君の声が聞こえる


 遠くから、冬の冷気に乗って漂う微かな音が聞こえる。
 針葉樹林のまとう霧に紛れ、白い視界に木霊する。
 ――なんだろう、あれは何の音?
 シモンは耳を頼りに、その音源を求めて走り出す。吐く息も霧に溶けてく。
 ――まだ、遠い。
 夢中で駆けていく。この森は庭みたいなものだから、迷うことはない。だが音がどの方向から届くのか苦心して探す。
 感じる振動と音量が上がるにつれ、自分の耳の確かさに安堵した。シモンは両手を耳にあてがい、さらに走った。
 ――もう少し、もう少しだ。
 突然開けた視界には、完全に凍ってはいないが雪の女王のように冷たく輝く湖面が見えた。
 音はもうくっきりと、シモンの耳に届いていた。
(――歌?)
 シモンは大きく目を見開いて、音源を見つめる。
 湖畔に佇む1つの影。
 そこから流れるのは、切なくなるような悲哀に満ちた音楽。しかもシモンの耳でぎりぎり聞き取れるほど押さえられた音程。
 だが信じられないほど美しい。天上でもし悲しいことがあったならば、きっとこんな歌が歌われるのだろう。優しいテナーの声は湖面を、後ろの森を、辺りの空気全てをこごらせるかのように哀しく紡がれていく。シモンはなぜだか泣きたくなる気持ちを抑えきれずに、胸のあたりをつかんだ。心臓がトクトクと波打つ。大丈夫、まだ生きてる。命まで凍りそうな歌に、心臓は抗おうと必死で鼓動し続けてる。
 後ろ姿からははっきりしないが、年若い、少年兵の服を纏うややほっそりとした姿態は、悲しみに打ちひしがれているかのようだった。
 ふいに、歌がやんだ。
 引き寄せられるように歩み続けていたシモンの足が止まって、振り返った相手の驚きの目が飛び込む。
「あっ――」
 シモンが声を上げるのと、相手が剣を抜くのは同時だった。
 相手は一言も発しないまま、シモンの喉笛目がけてするどく尖った剣を突き出した。



 シモンの喉すれすれに、まだ切っ先は向いていた。あと1センチでも動けば、きっとそのまま首の後ろまですんなり入ってしまいそうなほど、研がれている。
 シモンは後ろに転んだ間抜けな格好のまま、相手を凝視した。
「い、いきなり何するんだ……!」
 場違いな程大きい声量。だが相手は黙ってシモンを見下ろしている。少しでもシモンが妙な動きをしたら、躊躇わずに剣を突き刺すだろう。
 動揺しつつも、シモンは仔細に相手を観察した。絹糸のような薄い金髪、光の加減で七色に輝く不思議な瞳、気位の高そうな鼻、肌が白すぎるせいか桃色に見える薄い唇。同じ男であるシモンから見ても相手は美少年だ。ずっと兵役に従事していたのだろう、年端は自分と幾らも変わらないように見えるのに、精悍さや動きの鋭さがまるで違う。
「聞いたのか」
 ふいに、相手が言葉を発した。
 さっき天上の歌を放ったその声は、低く殺気を滲ませて、怒気を孕んでいる。
「な、何だっ」
「歌を聞いたのかと言っている」
「ああ聞いたさ! 聞いちゃ悪いかっ」
「では、死んでもらう」
 相手が反動をつけるため剣を少し手前に引いたのを見て、シモンは恐怖の反動でカッと燃え上がるように叫んだ。
「俺が聞いたのは天使の歌だっ!」
 予想外の言葉に、相手は一瞬動きを止めた。
「お前なんかの歌じゃない! 大体ここは俺の森だっ。俺の森で歌ってくれた天使の声を聞いて、何が悪い!!」
 相手の殺気に負けじと睨み返す。睨むのをやめてしまったら、殺されてしまう気がしていたのだ。必死だった。
 ――と、じわじわと放たれていた緊張感が消え、相手はすっと剣を下ろした。
 まだ信用しきれていなかったシモンは、睨むのをやめない。じりじりと立ち上がる体勢を整えて、いざとなったらあの武器を奪ってでも――
「すまなかった」
 唐突に少年兵は謝った。その唇を注視した。
「なんだよ」
「ちょっと、動揺していた」
 動揺で、人を殺そうとしたのか!
 ムラムラと怒りが湧いて、顔に血が上った。
 到底許す気になれないシモンは、勢いよく立ち上がると、相手に詰め寄った。
「人の命をなんだと思ってるっ!」
 ダン、と足を踏み鳴らす。思った以上に怖かったのかもしれない。
「この人殺しのロクデナシ!!」
 怒鳴ったら、すうーっと、霧が深くなった気がした。
 さわさわと針葉樹がざわめいて、氷の欠片が肺の中に凍(し)み渡る。熱くなっていた気持ちが落ち着くのを感じる。
 今度は、奇妙な音を聞いた。
 擦れ合うような、何かと何かがぶつかって響く金属音。
 それは、ガタガタと瘧(おこり)のように震えた少年兵の剣がカチカチと鳴り、それを持つ手が、刃先を地面にこすらせ、奇妙な文様を描く音だった。
 シモンは黙って彼の顔を見つめた。また怒って人を殺そうとするのかと警戒したのだった。――だが。
「そうだな」
 何ごとか呟き無理やり笑んでいる相手のその顔は、至って穏やかそうだ。怪しんでいると、特に揺れている右腕を左腕でつかみ押し付ける。シモンはその時になって、少年兵が深く動揺に震えていると気付いた。
「なに、お前…」
「おかしいか? おかしいだろうな。そうだ。私はお前の言う通り、人殺しのロクデナシだからな」
 口ごもるようにボソボソと、彼は自分に向かって呟く。
「簡単に人を殺め、生きるために仲間を見捨て、敵味方なく手にかけるくせに、それが仕事のくせに、こうして、震えるんだ。人の命を奪うこの剣を持つ手が、自分の手じゃないみたいに、勝手に動き出すんだ」
 七色に見せていた彼の目はグレーの不安げな色を見せ、シモンを真っ直ぐ捉えることも難しそうだった。シモンはそれを見て初めて、自分がひどいことを言ってしまったと理解した。
「お前――…」
「歌を」
 これ以上振るうことがないようにぐさりと剣を地面に突き刺し、少年兵は目を閉じる。再び目を開くと、今度は青く滲むような色を放っていた。
「歌う姿を見せるのは」
 “己の弱味を見せることだ”。彼は自虐的に、だが今度ははっきりと告げた。
 ――あれは、鎮魂歌<レクイエム>
 シモンの耳の中で、たゆたうように響いた音楽の残響が木霊する。
 ――仲間への。殺めた者への。そして己の魂への、癒しの、歌。
「私の瞳は、今何色をしている?」
 ふいに問われて、シモンはちょっとの間、詰まった。
「私の瞳は、その時の感情の色に、染まる」
 ゆらりと、色が変わり始めた気がする。
 実際は、単純に当たった光の加減と、見る者の心情の違いだけなのだろう。
 ――苦しんでいる彼を、さらに傷付けてしまったのは、俺だ。
 シモンは兵役を免れていた。なのに、己の代わりに手を血に染めてくれている存在に対して、そのことに喜びではなく苦しみを抱いている人間に対して、ひどい言葉を吐いてしまった。
 ひどい言葉は確かに、不協和音のように、引っかき傷のように嫌な響きがしていた。
 シモンはそっと、まだ微かに震えている彼の腕に、己の手を乗せた。
「ごめん」
 空気で、彼が体を震わせたのを感じた。
「ごめん」
 湖面を渡ってきた風が、キーンと耳鳴りを残してく。
「お前、名は何と言う」
 少年兵の問いに、シモンは答えられなかった。目から滴り落ちる熱いものが、顔を上げることを許さなかったから。
「ここに家族と住んでいるのか」
「……」
「お前は兵役に就かずに済んだのか」
「……」
「年は、幾つだ」
「……」
 俯いて雫を落とすシモンの手の上に、今度は少年兵の左手が乗せられた。ようやくシモンは、彼が何か言っているのに気付く。
 相手を、注視する。
「お前の名は?」
「シモン」
 ごしごしと顔を拭いているシモンに、少年兵は少し安堵したように息を吐いた。シモンから手を離し、辺りを覆う森を見上げてもう一度尋ねる。
「シモン、お前はここに――」
「天国から音楽が流れてきたのかと思った」
 唐突に遮られて、彼は眉をひそめた。だがシモンは、気付いた様子もなくくっきりとした声で告白する。
「お前の歌が聞こえた時、俺は、ひどく、ひどく悲しかった。だけど同時に幸せだったんだ」
 シモンの話が見えなくて、少年兵は黙って続きを待ってみようとした。
 シモンは両の手を耳の後ろに添えると、目を閉じた。
「あんな美しい歌、今まで聞いたことない」
「そんなことは――」
「もう一度、聞きたい」
 再び彼を遮って、シモンは悲しげに呟いた。
「聞けるうちに」
 少年兵の死を意図する言葉に――兵役に従事する者への当然の推測であるにせよ、彼は戸惑いがちに答えた。
「私の歌などで、お前が幸せになるとは思えない」
 シモンの目がゆっくりと開く。少年兵の顔をまじまじと眺める。
「いいだろ?」
 その視線を受けていられなくて、彼は伏し目がちになった。彼は弱音を吐き出してしまいそうになる口を手のひらで包み込んだ。そうでもしないと、何かが零れていってしまいそうだった。
「あれは、弱い心だ――」
「なあ」
「兵士として生きて行くのに、弱い心は見せられない」
「黙ってないで、なんとか言ってくれよ」
 ハッとシモンを振り返った。少年兵の見るシモンは頬を上気させ、ひたすら彼の顔を、懇願するように口の辺りを眺めている。
「歌ってくれるのかよ、くれないのかよ」
「……シモン」
 彼は今度はシモンの視線を避けたりしなかった。そっと下ろす手のひらが、冷たい。
「お前、耳が聞こえないのか」
 その質問ははっきりと聞こえた――読み取れたシモンは、少し目を大きくしてから、諦めたように微笑んだ。
「まだ――完全じゃないけど」
 シモンの耳は、聴力を少しずつ落としていた。まだ聞こえるものもあったが、世界は殆ど音を失いつつあって、静かな闇へと化しつつあった。前の日聞こえたものが聞こえなくなっていると気付く度、シモンの心臓は刻一刻と動きを止めていくような気がしている。が、少年兵の歌に反応した時、自分の耳がまだ聞こえるという喜びと同時に、その哀しい美しさに酔いしれ、その美しい音楽にだけ反応できる耳にかえって幸せを覚えたのだ。
 振動によってある程度感知できる自分の発する声以外は、相手の唇を見るしかない。少年兵の発する音はでも、歌声に近い高さの時シモンの耳に感情を呼び覚ました。悲しみと優しさ。祈りと切望。
「いつか、全く聞こえなくなる」
 シモンの声は淡々としていて、少年兵には聞き取りやすい。
「だからその前に、お前の、天国みたいな声だけで、満たしたい。記憶にとどめておきたい」
「シモン」
 少年兵は少し戸惑いながら、でも。

 風が凪いだように、辺りには静寂だけだった。
 澄んだ空気にどこまでも広がるように、歌声が舞い上がってゆく。
 少年兵は、今までの人生で一番心を込めて歌を歌った。
 故郷の小さな村の、歌。
 葬儀の時に歌うエレジーだったけれど、その音階の美麗さに、心の透き通るような歌詞に、いつでも心惹かれた。
 二親を失い、故郷を失った後、まだ幼いと言ってもいいような年で兵士になると決めた時。彼はこのエレジーをいつでも胸に抱いて生きてこうと思ったのだ。
 シモンはうっとりと、その音に耳を澄ます。
 美しい耳を持つ少年が、自分の歌声を聴いている。そう思ったら、少年兵の歌はもっと透明になり、そして。
 信じられないようなことが起こった。
 1年の半分以上を霧と雪で覆われたこの土地に、薄っすらと暖かい光が差した。
 それは眩しく穏やかで、少年兵の瞳のように七色に輝く、太陽の光。
 その光に反響するように、少年兵の声が1オクターブ高くなる。
 今度こそ本当に、昇天してしまうかと思われるような、歌声だった。
 それはシモンの耳にもはっきりと届き、シモンの体は天使の歌声で満ち溢れた。

「君…カウンターテナー、いや違う、ソプラノの声が出せるの?」
 雪のように白く冷たそうだった少年兵の顔はやや上気し、歌い終わった達成感で染まっていた。
「今のは絶対、ソプラノだったよね?」
 興奮するシモンをよそに、少年兵はほうと満足気な呼吸をする。心なしか雰囲気が柔らかくなったような気がする。
「シモン」
 先ほどとは全く違う声音が、シモンを呼んだ。
「私は、女なんだ」
 その唇を追わずとも、シモンにはわかった。シモンに届くのは高く澄みきった音。
「君は、女の子だったんだね」
「シモン」
 天から送られてきたような存在に、シモンはしばし見とれた。
「私が生きて帰ってきたら、また会ってくれないか?」
 はっきりと言い放たれた言葉は、シモンにも届いた。シモンは言った。
「その頃にはもう、俺の耳は聞こえなくなっているかもしれない」
「それでもいい」
 少年兵――の姿をした彼女は、凛とした表情で見る。その瞳は、紅とゴールドの中間のような、鮮やかな色めきを持っていた。
「シモンの中に、私の声が残っているならば」



 ――数年後。
 静寂の森と化した針葉樹の中に、未だシモンの姿を見ることができる。
 すっかり大人となった彼は、どんな微細な振動も、空気の揺れも見逃さない。
 耳は音を伝えてはくれないが、体の中にはいつでもあの天上の音楽が溢れていた。
 シモンは日課である湖への散歩に出る。
 その日は妙に胸騒ぎがして、落ち着かなかった。
 湖に近づくにつれ強まる振動に、シモンはいつしか足を速め、息せき切って駆けていた。
 あの日と同じように、耳に両手のひらをあてて。

 君の声が、聞こえる。

Fin

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