京にしとしと雨の降る 雨の船



「夏生さん、はよう来とおくれやす」
「今日は勿忘草色ですか、お母さん」
 僕の答えに母はぴくっと一瞬だけ動きを止めた。
「そないなこと、どうでもよろしおす」
「でも母さん、僕は夏生です」
「それとうちの着物と、どう関係ありますのんか」
「僕の中では重大問題です」
 それ以上母は何も言わず、相変わらず美しい額にすこうしだけ苦悩の色を浮かべて、表に待たせてあるタクシーに乗り込んだ。
 僕はその母のそういう様子を見るのが好きだった。若く、美しく、上品な京女である母が、すこうしだけ眉を曇らす、あるいはすこうしだけ眉間に皺を寄せる、あるいは額に曇り影を作る。
「お相手のお嬢さんも、生粋の京育ちで、たいそうお綺麗な方やて、どこをどうして夏生さんに縁談が回ってきたのか、夏生はんは幸運なお方でおへんえ。くれぐれも、相手に粗相のないよう、しておくれやしなあ」
 母はなぜか今日の縁談には、気を遣いすぎていた。そこまで気を回さなくてもええくらいに、細心の注意を払って事を進めていた。何も僕を取り繕ってまでするほどのことでもないと思っているのは僕だけのようで、僕の家族も、親類縁者も、大乗り気であった。相手がただの金持ちでなく、京都でも屈指の旧家の娘であったからだろう。
 ただ、母はそういったことでなく、何かに気をもんでいるらしかった。いつになく、細々としたことを逐一注意した。そして僕にはなるべく相手の情報を最小限にとどめようとしているらしかった。
「なんでそない気にするねん」
「ああ夏生、その汚らわしい言葉だけは止めておくれやっしゃ」
 普段は何も言わない母も、僕が大阪の言葉を喋るのだけは我慢がならないようだった。その言葉以外なら、山形弁でも、鹿児島弁でも、東京弁でも(あるいはこれもそんなには気が進まなかったのかもしれないが)、何でも良かった。母は、大阪のあの下卑たところが大嫌いやった。僕の大阪の叔父も、ただそれだけの理由で嫌っていたし、食べ物も、笑いも、商売も、すべてが母の悪夢なのであった。
 悪夢。

 僕の悪夢は、そう、あなたです。かあさま。



 しばらく双方の親を交えて話していたが、どちらからともなく表に出て2人で話すよう仕向けられ、相手のお嬢さんの礼子さんと庭に出た。
 礼子さんは僕より4つ年下の18で、色白の、さらさらとした短めの真っ直ぐな髪の下に小さく整う顔の愛らしい人であった。
 喋るたびに髪の毛がさらっさらっと動く。
「礼子さんはどうして僕なんかとお見合いをすることにしたのですか。何も僕のような普通の家庭に育ったものでなくとも、よいのに」
「わたくし、夏生さんのお名前聞いたときに、何かぴいんとくるものがあったんです。夏生さんて、名前と違って、ちっともあつういお方と違いますなあ。でも、わたくしの想像通りのお方です」
 礼子さんはうつむき加減に静かに話した。
 僕は、風のピューピュー吹く腰ほどまでもある草原の中へぐいぐいひきずりこまれるような心地でいた。ぼんやりとした、うずを巻きながら。
「僕は、多分、どこかでうちの母に懸想しています。それも、想像通りですか」
「ええ」
 礼子さんはちっとも驚いたふうもなく、今までと変わりなく、僕を草原のうずへと導いた。草原の空はくもっている。風は生暖かい。
「では僕が夏生という名前をあまり気に入っていないのもご存知ですか」
「ええ」
 僕はもう半分草原に埋もれていた。でも悪くはなかった。
 礼子さんは音もたてずに歩き、淡い紅色の着物をきちんと着ていた。
「僕の本当の父は大阪人で、母を捨てていきました。だから母はあんなに若くして、どこかに苦悩のかげを背負っているんです。あんなに美しうて品があるのに」
 僕は目の前にあった梅の木を見た。紅白梅が五分咲きで、ぽつりぽつりと枝についている。僕は無造作に赤い方の枝を折った。枝はぽきりと音をたてて、2人の間に緊張感をただよわせた。
「わかっております」
 礼子さんは白い方の枝を静かに折った。
「梅は恋がみのると赤く色づくのですよ」
 礼子さんは雛人形の官女のような気品で枝を手に持った。
 僕は何のためらいもなくいった。

「僕はひどい嘘つきです。でも、結婚してください」



 それから、3ヶ月後に僕たちは結婚した。礼子は真っ白い衣装に包まれて、綿帽子の下からはほんのり色づいた梅のように薫る小さな顔が見えた。
 あのとき彼女の折った枝は、まもなく僕の折ったのと変わらないほど赤くなり、それを母は知らぬ間に床の間に活けていた。
 愛らしい花が、ぽっちり、ぽっちり、とついて、2月の冷たい雨にも負けない、強い絆のようだった。