図書室の幽霊
図書室の幽霊


「おい多美(たみ)、お前知ってるか? 図書室にアレが出るの」

 そんな話を聞いたのは、真夏本番ももうすぐ、わたしたちの学校の図書室でのことだった。
 目の前には雪(ゆき)くんと大(だい)くん。この学校の3年生で、生まれた時からずっと一緒だったから、2人ともわたしのお兄ちゃんだと思ってた。
 大くんは7月だというのに既に日焼けで真っ黒になったぴかぴかの肌を見せびらかすように、シャツのボタンを3つも開いてた。対する雪くんのきっちりと一番上まで止めたボタンの喉元は白くて、中学に入ったくらいに出てきた喉仏が話し声にあわせて動くのは色っぽいような感じだった。
 大くんが続ける。
「この季節になると出るらしいぜ。アレ」
「あれって何よ」
 わたしは半分わかりつつも、挑戦するように聞き返す。大くんは場所柄もあって更に声のトーンを落とすと、3人の輪を縮めるように顔を寄せて、囁いた。
「もちろん、幽霊だよ」
 ぞくり
 背筋が凍りそうになるのをこらえて、わたしは唾を飲んだ。大くんの顔は真剣で、普通の人がみたら本当に幽霊がいるとしか思わない。
「今年だけでも見たってやつ、5人はいるんだぜ。な? 雪理(せつり)」
 大くんの右手が、雪くんの皺一つないシャツに力強くかかった。慣習で雪くんをじっと見ると、かすかに戸惑いを見せたような表情を見せる。やっぱり。
 わたしはこれが大くん特有の意地悪だと見極めをつけて、プイとそっぽを向いた。
「そんなの、信じないよ。嘘でしょ」
「嘘じゃないよ、今度は証拠もあるんだぜ」
「じゃあ見せてよ」
「まあまあ、そう焦るなって。じゃあさ、知ってるか? 昔ここの3年生だった女子が失踪した話」
「嘘だよ」
 わたしはもう一度雪くんの顔を見た。でも今度は雪くんの顔も何も変わらなかった。
 雪くんをいちいち見るわたしに気付いた大くんの目つきが、一瞬で悪くなった。
「ってゆうか多美、お前いつもオレの言うこと信用しないよな」
 大くんの日焼けした頬に怒りが浮かんでいる。わたしは大いに慌てた。
「そんなことないよ」
「いっつも雪理の顔ばっか見て」
「だって、それは」
 わたしは何も言えずに俯いた。心なしか顔が赤いことに、気付かれるだろうか。
 大くんはちぇ、と舌打ちして背もたれにもたれた。
「ま、いいや。多美が興味ないんならこの話もやめる」
「そんなことない」
 今度は急いで顔をあげる。円卓の真向かいに座った大くんがつまらなそうな顔をしてわたしを見ている。わたしは急に大きな不安に駆られて、どうしようと胸に手をあてた。これでまた雪くんの顔を見たりしたら、二度と3人で喋れなくなるだろうか。大くんと雪くんはいつも2人セットだ。無視がどちらか一方なんて、ありえない。
「話、聞きたい」
 お願いします、と呟いた。何に対してだったのかはよくわからない。
「わかったよ」
 短い間の後、大くんが元の通りの態度に戻ってくれたので、わたしはほっと胸をなでおろした。
「それで? その人はどうやって消えちゃったの?」
「それがさ」
 雪くんの顔を見るのは我慢した。大くんの話はこうだった。

 その3年の女生徒は、受験勉強のために毎日この図書室で勉強していた。ここが落ち着くらしくて、とくにあの、奥の壁際にある学術書の書棚前にいつも座っていたらしい。
 ――ここで説明を入れると、この図書室には何人かが座れる長方形の机と丸い机の他に、学習机みたいな1人で使える仕切りのついた机が窓際の方にズラっと並べられている。1人で来る生徒はたいていこの机に座って勉強するのだが、特に部屋の隅にある学術書の重い分厚い本が並ぶ書架の前は、当時学習机1つだけ置かれてすぐ別の書架に挟まれていたという。つまり、L字型に2つの本棚があって、もう1方が窓、そしてこのスペースに入ってくる側に何故か背の高い本棚が1つ、窓のある壁に垂直に置いてあったのだ。<下図参照>
当時の図書室
図−1  その本棚の背中にくっつけるように学習机が寄せられていたため、ぱっと見には人がいるかいないかわからない。置いてある本の種類からも人が来ることは殆どない。“個室”などと呼ぶ生徒もいる閉じられた空間だった。話を元に戻そう――。
 “個室”は女生徒の定位置になっていて、他の誰も座らなかったという。そして彼女は毎日閉室するまで残っていて、帰るのはいつも1番最後だったらしい。一度“個室”に入ると殆ど出てくることはなかったと、その頃の図書委員の間では有名だった。
 ある日のこと。いつも通り図書室の閉まる時間が来て、図書委員は心得顔にゆっくりと室内を回り始めた。カウンターに近い入り口の方から順に回ると学術書棚はその正反対なので一番最後になるが、図書委員は本をしまい終えるまでそこには声をかけないようにしてたという。少しでも長く集中させてあげたい。そう思わせるものが彼女にはあったそうだ。一説では図書委員長が彼女に恋していたなんて話もあったらしい。
 そういうわけで、一通り声はかけたものの彼女の机の所まではいかなかった。でもいつものことでまだ残っているはずだったし、図書室から出て行ったのは見ていない。委員は本を整えたりしまったりして作業を進めた。
 小さな異変に気付いたのは、2人いる委員のうち男子生徒の方だった。
 女子生徒がカウンター作業をしている間、男子生徒が返却された本の整理を先に始めていたためだったが、壁沿いに並ぶ書架の1つを見ると――それは例の彼女のいる“個室”と、壁に垂直に立った書架1つ挟んで隣りだった――あろうことか、棚の本が全部横倒しになっていた。図−2
 どういうことだろう。通常本棚には本がぎっちり詰まっている。だから本が倒れるためには1つの段につき最低5冊程度抜かなくてはならない。全部抜いて、わざわざひっくり返した? どうやって?
 本棚を揺らしたとか。ここの本棚は造り付けではなく後から置いたものだ、全く動かないわけではない。しかし、こんな天井一杯まで本の詰まった棚を動かすなんて危ないし無理だ。それに、本棚は1つだけではない。櫛の歯のように縦横並べられたこの状態で、どうしてこの1つだけ動かせようか。となると、全ての本をいちいち手で倒さないと起こり得ない事態だ。そんな手間をかけてまでする悪戯とも思えないのに、犯人は一体何をしたかったのだろう。
 図書委員の男子は訝りながらも、本を丁寧に元通りにし、空いてしまったスペースにあるべき本を探した。
 それらに手間取って、その日の閉室はやや遅れたらしい。女子生徒も手伝って夢中で作業をしていたために、最後の“個室”の3年生に声を掛けるのをすっかり忘れていた。
 はたと気がついて、女子委員の方が“個室”に走った。だが遅かった。

「3年生はそこにはいなかったんだ」

 しんと静まりかえって誰もいない図書室は、わたしたちだけの空間だった。
 今年入ったばかりの学校にそんな奇妙な話があるなんて露ほども疑ってなかったわたしは、この古びてはいても美しい図書室に、かび臭いような陰鬱な空気が流れ込むのを感じた。
「2人が作業で夢中になっている間に、さっさと帰っちゃったんじゃないの?」
 わたしは、なんでもない風を装ってさりげなく言った。それが1番素直な解答だろう。
「いいや、それが、机の上には勉強道具がそのままだったんだ」
 大くんはまるで見てきたかのように言う。一瞬で浮かんだ情景に眉をしかめて、わたしは首を振った。
「単に、トイレに行ってただけかもよ」
「でも閉館間際なんだからさ、帰る時いけばいいじゃん。結局、その後しばらく待ったけど、彼女は帰ってこなかったんだぜ」
「図書室がしまった後に戻ったのかもしれない」
「その日以来、彼女は二度と図書室には現れなかった」
「図書室に行くのをやめただけかもしれないじゃない」
「学校にも現れなかった」
 わたしはぐっと詰まった。大くんは自信たっぷりにどうだと頭をそびやかしてる。雪くんが困ったように顔を見回して、口を開いた。
「大黒(だいこく)、あんまり多美を脅かすのはどうかと思うよ」
「だけど、お前だってこの話は単なる噂じゃないってわかってるだろ」
 珍しく雪くんの口調が鈍っている。わたしはまさか本当に本当なの、と口の中で呟いた。雪くんがゆっくりと息を吐いたのが聞こえた。
「昔3年生が失踪したらしいという話はある。その人が最後に目撃されたのは図書室だと言うのも事実らしい。それ以上はわからない」
「それにしちゃあ、符合することが多すぎるな」
 雪くんは大くんの方を見ようとはしなかった。
「例えば“個室”。今見てもじゅうたんに当時置いてあったという本棚の跡がくっきり残ってる。今その本棚がないのも、机が全て背中合わせに2つずつになったのも、ここで失踪が起こったからとは思えないか? しかも彼女が失踪した翌年から、図書室に幽霊が出るという噂が広まったんだ」
 わたしの中で、消えた3年生が薄い色の浮遊物となって図書室を彷徨う光景が見えた。彼女の姿を正確に捉えることはできない。けれど、いつもいたというその“個室”の机辺りでぼんやりと、何かを訴えている。急に寒気が走って、目の前の腕を握りたい欲望にかられた。でも雪くんがどう思うかと考えたら、ぐっと我慢するしかなかった。代わりに自分の腕を抱きしめた。
「その話にはもう1つ裏があるんだ」
 大くんののびやかな声が、冒険譚を紐解く勇者のごとく、湧き踊っている。こちらの気も知らないで、楽しげに。なんだか腹立たしくさえ感じる。雪くんの表情は何故か暗い。わたしと違ってこのくらいのことで怖がったりはしないし多分、わたしのことを慮(おもんぱか)ってのことだろう。欲しいのはそんな気遣いじゃない。突如ふてくされたように話を遮った。
「雪くん、わたし、もう帰りたい」
 こうすると、雪くんの中に葛藤が生まれるのをわたしは知っている。雪くんを迷わせると大くんは動揺する。わたしたちは子供ぶって見せてるけど、微妙な均衡の元に関係が存在するのを知っていた。知っていて、わたしがそれに揺さぶりをかけないではおれなくなったのは、わたしたちが大人に近づいているから。
 雪くんと大くんは兄弟も同然で、見た目も性格も違うけど、2人の描く未来が一緒なのは手に取るようにわかる。こうやって時々わたしの存在を強く主張しないと、わたしを永久に蚊帳の外に吐き出そうとする。多分、2人の関係が崩れるような気がしているのかもしれない。わたしを2人の世界に入れれば、2人の仲も変化する。だからわたしはかまととぶって意地の悪いことをする。いやな子だ、と思いつつも、だって2人はわたしよりも大人なんだから、と言い訳をしてる。
「大黒、多美は本当に怖いんだよ。大黒には楽しい話でも、多美は女の子なんだから」
「でもミステリーはみんなで共有した方がいいに決まってるだろ」
「ミステリーじゃない。今のままじゃただの怪談」
 静かだった。わたしたちの話した声だけが部屋に漂っていた。甘えた顔をしたままでいたら、大くんはまたちぇ、と小さく言って、ポケットに手を入れた。出てきた手には、何かが乗っていた。
「もうちょっと引っ張ろうと思ってたのにな。雪理はすぐ多美を甘やかす」
「…鍵?」
 そこには、金色が錆びたような色の小さな鍵が鈍く光っていた。クローバー形の鍵頭部分に、Fのようなキー部分。単純で絵に描いたような形状。
「今言った話の謎を解く鍵」
「単なる偶然かもしれないって言ったのに」
 雪くんの声は強張っていた。わたしは鍵を触らせてもらうと、小さな重みに胸が躍り始めた。どうして、なんで。この鍵と幽霊の話が本当に関係あるの。
「雪理が見つけたんだ。元“個室”近くの本棚の陰で」
「関係があるとは思えないけど」
 まだ反駁する雪くんを尻目に、大くんは嬉々としているようだった。わたしは聞けば聞くほど混乱する頭を抱えて、新しい船出におののく旅人のように震える。
「オレは推理したんだ。消えた女子生徒。“個室”の特殊な形。動くはずのない本棚に倒れていた本」
 黙って鍵を見た。モヤモヤとした曖昧な事象たち全てをつなぐ鍵が、この鍵だと言うのだろうか。
「雪理はどうやってこの鍵を見つけたか、もう一度言ってよ」
 大くんはわかっていることを、敢えてわたしに説明させるために雪くんを促しているようだ。雪くんは戸惑い、大くんを横目で見つつ、苦しげに説明し始める。
「大黒、お前が幽霊の噂話を聞いて、“個室”のあった辺りを調べようって言ったんじゃないか」
「そう。それで?」
 大くんはやめようとしない。雪くんの気持ちがわからないの? わたしは信じられなかったから信じなかった。違う、わかってるんだ。雪くんがこの件に関わりたくないことを承知で、大くんは話を進めようとしている。そう、大くんは進みたがっている。心臓が大きく動き出す。
「“個室”の構造がおかしいと大黒が指摘した。それから“個室”を囲んでいた本棚を調べてみようと言った。普通に見えるところだけじゃなくて、本をどけたり棚と床の2センチの隙間まで。そうしたら、この鍵を見つけた。正確にはぼくが見つけたんじゃない。大黒、お前がそこに鍵が落ちてる、そう言った」
 いつもは理路整然とした雪くんの声は幽霊のように感情がこもっていない。でも目が、雄弁に語っている。ずっとずっと見つめてきた雪くんの目が。遠い記憶が唸っている。
 わたしは微かな希望と、少しだけ傷みを感じて、この3人の関係がもう随分と長いこと続いてきたんだなと考えた。わたしが生まれてからずっと。3人兄妹として育った日々。成長して兄ではないと気付いた時の驚き。戸惑い。苦しみ。喜び。
「ぼくにはこれがどこの鍵かなんてわからなかったから、そのまま大黒へ預けた」
 雪くんは静かに言葉を括(くく)った。大くんは満足げに頷いた。わたしに向き直った大くんの顔が輝きに満ちている。雪くんを苦しめるかもしれない、そんな風には思っていない。ただ前向きな希望しか見出せない。
「多美、今の話どう思う?」
 わたしはそろりと口にしてみる。
「この鍵と失踪が関係あると思えないけど」
「関係ないと思う」
 雪くんのキッパリとした声も、大くんの横を無為に通り過ぎていく。
「この鍵はとても密接に関わりあってる。何故なら失踪した3年生は見つけてしまったからだ。“個室”は“あるもの”を隠すために作られた空間だということを。彼女はとうとう謎を解明して、そのまま戻ることはなかった。あとに残ったのが今多美が持っているその鍵だ」
 わたしはいろんな感情を起こされて複雑になりながら、両手にある鍵を強く握り締めた。大くんはとうとう、最後のカードを提示してしまう時が来た。そう思うと少し怖い気がするのは、なぜだろう。
「そしてオレも見つけた。その鍵の当てはまる鍵穴を」
 息を呑む音がする。今度こそわたしは雪くんを見ないようにぎゅっと目を閉じる。まぶたの裏にはわたしがいつも空想する世界が、扉を映し出している。
「これは、謎を解くための重要なキーだ」
 目の前で、大きく硬い扉が開く姿が見える。
「女子生徒は、そこへ行ったんだ」
 目蓋の裏、開いた扉の中に、色の薄い女子生徒の幽霊が見えた。だけど、その幽霊は雪くんの顔をしていた。



 遠くで、蝉が鳴いているような気がする。
 夏になると、わたしの想像の中では外の世界以上に夏らしくなる。
 高い気圧。青い空。濃い緑色。背伸びする雲。時折吹く風の意外な冷たさ。道端に生えた小さな花。土ぼこりにまみれて汗をかく野球部員と、静かで涼しい図書室の静寂。窓からの景色は太陽を浴びてキラキラと揺れる葉の層だけ。
 早朝誰もいない図書室に来ると、熱気で舞うじゅうたんからの埃が鼻をつく。ガラガラと開け閉めしたドアの中の視界は遠く、古い木の書架は沢山の本を乗せたまま静かに息づいている。日陰は古びた紙の匂いに包まれて近寄りがたい。
 想像の中でもまた、たった1人の生徒が秘め事を胸に書棚に向かって佇んでいた。ここは生徒達全員の憩いの場であると同時に、ある1人の人間だけの秘密の空間でもある。
 絶対に誰にも教えてはならないこと。何もかもぶちまけてしまいたいけど請け負ったのは自分。想像の中の人物は右手を本棚に掛け左手にある鍵の存在に悩む…。
「鍵穴はどこで見つかったの」
 意外にも最初に口を開いたのは雪くんだった。はっと元の世界に戻ってきたわたしは、心の中の艶(あで)やかな夏を閉じ込めて、静かで穏やかな空気にそっと息をついた。
「大黒は、その鍵と鍵穴を合わせてみたの」
 冷静になっている。自信がある。そうよ、雪くんはわかっているもの。この鍵とその鍵穴とやらが合うわけないことを。大くんは忘れているんだ。
「いいやまだだ」
「ならまだ確証には至ってない訳だ」
「どうかな」
 大くんは珍しく落ち着いた様子で、目は何を見ているかわからなかった。口元が笑っていた。
「半分は、合うって確証してる。今日これから、試してみようと思うんだ」
「……」
 雪くんは何も答えなかった。大くんはわたしに向かって言った。
「多美も立ち会う?」
「…その鍵穴は、ここにあるの?」
「そう」
「――大くん」
 わたしはこのはっきりとした物言いに戸惑った。どうすればいいのだろう。わたしはどうすればいいのだろう。
「オレはこの謎に、ちょっとした未来を賭けているんだ」
 そこでようやく、雪くんはぎくりとしたようだった。
「この鍵さえあれば」
「図書委員長として、それは許可できない」
 急に、雪くんが硬い声で遮ったので、次はわたしがびくりとした。消えたはずの幽霊がぼんやりと現れて、3人の頭上を飛び回っている。天井から降るような涼しさを背筋に感じた。
「こうして無許可で図書室に出入りしているのは、ぼくの権限だから」
 試すなら1人で、合わなければその鍵を返してくれ、とくぐもった声が続いた。
 ここにきてわたしの方に迷いが出た。大くんがすっかり忘れていることに加え、雪くんがそこまで嫌がり傷つくとは思ってもみなかったから。わたしはそこまで雪くんがわたしを愛してくれているとは思ってもみなかったのだ。だから、大くんの誘いを簡単に受けてしまうことにためらいを覚えた。だってずっと3人でやってきたんだもの。急に臆病になったわたしは、弱気に逃げ道を探す。
 “個室”のあった方を見つめた。木々を通した窓からの光で暗いところはない。なのにもの悲しい雰囲気があるように思えるのはなぜだろう。人は自分の感情でしか物事を見ることができないのかしら。
「じゃあ」
 わたしは重いようにも思える口をようやく開いた。
「じゃあこうしよう。3時半に、もう一度ここへ集まろう。今は解散。わたしが来なければ大くん、今日は何もなかったことにしましょう。鍵のこともその他も全て」
 “個室”を見つめたまま、わたしは言い放った。変化を感じて、旅人の航海を感じて。
「わたしは――わたしはそれまでに全ての解答を探しておくから」



 3人で図書室をバラバラに去った後、わたしは彷徨うように校舎を歩き回った。
 解答。
 そんなことを言ってみたものの、1番正しい答えを出さなければ全てが終わってしまうような重責に悩み始めていた。鍵。“個室”。挑戦的な大くん。図書委員長である雪くん。わたし。秘密。手紙。
 実は数年前、3人で共有する秘密を作ったことがある。
 わたしが書いた手紙。3人の関係に関わるようなことが書いてあって、その内容を誰にも見せないで、タイムカプセルの如く、ある小箱に入れて、鍵をかけたのだ。
 どうしてそんなことをしたのか。多分3人の仲が永遠に続くのかどうなるのか、試したかったのだと思う。その時すでに、わたしの心は揺らぎ始めていたから。
 小箱の鍵穴は2つある。2つ捻(ひね)らなければ開くことがない。
 その鍵を、わたしは大くんと雪くんに1つずつ渡した。
 そうしてわたしはわたしの秘密を2人に託すことで、均衡を守ろうとした。
 結局は、秘密にしたかったんじゃなくて、大事な秘密を持っていると思わせたかったことになる。自分達が握っているのはその大事な秘密に近づくための2つのうち1つだと認識させ、牽制するそぶりを見せつつ、ぶち壊して欲しい願望の汚らしい裏返しだった。壊してもらえた時、それはやってくるはず。口には出さないけど募る想いにつき動かされ。
 今日大くんが図書室の謎を解明しようとしている姿を見て、わたしはそれらを思い出した。秘密、守る側と破る側。その危うさはまるで3人の均衡。雪くんを愛し、わたしを愛し、3人でいることを愛する大くんの、危ない橋。壊したくない雪くんの、裏の裏の想い。
 わたしは一歩一歩無意味に歩みながら、考え続ける。
 大くんが見せびらかした鍵は、わたしがまだそのまま持っている。この鍵がなければ、大くんは1歩も進めない。大くんだけでなく、雪くんとわたしにも大きな試練になるだろう。鍵を預けるか否か。今後が変わるのは確かだし、渡さなくても当然違ってくる。これからも3人が1つの船に乗ったまま移動するか、別々の船になるのか。それは誰にもわからない。
 ふいに、図書室の彼女はなぜ失踪なんてしたのだろうと思った。
 彼女が消えたらしい場所の秘密には、実はわたしにはなんとなく心当たりがあった。偶然、知ってしまったから。本来知るべきではないことなのに。
 雪くん。
 雪くんが。
「……」
 壊したくて壊せない秘密に翻弄されている人間。真実に辿り着こうとする者を疎んじた時、その仮面は剥がされる。しかも大くんは、はっきりとわたしを指名し、この謎に賭けていると言った。それは雪くんにとって苦しみの瞬間でしかないのか。
 ――ちょっとした未来を賭けているんだ
 態度を硬化させたのは、大くんの行動を絶対的に阻止しようとしたせいだけ――?
 わたしは、ふと立ち止まって胸の奥にわだかまる妙な気持ちをこぶしで押さえた。
(だけどわたしは)
「多美」
 振りかえった。
「多美、話がある」
 こくんと頷く。
 教室へとわたしを誘(いざな)ったのは、やっぱり雪くんだった。



 誰もいない教室というのは、机と椅子が多い分、余計に侘しく見える。
「多美、多美に話したいことが幾つかある」
「うん」
 半ば期待していたことだったので、わたしは素直に頷いた。雪くんがもしかしたら何か言うかもしれないとは見当がついていた。
 教室の窓をカラリと開けて、雪くんは両手を窓枠についた。
「多美は“個室の秘密”、知ってるよな」
「…ちょっとだけ。でも誰にも言ってないよ。大くんにも」
「それはわかってる。気にしてるのはそのことじゃないんだ」
 わたしは雪くんの隣に立って、雪くんとは逆に背中でクロスした手を窓枠にあてた。
「あの鍵を探そうって大黒が言った時」
 雪くんのやや白めの顔に、少しだけ赤みが差していくのを感じる。
「もしこの謎が解けたら、多美が」
「うん」
 わたしは目をそらすと、そっと目を閉じた。
「多美が、自分のところへ来てくれる気がするって言ったんだ」
 ああ、と小さく声を漏らして、くらくらと眩暈がするような感覚に支配された。目を閉じたまますうーっと意識が遠のくように頭を反らす。
「その時気付くべきだったけど――実は図書室の幽霊の噂にはもう一つあって」
 1語1語踏みしめるような声がする。
「例の幽霊、失踪したのは失恋のせいだから、その謎を解いたものは恋愛成就するなんていう馬鹿馬鹿しいものでさ」
 馬鹿馬鹿しいと言った雪くんの言葉が、自虐的な響きを帯びていた。
「あそこまで真実に近づいたのは大黒が初めてだったし、それだけにぼくは」
「本当は、どういうことなの」
 わたしは尋ねた。
「“個室”と“幽霊”。雪くんなら知ってるんでしょ」
 聞いて欲しかったのだろうか。雪くんは少し微笑むと、ぷつりぷつりと単語を呟く。図書委員長だけに伝わる、秘密。代々委員長が卒業前に次の委員長に託していく、秘密。連綿と受け継がれる馬鹿馬鹿しい競技、それが“図書室の幽霊”――と。
「大黒に鍵を探そうといわれた時、ビックリした。なぜ“個室の秘密”ではなく“鍵”を探そうとしたのか。あんなところに鍵が落ちていると思う方が間違っているだろう。失踪の原因を探そうと言われればまだ納得した。だから大黒はあの秘密の真相を知っている、そう思った。探すふりをしながら焦って対処法を考えていた。すると驚いたことに、あるはずの無い鍵が、目の前に落ちていたんだ」
 その日の様子がありありと目に浮かぶ。
 図書室、本棚、1人佇む雪くん。そこへ唐突に現れた大くん。鍵穴の存在を隠さねばならない立場なのに、それを探そうと持ちかけられる。そして大くんを近づけないためにわざと重要な部分を調べる雪くんの目の前に出てきたのは、信じられないことにもうとっくに無くなったと聞かされていた鍵の存在。大くんは目ざとくそれを指摘する。慌てて自分が持ち歩いている別の鍵を取り出す。落ちていた鍵は自分が持っている鍵とそっくりだったからだ。大くんが喜んでこれは“秘密の鍵”じゃないかと叫ぶ。もっと調べるから貸してくれよ。いや、これは単に誰かが落とした鍵じゃないかな。そんなはずない、今時そんな鍵、見たことないよ。雪理、何か知ってるのか? いや、別に。ならオレが預かる。仕方なくそれを大くんに渡し、対策を練らねばと考えはじめる雪くん。放置するわけにはいかない。動悸を抑えようと息を呑む。
「多分大黒の罠だったんだと思う。なのにぼくは、どうやって誤魔化すか、そればかり考えてた。とにかく急いで別の何かを、万が一鍵穴を見つけることがあっても開けることの出来ない別の鍵を、と思って、そして、慌ててポケットから鍵を取り出した。だけどそれは」
 許しを乞うように雪くんは、わたしの瞳の上に視線を留める。
「小箱の鍵」
 わたしは気付いていた。あの鍵を見た瞬間、それが何の鍵であるかすぐにわかっていたのだ。
 わたしの秘密をしまう鍵。大くんがもう1つを担う箱の鍵。雪くんに託した鍵。牽制しあうために分散した物が、偶然にも1人の手に渡ってしまった瞬間。
「鍵穴――つまり秘密の扉は」
 雪くんの声で、わたしは窓に向き直った。
「図書委員長が1年間保持するだけの無害な秘密だった。本当は秘密の扉でもなんでもない。ただ、それを秘密として隠すことが目的だった。図書委員長というある意味退屈な職務を魅力あるものに変え、伝統として大きなものにするためだけに、作られた秘密。だから誰一人としてそれを他人にばらしてはいけない、そう伝えられた。秘密を貰った者は皆こう思うようになるんだそうだ。だって面白いじゃないか、誰かが必死になって解こうとしている謎を、実は自分が操作しているなんて。すごくないか? ぼくらだけが唯一選ばれ伝え続けられる伝道者の立場にあるんだぞ、と。
 秘密の扉といわれているものは知ってみれば大したことじゃない。現在使われなくなった図書室の扉を秘密めかせてる呼称なだけ。ということはつまり、失踪した女子生徒とは一切関係ないし、彼女が図書室でいなくなったなんて真っ赤な嘘だ。あのくだらない噂を流したのは今までの委員長たちだ」
 それには驚いて、わたしは黙ったまま雪くんを見上げた。
「秘密は、誰かが知りたいと思うから秘密だし、楽しいとも思える。誰も知りたがらないことなんて秘密じゃない。それでわざと、図書委員長1人に1つだけ真実に近くて遠い嘘を流すという取り決めがあった。噂が広がっていくのを知ると、まるで聖書に1章ずつ奇跡が描かれていくのを眺めてるみたいだった。また奇跡だ! 神は目の前なのに沢山のまやかしで見えない。
 噂の中で本当にあったこと、それは、昔ここの3年生が失踪して、最後に目撃されたのが図書室だったということだけなんだ。3年生が図書室で消えたかどうかなんて知らない。彼女がいつどこでどんな風に去ったのか、今となってはもう誰もわからない。
 委員長達は実際にあったことを元に噂の種を作っていった。秘密の扉を使う立場にあった司書さんが結婚退職した年、扉は閉鎖された。だから謎を解いたら“恋愛成就する”。“本棚の本が倒れていた”というのは、秘密の扉が本棚であったことのヒント。“個室の跡”は昔作業カウンターがあって、作業場にしていた名残。だから秘密の扉が通じている先は単なる裏ストック。僕らが隠してたのは、裏ストックの扉のことさ。
 本来裏ストックには、貴重な書庫だったことから関係者以外の立ち入りを禁じる必要性があった。それに滅多に開けることがなかった。その鍵をある鍵穴に差し込んで解除しなければ、棚は動かせない。だからその存在を知っているのは本来司書と図書委員の一部だけだった」
「本棚が扉で、あの状態でどうやって開くの? ドアみたいに手前に開くの?」
「図書室の本棚は櫛型に立っている。気付いたかもしれないけど、その壁沿いの棚と棚との間には実は隙間がある。櫛の歯にあたる棚がそれを隠しているから気付きにくいけど、つまり壁沿いにある棚は棚の幅分だけ空間があるということだ。
実際の図書室
図−3
 解除した扉を横に動かすと、隙間のあいた隣の棚まで移動する。棚と棚が触れ合うと、触れ合った棚のロックも外れて可動式になる。そうやって移動していけば、例え50センチ程度の幅でも3つ動かした時点で150センチになる」
「なるほど」
「作業カウンターや裏ストックが閉じられ、その存在はいつしか伝説のようになって、事実を知る人が減り、語り草になった。たまたま話を聞き及んでいた図書委員長が、卒業時に次の委員長に話したことでゲームは始まった。誰かに気付かれるか、それとも気付かないか。毎年毎年落胆と希望と今年こそはという変な気概を持ってこの秘密は受け継がれてきた。噂を流し、秘密を預け、引き継ぎ、また噂を流し。でも少しばかりゲームを長引かせ過ぎたようだ。とうとう見つかってしまったよ。それも大黒に」
 秘密。ばれて欲しくないようでばらしたい。その葛藤ギリギリのラインが魅惑的に心を捉える代物。今にして思えば、わたしの秘密を小箱に入れたのも、それを2人に分散したのも、いつかこうなることを予測してのことだったのかもしれない。
「ねえ雪くん。わたしの秘密。わたしも、本当は知ってもらいたかったのかな」
「あの手紙のこと?」
「そう」
 雪くんはあの手紙に何が書かれているか今でも知らない。もちろん大くんもだけど。
「本当は、2人で共謀してこっそり読んじゃうとか。誰かがわたしに懇願して3人で開けちゃうとか。そういうの、期待していたんじゃないかな」
 図書室に幽霊はいなかった。いたのは、秘密を抱えてこらえきれなくなった感情だけだった。誰も知りたがらないことを秘密にしたって面白くない。その心理は正しい。真理だ。
「でも2人ともお行儀よく隠し続けてくれたでしょう。わたしは半分感心して、半分つまらなく思ってたのかなあ」
 窓から離れて、教室の半分日陰側に移動した。目だけでわたしを追う雪くんが遠のいていく。あちら側は陽炎のように不確かで、頼りない。くらくらと、眩しい。
「この3人が変わってしまうのは仕方ないことだし、でも同時に、実は変わったりなんかしないんだよ」
 自分が書いた手紙の内容を反芻しながら、わたしは言った。
「恐れていては駄目なのね。わたしはわたしだし、雪くんは雪くん。大くんは雪くんのことをずっとずっと大切な人だと思うし、それはわたしも変わらない」
 雪くんが静かに目を閉じた。日陰に、真実を見出したのかもしれない。少し寂しかったけど、そう、全てが失われるわけじゃない。わたしは恐れない人を待っていた。ずっとずっと。
 それに気付いてたんじゃないかな。いつか彼を好きになるって。2人は感情を映し合う鏡のようなもの。一方の目を見れば、他方の本音が映る。
「多美」
 雪くんが日陰と日なたの中間に来て、止まった。腕を差し伸ばす。教室の半分こちら側を恐れているようだった。
「実は、ぼくの流した噂もあるんだ」
「雪くんの?」
 今までの話から、雪くんはこの秘密を抱えることに懐疑的だったような印象を受けていた。預言者など要らない。神の存在も崇める気持ちもない。それよりも事実をどう扱うか。雪くんの中には、自分の感情とみんなの感情で均衡を取る方が重要課題だった。そんな風に受け取っていたから、まさか雪くんまでそんなことをしているとは思ってもみなかった。
 雪くんの顔がようやく微笑んだ。少し疲れたような、でもようやく認めたと言ったような。
「知りたい?」
「うん」
 伸ばした手のひらを上に向け、視線を注ぐ。その手には目に見えないものが座しているようだったけれど、実は雪くんから見ればその手にはわたしの頬が乗っていた。乗っているように見えた。
「今年流したての、とても小さな噂だ。ヒントにもならない」
 優しく愛しい目が、輝いている。
「でも大黒が話に組み込んでいた。きちんと広まったって証拠だ。あいつ、言ってただろう? 『図書委員長は彼女に恋をしていたらしい』」
 図書委員長は図書室の幽霊である彼女に恋をしていた。委員長は秘密の主である女の子に恋をしていた。雪くんは図書委員長だった。秘密を書いた女の子はここにいた。雪くんは。雪くんは。
「期待していた未来って、やっぱりちょっと現実とは違うのかな。わたしが手紙を書いたとき、そこまで心は決まっていなかったの。ただなんとなく、3人幸せが続けばいいって思ってた。誰かが苦しむことなんて、ちっとも想像していなかった。わたしは――」
「わかった。ありがとう、多美。これを渡しておく」
 雪くんは素早く鍵を取り出して、わたしはその手から受け取った。それは大くんの鍵だった。
 そう。昨日雪くんが見つけた鍵は、秘密の扉の鍵なんかではなく、大くんが持っていた鍵だった。大くんは昨日、雪くんの鍵を奪うために、これが失われた秘密の扉の鍵だと思わせようと、自分の所持していた鍵をわざとそこに置いていたのだ。
 大くんの鍵を本当に秘密の扉の鍵と勘違いした雪くんは、その鍵に瓜二つな自分の鍵を渡してしまった。
 これで大くんは、完全に小箱を開けることができるようになった。大くんは事前に自分の分の鍵を開けている。でも雪くんから鍵を奪ってからは、雪くんの方はまだ試していない。どうしてそれがわかるかというと、さっき雪くんが尋ねた時、大くんはこう答えた。『半分は合うって確証してる』。つまり、大くんが鍵を開けることを雪くんに宣告してから、残りは開けるということだろう。
「これは単純に、どっちが先かという問題だったんだ。今どんなに阻止したくても、もう負け。もう少し足掻いてみたくても、多美の気持ちがわかっちゃった。だから、この鍵を返す。でも、図書室の秘密の件については、悪いけど、許可できないよ。ぼくの一存で決めるには、歴史が長すぎる」
「うん。安心して。わたし、3年になったら図書委員長になる」
「多美!」
「それまでは、このゲームを続けて。3年生になった時、雪くんの作った素敵な噂がもっと広まっているのを見ていたいの」
 再び、世界が空想に満ちた。図書室は心の平衡を保つ素晴らしい場所だ。
「そしたら、この秘密、ちょっと気の早い受け継ぎになるでしょ。大くんにも言わない」
 時間だ。
 わたしは教室を出ようとして、その前に伝えておこうと思って振り返った。雪くんはいつの間にかわたしの近くにまで来ていた。
「雪くん」
 雪くんがぎゅっとわたしを抱きしめた。
「手紙、なんて書いてあったの」
 心地よい間が空間を満たしていく。
 わたしは優しい腕の中で、呟いた。
「『この手紙を先に見た方を、好きになる』」
 少しだけ抱擁は強まって、そして再び自由になった。
「多美、行ってお出で」
 わたしは元気良く教室を飛び出した。
 未来を予測して、開けられるのをずっと待っていた秘密の待つ方へ。



「多美先輩、何してるんですか」
 再び、わたしは図書室にいた。
 くらくらと眩暈のするような回想に、呑まれていた。
「卒業前最後のお別れを、ね」
 古く奥ゆかしい喧騒を吸い込むような静寂。図書室はあいも変わらず謎の空間であり魅力的な場所であり続ける。あれから数年経っても、ここはわたしに素晴らしい空想を与えてくれる。あの謎とともに。
「多美先輩もとうとう卒業かあ」
 わたしは後輩の横顔をそっと見ながら、くすりと笑った。
「君もここが好き?」
「当然。でもどっちかっていうと多美先輩おっかけて図書委員になったのが強いけど」
「そしてそのまま次期図書委員長にまで就任しちゃうんですもの」
「先輩が委員長に立候補したなら僕も当然立候補しますよ」
 わたしはポケットにそっと手を忍ばせた。ある。硬くて冷たい物が、手の中でじっとその瞬間を待っている。
「でもまあ、あんなカッコイイ彼氏がいるんじゃ、手が出ないけど」
「いやあね」
 わたしが苦笑すると、彼はあの人と同じ陽気な笑顔を向けた。
「そういえば、先輩。図書室に幽霊が出る話知ってました?」
 彼は分厚い本に手を当てると、その背表紙を軽くなでてふと思い出したとでもいうように言った。こういう時間がここで何度も繰り返されたことを思うと、幸せに満ちてくる。
「なんでも、この本棚の辺りをうろついてるらしいですよ」
 もう暫く黙って聞くことにする。急に振り返った顔は男の子そのものだ。
「それで変な噂を聞いたんですけど」
 口元を歪ませてわたしを脅そうとするところまでそっくり。わたしは両手を顔の前に持ってきて、笑いそうになるのをこらえて怖がって見せる。
「なんでもその幽霊、失恋して失踪したここの女子生徒だったらしくて、自分を見つけた人間に恋をして、あっちの世界へ連れて行っちゃうって!」
 誰の話が出るかドキドキしてた。自分たちの作った噂の城が思い思いにつみあがっていく様を見る感動。わたしの積んだ石が、1つの壁になったのを目の当たりにした瞬間。
 雪くん、思い切って踏み出すのは、すごく楽しいね。
 今ね、わたしの作ったお話が、現実になったの。
 秘密の扉を開けた時、わたしたちは変わったけど変わらなかったでしょ。嘘も本当もひっくるめて現実なんだよ。
 大くんは相変わらずで、わたしも相変わらず。
 久しぶりに3人で遊んだら、大くん雪くんにばかりべったりだったでしょう?
 最近思うのは、やっぱり図書室には幽霊がいるってことなの。幽霊はいた。図書委員長が恋した幽霊は、その謎を解いた勇者に恋をしてたんだよ…。
「…なに笑ってんですか」
 憮然とした彼を前に、わたしはいつの間にかお腹を抱えて笑っていた。さあ、そろそろこの秘密の片棒を担がせなくちゃね。ポケットの中の2つの鍵が一緒に揺れて、清清しい気持ちで次の図書委員長と向かい合う。
「知ってる? 図書室には“秘密”があるの。幽霊だけじゃない。ずっと繰り返し繰り返し囁かれてきた、大きくて重くて長い長い歴史ある謎なんだよ」
 ほら、夢中になり出した。
 秘密を伝えること。
 それはずっと我慢したものを吐き出す1年で1番の快感。
「その秘密を知りたい?」
 目の前で、あの頃よりも大きくなった扉が開く姿が見えた気がした。扉の中には幽霊。でも幽霊は、わたしと同じ顔をして微笑んでいた。


Fin