男には浮舟だけだったから。勘違いされるようなことは一切していないし、商いの気持ちだけを持ってきっぱりと付き合ってきたはずだ。だがおなかは違った。男がそれとなくスッと間をそらしても、悟ったりしないで押してくることがあった。男女の機微に疎いのか、鈍いのか、それとも気性が激しいのか。おなかは男が商いを休んでいる間、時々待ち伏せして男の前に姿を現すことがあった。男がこの右京橋に立っていると、さも偶然を装って通りかかること二度、三度ではない。『あれまささん、こんなところで桜(はな)待ちですか』――おなかは川べりの桜を見ながらにっこりと言ったが男はその時、おなかの笑顔に冷やりとしたものを感じた。次の時も、その次の時も『どうですか』『まだですか』としつこく尋ねてきた。だから男は時々橋から動くのだ。通い慣れた道だし女なら入るのに手間がいると思って吉原へ回ったりもするが、本当はあすこを1歩だって動きたいわけじゃない。
 おなかは柳橋に出向くことはあまりなさそうだったが、もし浮舟のことを聞かれても教えなかったろう。仁王のこともあって身請けは内密にお願いしたものの、髪結いならその辺は裏事情で同じ芸者から聞いてしまっていたかもしれない。
 おなかの口ぶりに、男は浮舟のことが知られているのではないか――そんな気がしていた。
 おなかは今も、大人しい、人の良さそうな様子で笑っている。
 わっちもこの初見に騙されたんだ。
 ぬめりとした汗が首にまとわりついていた。男は手の甲でそっと拭う。だが男の足は根がはったように動かなかった。
「おなかさん、もう遅い。さっさと家に帰ったが身のためだよ。つまらない夜盗なんかに出っくわしたらどうする」
「大丈夫よ、まささんがいるじゃない」
「わっちは腕に自信ありのお侍ぇってわけじゃあねえよ」
「知ってます」
 おなかは何が嬉しいのか、また一歩、男の元へとにじり寄ってきた。
 ――ガタン
「おなかさん、それ以上寄んねえでおくれ」
 ぴくりとおなかが立ち止まった気配がした。男はいつの間にか握りしめていた欄干から勢いよく手を外すと、今度こそきっぱりと告げた。
「悪いがおなかさん、あんたの気持ちには応えらんねえ。わっちは…あたしはね、江戸に長居する気はないんだよ。自分のお店を持って、開くつもりなのさ。そのための準備は整った。あたしはこれから、お店の一人前の主として恋女房と2人、店を切り盛りしてく気だ。髪結いの亭主におさまるつもりはないんだよ」
 男はわざと口調を改めた。ここで気後れしたら負けてしまう、そう思った。
 おなかは無言だった。微かに春風がそよいだ。月が雲に隠れ、僅かな明かりも消えた。漆黒に川の流れる音が聞こえる。今日はいつもより流れが速い気がする。男の心の臓が逸(はや)っているせいか。
 ――ゴトッ
 震えが伝わるような下駄の地面を叩く音が聞こえた。
 ゆらめく提灯の風前の灯火。おなかののっぺりとした顔が薄っすらと見える。
 その顔は張り付いた笑顔のままだった。
「――そう」
 おっとりした声がした。
 けれどよくよく聞けば、その声の端々が震えてることに気付けた。
「けど、これを見てもまだ、そんなことが言えるかしらね」
 おなかがこくりと頭を傾げた。
 まるで根元からポキリと折れた花みたいに、首が折れ曲がった。
 寸の間、月の光が復活する。




 携帯のメモリを手繰り始めた彼女の手を、薫の手が咄嗟に遮った。
「舟橋――」
「触んないで! 邪魔しないでよっ」
 彼女はぱしりと振り払った。視線の先に薫が拾ったストラップが見える。
「そんなもの! それがなんだって言うのよ! 私はあんたがくれるっていうから貰っただけで、友情とかそういうつもりはないんだから!」
「わかってる――わかってるよ。それで舟橋が不快な思いしたならごめん。けど君中のことはなんとも思ってないし、これ以上誤解は生みたくないから…」
「誤解は薫がしてるんじゃない! わかってないよ、これは」
 一度は捨てたストラップだったが、急に愛着を取り戻したのか、彼女は再び奪い返した。
 ストラップを大事に胸に抱く。二之宮の想いが溢れるようだ。
「二之宮君が…二之宮君が持ってた方がいいって言ったんだもん。私に。私が持っていた方がいいよって。でなきゃあんたからなんか貰わない」
 彼女の独白に、薫は愁眉の面持ちになった。
「舟橋…。それは、舟橋にそれをあげたのは、約束だったじゃん。舟橋が約束守ってくれるならって、認めてくれるっていう約束――」
「あたしが薫を認める?」
 そう言われれば薫は確かに、彼女にこれをあげたら、薫との仲を多少でも認めてくれるかとは言った。彼女もわかったと返事した。だがそんなもの。
「そんなの」
 彼女はぐっと手を強く握って、薫を睨みつけた。
「そんなの、嘘に決まってんじゃん」




 おなかの髪には、男が浮舟に与えた櫛が1つ、艶(あで)やかにささっていた。
「それを――どこで――」
 男は呆然と櫛を見やった。暗くともわかる。あれはどうみても浮舟の櫛だ。夫婦の契りを交わした約束の櫛だ!
 おなかは人形のように白々と生気のない顔でゆらゆらと首を振った。
「おや、これはまささんがあたしと夫婦になってくれるって約束でくれたもんじゃないか。ねえ、あたしと一緒になっておくれでしょう?」
「違うっ、わっちはお前さんなんかにやっちゃいねえ。それは浮舟の――」
 浮舟の名を男が口にした途端、おなかの顔に憤怒の、般若の面のようなどす黒い怒りが巻き起こった。
「浮舟! あの女(あま)ァよくもあたしのまささんを!」
 あまりの剣幕に恐ろしい予感を覚える。まるで月を隠した闇雲のようにどろどろと。
 急に男は、相手の手に握られているものを見つけた。
 1本手折(たお)られた花の枝である。なにやら白いひらひらとした花がついている。
 おなかの怒りに同調するように震える花びらが、闇夜に白く浮いた。
 男の視線に気付いたのか、おなかはふいに手にしていたものを思い出したように見た。
「…これは、まささんに。まささんと、初めて会った時、咲いているのを見つけたの。あたし、この花を見るたびにまささんのことが浮かんで。綺麗で、いい香りがして、まささんそのものだもの」
 打って変わってうっとりとするおなかの声が、ぞくりと背筋を強張らせた。あの花が自分だと言うなら。おなかが強く握り締めていることに嫌悪する。
「おなかさん、悪いがもう、帰らせてもらうよ。だがその前に、その櫛のことだけはもう一度訊く。その櫛を、どこで手に入れたんだい」
「これはあたしがまささんからもらったものだって、言ってるだろう」
 おなかは白粉を塗りすぎたようなのっぺりとした顔を男に向ける。
「あたしと一緒になりたいだろう」
「櫛はどこで…!」
「この花、まささんだと思ってずっと大事に育ててきたんだ」
「教えてくれ」
「大事に大事に。毎日水をやって。こんなに綺麗な花を咲かせて」
「この通りだ、大切なことなんだよ!」
 男が荒げた声に、おなかは形相を変えた。キッと釣り上がった目が男を凝視した。
「ならば教えてあげるよ! 浮舟はね、あんたを裏切ったんだよ。まささんとの約束なんて守るつもりはないし、だからってこれを大層な値であたしに売りつけたんだよ! それでもまだ、あんたはあの女にご執心かい」
 すぅーっと血の気が引いて、男の顔がおなかの手にある花と同じ色に染まった。




「…やっぱり」
 薫の小さな呟きが聞こえる。
 立葵の花が、視界の中ゆらゆらと揺れた。
 彼女と薫はしばらく無言でいた。
「やっぱり…」
 薫は再び口にした。顔がやや青ざめて、彼女を見る目つきが苦しいものに変わっている。
 知ったことか。
 彼女は薫が青ざめるのを見て、暗い悦びに沸いた。
 いつも彼女を苦しめてきた薫には、いい気味だ。
 二之宮のためなら嘘を吐いたって平気。ふんと鼻を鳴らす。
 まだ返せとは言われていないよね。彼女は再びストラップを携帯に取り付けようと、後ろを向いた。
 と、花の先に見えたものに驚いた。それはすぐに喜びに変わった。
「二之宮君!」
 来てくれたんだ!
 これで薫にもわかるだろう。この現実が。




「嘘だ…」
 男は、くずおれてしまいそうなのを、ようやく堪えながら呟く。
「ね…? ひどい女だろう。これでやっとまささんも、騙されてるってわかってくれた」
「いや…嘘だ…お前さんは…嘘を…」
「この櫛が何よりの証だよ。浮舟はね、男をたぶらかして、その気にさせるのがうまいんだよ。いいじゃないか、櫛と一緒に、約束も買い取ったって思えば」
「…違う…」
「違わないだろう。だってでなきゃ、この櫛をあたしが持ってるわけないじゃないか。もう浮舟のことは諦めなよ。あたしと一緒になろう。あたしがずっと、まささんを守ってあげるよ」
「嫌だ!」
 男は認めなかった。ただ嘘だ嘘だとそればかり繰り返した。頭がおかしくなりそうなほど乱れた。おなかはそんな男の様子を冷然と見守った。
「まささんも男だろう。もう去った女はきっぱりと見捨てて、腹括っておくれ」
「なるもんか、お前なんかと」
「…約束を違えるのかえ?」
「約束なんぞしてねえ」
「櫛を持ってるってことは、約束と同じだよ」
「信じるものか!」
「往生際が悪いよ!」
「わっちは諦め悪い男なんだ!」
「どうせあの女は生きて帰ってきやしないのにっ」
 おなかから出た言葉に、男は一瞬我を忘れた。
 千本の針に刺されたように、体がぴりぴりとする。
「お前――お前、今なんて」
「裏切るんだね」
 おなかの手の中の枝が、ポキリと折れる。
 “いきてかえってきやしない”
 どういう意味だ?
 おなかは何か知っているのか
 ――ゴトリ
「浮舟は戻ってきやしないよ」
 下駄がから回る音がして、再び橋が鳴った。
 虫が這いずるように体に響く。男は恐怖に足をとられた。
「どう――いう」
 ――ガタン
「あたしを、裏切る、気なら」
 気付けば、おなかはもう目の前に立っていた。
 次の瞬間、おなかに手折られた花が、男の胸に叩きつけられた。
 手から落ちた提灯が、めらめらと焔(ほむら)をあげた。




 喜んでいた彼女の顔は、すぐに凍りついた。
 二之宮がなぜここに来たのか。その問いに答えるかのように二之宮が言ったのだ。
「薫に呼ばれて」
 薫が――?
 何を企んでいるのだ。彼女はキッと薫に向く。
「ごめん舟橋。でももうこうしないとわかってもらえないみたいだったから」
 一体。私が。何を。
「将大も…ごめん」
 薫は二之宮を将大(マサヒロ)と下の名前で呼んだ。そのことが彼女の怒りを煽った。いつから2人はファーストネームで呼び合うようになった。そんなはずはない。二之宮君が好きなのは私のはずで、薫なんか、薫は誰にでも媚びを売る薄汚い女狐で――
「あたし、まさ――二之宮を巻き込みたくなかったの…でももう無理そうだったから。舟橋、ごめんね」
「舟橋さん。俺、宇喜多さんと付き合ってるんだ」
 ――男をたぶらかして、すぐにその気にさせる――
 そんな、バカな。違う、私は。
「舟橋さん。そのストラップ、俺が宇喜多さんにあげたものだから、返して」
「違う――違う、これは」
「俺が彼女にプレゼントしたものだから。舟橋さんが持ってても意味はないし、嬉しくもない」
 二之宮が冷たく言い放つと、彼女はただもう混乱の最中に落とされた。
「だって、違うよ、私は、二之宮君のために…薫がっ…!」
「ごめん舟橋。舟橋が二之宮とあたしのこと認めてくれるならって我慢しようと思ったけど…それ、本当に大切な思い出なの。舟橋が勘違いしてるんなら、返して欲しい」
「うるさいっ!」
 彼女は耳を塞いだ。痛い。痛い。耳の奥で、ガタンゴトンと音がする。うるさい。なんだ。なんだこの音は。いやだ。やめて。知らないの。私のせいじゃない。
 頭の中をぐるぐると巡っている。
 立葵の花が、全部こちらに向いている。
 下から上まで、沢山花をつけているくせに、そのどれもが、彼女を、舟橋香菜を見ている。
 二之宮が。薫が。2人が。
 彼女は立葵の茎をぐいと握り締めると、力任せに折り曲げた。ぼきっと音がして、真っ直ぐ天に向かっていた花は一斉に地面に向いた。2人が同時にたじろぐのが見えて、彼女の中のどす黒い感情が一気に噴出するのを感じた。
 彼女はうわあぁあああ! とその花を2人に投げつけた。




「お前…」
 花の陰に光るものをつけて、男の顔からは血の気が引いている。
 男の胸には、白い花がところどころ紅く濡れてひっついている。おなかの顔にも、紅い雫が数滴飛んでいる。
「まさ、か…」
 花と一緒に、おなかの商売道具である剃刀が強く握られていた。
「そうだよ、あたしがやったんだよ、あの女、その櫛を寄越せって言っても聞かないから。あたしが殺してやったんだよ!」
「!」
 その瞬間、男の世界は全て崩れ去った。足元がふらつく。浮舟が、死んだ? この女に殺されて、死んでいただと――?
「い、一体、いつ、どうや、って」
「あの女が旅に出たその後をすぐに追っかけたのさ。追いかけてすぐ、藪の中に突き飛ばして、櫛を寄越せって言った。だけど言うこときかないから、ズタズタに切り裂いてやった。顔も、体も、アソコもさ! 見えるところも、見えないところも、全部ぐちゃぐちゃに切り刻んで、二度と見られない面ァにしてやったよ! それからすぐ傍の川に叩っこんでやった。この川さね。今頃腐って、醜い土左衛門に成り果ててるだろうよ」
 おなかの醜い心と顔が、男の中をかき乱す。「あ…ああ…」暗い淀みの中に。この中に浮舟が。愛しい浮舟が。
 浮舟は、仁王と駆け落ちしたわけではなかった。信ずる心の足りなかった天罰なのか。男との約束の櫛を大事に、そのせいで、浮舟は。
「まささんも、死にたくはないだろう? ね。あたしと一緒になってくれるって約束しておくれ。あんたもあたしに惚れてるって言っておくれ。そうしたらあたしは、この傷を大事に手当てして、それから一生気楽にさせてあげるよ。ね、必ず言っておくれだろう」
 着物と一緒に切れた男の胸からは、ポタポタと血が垂れていた。傷は浅いが、何よりも胸が痛んだ。男の目からは熱い涙がほとほとと落ちていた。
 お前は、ずっとここにいたんだね。
 お前は約束を違えたりせず、先に待っていたのかい。
 そうか。
 ならば。
「なら…なら浮舟の元へ…」
「なんだって」
「すぐにいくよ」
 そうしておなかが持つ刃をぐいと自ら引くと、強く胸へと突き刺した。瞬間、紅い血飛沫が飛び、男とおなかの顔を濡らした。あ! っと目を丸くして手を離したおなかをよそに、男は微笑むと、橋の上から、流れ続けている川面へと飛び込んだ。
 紅く斑に染まった花が墓標であるかのように、男と共に落ちていった。
 ぼしゃん。
 大きな水音が跳ねたが、一瞬のことだった。
 その後には、ただ深い暗闇が辺りを覆うだけだった。




 投げつけた紅い花が幾つも飛び散っていく。
 むしっては投げむしっては投げ、手当たり次第に花を撒き散らす。
 彼女の目の前にはもはや薫と二之宮の顔はなかった。
 紅いものが飛び散り、目を剥いている人間の姿しか見えなかった。
 ――ズタズタに切り裂いてやった
 ――あたしがやったんだよ
 ――あたしを裏切るというなら
 意味のない言葉の羅列が体を支配していく。
 私は、私は一体何を見ていたというの。
 違う、二之宮君は私のことが好きだった。
 私をいつも見ていた。
 薫なんて眼中にないはずだった。
 ストラップだって、私が持っていた方がいいというから、可愛いって言ったに決まってるんだ。薫から奪って、私に持てって意味だったんだ。
 なのに、なのに、なのになんで!
 ――あんたもあたしに惚れてるって言っておくれ。
 ふいに、自分の手が紅く濡れていることに気付いて、彼女は叫び声を上げた。
 ……血だ! あの人の血だ!
「アアアアアア!」
 許して
 許して!
 ――ガタン、ゴトン
 音が。
 ――ぼしゃん
 音が。
 闇が全てを呑みこんでいく。




 おなかは漫然と、闇に落ちた姿を捜し求めた。
 ……?
 おなかにはさっぱりわからない。
 ここで何が起こったのか。自分が一体何をしたのか。
 まささんは、どこ…?
 提灯は燃えてしまった。
 おなかはふらふらと歩き始めた。
 あたしと夫婦になるって約束したのに。
 下駄の音が響いて、右京橋を包む。
 さっと風が流れて、月が顔を出す。ぬめる顔や手を厭わしく思ったおなかは、月明かりをたよりに己の手のひらを眺めた。
「ひぃっ!」
 驚いた。手が真っ赤なのだ。
 袖で顔も拭った。地味な着物が黒ずんだ。よく見れば体のあちこちに飛び散っている。
 何だこれは。なんなのだ。
 おなかは錯乱した。知らぬ間に体中が汚れている。一体何が起こったのだろう。
 逃げるように走り帰った。無事家に辿り着けたのが信じられず、おなかはそのまま家に篭もった。
 何日も何日も家の中で過ごした。着替えもせず、隅でうずくまる毎日。甕(かめ)の水も底を尽きそうだったが一歩も出なかった。その間やはりまさは来なかった。
 ところが半月近く経ったある日、川から死体が2つ上がったという話し声を聞いて、何故だかいても立ってもいられず、川べりまで足を運んでいた。
 おなかはそっと、人だかりの奥から死体を検分している川端を覗いた。
 そこには、水で膨れた男らしき人と、ぼろきれをまとったような女の死体が一緒に並べられていた。
 野次馬連中が口々に知ってることを囁き合う。
 ――物盗りかね
 ――いや、無理心中さ
 ――またかい
 ――そういや半月ほど前ぇに、上手の橋に血がどうのこうの言ってたなぁ
 ――男が女を殺して、自分も身を投げたんだと
 ――2人とも殺されたって聞いたよ
 ――女の方が死んでから随分経ってるって聞いた
 ――川底で2人いちどきに見つかったって
 ――やっぱり情死かい
 ――からまるように、手と手を握ってたらしい
 ――女の方はずたずただったってさ
 ――女が誰かに殺されて、男が後追い心中したのよ
 ――女の死体をずっと大事に握ってたってさ
 ――死んであの世で一緒になったのかね
 ――この流れで一緒に見つかるなんざ、奇跡に等しいとよ
 ――よっぽど一緒になりたかったんだろうねえ
 気付くと、野次馬がじろじろとおなかの方を見ている。
 後ろに何かあるのか。
 おなかは気味悪くなってその場から逃げ出した。
 だが川で上がった死人のことは、怖くて払いのけようと思っても、ずっと頭にこびり付いたまま離れなかった。
 自分と何の関係があるかわからない。でも気になる。おなかはずっと死んだ2人のことを考え続けた。いや、考えをやめられなかった。
 見に行くんじゃなかった。急いで家に戻ると、井戸端のおかみさん連中がやはりじろじろとこっちを見てる。何が気になるの。おなかは振り返った。その目に、はたと揺れる何かが映る。
 立葵の、花だった。
 真紅に染まった花が全てこちらを向いていた。
 !――…
 叫んでいた。
 花は、全部開いていた。おなかが避けても避けても、みんなこっちを見ていた。
 頭が割れそうに痛い。
「知らないよ、知らないよ!」
 あたしのせいじゃない。あれはあたしがやったんじゃない。
 逃げるからだ。あたしから逃げたりするから…!
 騒ぎを目の当たりにした近所の人間は、おなかの狂乱にうろたえた。だが、止める者はいない。
 すいと、1人の老人が前に出た。
 老人は年の割りに背筋のしゃんとした、上品な風情だが、その顔は青ざめた怒りに満ちている。
 老人は真っ直ぐおなかを見ていた。
 おなかはすぐに言い返した。あたしじゃない。あたしのせいじゃない。
 しかし老人はきっぱりと告げた。
「やったのはお前さんだ」
 おなかの目は大きく見開かれる。
 違う。あたしがやったんじゃない。
「お前さんがあの2人を殺した。だがそれでも、手に入らなかったろう。え? お前さんの手には何が残っている。見るがいい。その血にまみれた手を」
 そんな、ばかな。
 おなかは震えながら手を見た。
 その手は紅に染まっていた。
 嘘だ……!
 見れば、着物も、足にも、こびりついている。その色は黒ずんでいたのに、花の色が残っていたせいで、おなかには真紅に見えた。
 落とさなきゃ! 落とさなきゃ…!
 おなかは目茶苦茶に喚いて、逃げ出した。
 幾人も突き飛ばして、目の前に井戸を見つけた。
 おなかは勢い良く、頭から飛び込んだ。
 井戸は冷たく、おなかを飲み込んだ。


 突然の出来事に、人々が叫びながら右往左往し続けている。
 井戸の中に飛び込んで落っ死んだ迷惑者がいるぞ。
 騒ぎは夜半まで続いた。
 一人、老人だけが苦悶の表情で、それらを静かに見守っていた。
 暗い井戸の底に向かって、老人は呟く。
「お前さんの人生はさながら空蝉であったか。追えば追うほど逃げる…」
 老人の声は静かに水の底へと落ちていった。
 うつしよとはかげろうのごとくはかないものです
 
さらば



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