鳴神酔う、雲の絶間に


 始めはこぬか雨だった。
 窓の外、広い視界の先には、遠く天を覆う雲のなか時折辺りを照らし出すような煌めきと、地を這うような雷閃と共に降(くだ)る龍がいる。さっとぬるい風が吹き、戻る漆闇。
 それらを彼は腰の高さにある細い窓枠に片膝立てて座り込んで、見ている。
 今宵泊まってく意思表示でここにいるはずが、何を話すわけでもなく、するでもなく、ただ、そうやって視線を外へ向けて、ただただ貪るように。
 紫電龍の慟哭を聞く度に恐ろしく震え目をつむりやり過ごすだけの彼女は、その強烈な光に照らし出されている強く逞しい姿に近づけずにいる。あまつさえそれを窓枠で受け止めているのだから、それだけでも、己と相手との差を、己の無力さを感じずにはおれない。
 長いひさしに遮られながら、雨は少しずつ強さを増す。
 ふっと彼は、風に乗るかすかな飛沫に向かって、遠い世界の欠片だけでも受け止めたがるように腕を伸ばした。
 あの天激に惹かれているのか、長い腕を高く掲げ、眸は天の争乱を追い続けたまま。あちこちで雲波を現したかと思えば、天と地とを繋げ、闇と光の昂りを荒々しく見せつける情景に動悸がたかまる。激しさを増す雨。雷光。残像。網膜の裏。
 はっと――
 ――そのまま彼が外へ飛び出て行ってしまいそうで――彼女は慌てて、細い枠に不安定によりかかっている体にしがみついた。

 雷よりも恐ろしい光景を見た気がした。

 弾けたように彼は、自分の胴にまわっている彼女の、怯えたような細く白いうなじを見下ろす。
 かすかに本音を見せた口元を隠すと、ひょいと窓枠からおり、彼は頼りない背なを引き寄せ彼女を膝裏ごと抱え上げた。
 すぐ目の前で自分に笑いかけている彼の眸をおそるおそるのぞき込めば、もう遠くもなく、どこへ行ってしまう心配もないと言い訳するようだった。
 黙ったまま彼女はそのまま寝台へと運ばれ、横たえられた。すぐ隣で彼も同じように横たわると、肘をついて見守ってくれた。それはとても優しい表情で、愛しい者を守る姿で、心から彼女を労ってくれていることがわかるものだった。
 急激に込み上げた情動に突き動かされ、彼女は涙していた。

「どうして泣くんだよ」
 わからない。自分でも。だけど止められないのだ。
「そんなに雷が怖かったか…?」
 怖かったとも。
 恐ろしくて、その喪失の大きさに震えてしまうほどに。
 静かに落涙し続けるそんな彼女を彼は、軽く笑い飛ばして、持ち上げた髪にそっとくちづける。
 美しく艶やかな彼女の髪に、彼の前でしかほどくことのない、彼が好きだと言ったその髪に、幾度も指を通す。
 手つきのあまりの優しさに彼女は気後れしそうだった。
 彼の愛を得られるならば、彼女はどんなこともするし、何にでもなれると信じていたのに。そんな自分にできたのは、ただこの細い2本の腕で彼にしがみつくことだけであったのだから。
 愛しい人の意識が今は全て己に向いていると思ってみても、なお彼女は安堵に逃げ込むことができなかった。
 また、涙が止まらなくなった。
「まったく、お前は子供だな」
 はは、と、低く強い覇者のような声がまた笑う。
「しょうがねぇな」
 彼の片腕が、彼女の小さな体を抱き寄せた。逆らえない大きな力に包まれて、波紋が広がるように感情が全身に及ぶ。

「好きだぜ…?」

 そう、はっきり告げる声が浸透する。
 彼の心音は安定した拍節を刻んでいる。
 もう、外の雷も雨も昏い世界も音を小さくなるばかりだ。
 ただここに存在するのは、彼と自分だけの世界だろう。
 それでも彼女は、自分からくちづけをせがんでみることでしか、確信する術を持たない。
 その問いにこたえ、やがて彼が夢中になる時間へと移り変わるまで。
 決してこの人を奪われてなるものかと。
 彼女は頑なに外の景色を追い払うのだった。


Fin