冒険家は得をする 1



 ステラ・バートン、本名アナスタシア・バートンが愛車の派手なスポーツカーを乗り回すのは、彼女が興奮を求める性質だからだった。子供の時分から明るい面白がりの退屈嫌いな娘で、退屈しないためだったらどんなことでもするし、お陰で日に3つものパーティの招待を受けてしまうようなこともあった(それを上手に断るのは全部執事の役目なのだが)。1度夢中になってしまえば危険をも顧みずに飛び出していってしまうようなところがあったので、彼女の身近な人間にとっては大変な気苦労がつきまとっていたが、同時にその行動の華やかさに期待し社交欄にステラの華々しい活躍を見出すのを世間は楽しんでいた。
 従って、彼女はただの陽気な娘ではなかった。ヴィンセント・バートンという1代で巨万の富を築いた大富豪の娘にしてまたとない美貌の持ち主であり、彼女の意中となるのはどんな男性かと、今上流社交界では誰もが注目する人物だったのだ。
 もちろんバートン家のような成り上がり者を嫌う人物も多いことから彼女を悪く言う輩もいた。でもステラと会って知り合う前と同じ評価をする人間はいない。それはステラが、どんな皮肉屋でも「やれやれ」と言って屈さずにはおれない魅力の持ち主だからである。薄い金髪、ハシバミ色のつりあがった瞳、ツンとした独裁的な鼻、バラ色の唇。スラっとした最新モードを上手に着こなした彼女が「あなたのチョイとひねったそのお髭、私につけてみたらいかがかしら」と陽気な笑い声を上げれば、たちまち彼は彼女に降参する。そして2度目に会った時には彼女の賛美者へと変わる。
 さて、ステラが退屈な政治活動ばかりの新聞を放り投げ、外出用の美しいミンクのケープと目の飛び出るような金額ではあるが120%満足を与えてくれるマダム・エセルの帽子という出で立ちでホールへと下りて来たのは、ある日の昼過ぎのことだった。玄関に車を回すよう命じられた執事のスティーブンスに行き先を聞かれ、ステラは毛皮付きの長い手袋をいじりながら呆れて見せた。
「まあ、あたくしに本気で行き先を聞くつもり?」
「旦那様のご命令です」
「お父様ったら、相変わらずなんだから!」
 ステラはふくれて見せたが、執事は顔色1つ変えなかった。
「旦那様はアナスタシア様のことがご心配なのです」
「もちろんよ。早く貴族のお婿さんを見つけて、孫を生んでもらわないと困りますものね」
 上品な肩をぷいと翻し、ステラは出て行った。父親のことは誰よりも愛していたが、“お婿さん”の点だけは到底ステラの納得いくものではなかった。
 ヴィンセント・バートンは大事な娘が貴族と結婚すればいいと考えていた。金なら唸るほどある。名声もある。経済界を動かす力も手に入れた。では残り足りないものは? 名誉だ! かくしてバートンは上流と呼ばれる人々と好んで付き合いをし、その息子達と娘を引き合わせるのに夢中だった。しかしステラは今まで出会ってきたどの青年達にも魅力を感じてはいなかった。彼女からすれば彼らはどれもこれも間抜けたお坊ちゃんばかりで、自分で人生を切り開くという覇気に欠け、美しいお金持ちの令嬢との生活を夢見るばかりの軟弱者だった。そんな相手ごめんこうむると、父親が裏で根回ししたプロポーズも数知れないほど断ってきている。
 かといって、堅物の夫でもいけない。うんざりする演説を日常でも繰り返す夫なんか、ステラには1日だって我慢できるはずなかった。確かに彼らは信念を持っている。だが同時に隠し事も多い。妻が夫に「今日あなたは何時にお帰りになりますの?」と尋ねただけなのに、まるで新聞に載っていたような国際間の秘密交渉や軍事に関わるスキャンダルを訊かれたように、それは口外できないとか“かも”とか“まだ”とか曖昧な言葉ばかりで返答するような生活が目に浮かぶ。彼女の中の彼らは、最終的にはピストルで頭を打ち抜いてしまうような白黒のつけ方をしておいて、「私の身は潔白だったが、妻には迷惑をかけたくなかった」という遺書が書斎から出てくるような人間に思えた。ステラが求めるのは現実に生きる力だった。
 屋敷を出るとステラは、スティーブンスが本気で尋ねた行き先のあちこちへと出かけ、沢山の用事を済ませた。それからふと思い出して、友人であるアディーのマンションへ向かうことにし、信じられないスピードで警察を煙に巻いたのは屋敷を出てからもう3時間ばかり過ぎた頃だったろう。アディーは正真正銘貴族の娘で、しかも亡くなった伯母の貴族号も継いでいる。ふた回りも年の離れた金持ちの夫を持っているのが自慢のレディだ。着いたのはアディーがその夫ジョージとロンドンにちょっぴり立ち寄る際に使う瀟洒な高級マンションで、新しく住まいを買うのが最近の趣味の彼女のお気に入りだった。株を動かすのとアディーを甘やかすことにかけては天才的と評判のジョージが、株で儲けた金の余りでモダンな生活を垣間見るのに丁度よいマンションでもある。しかも彼の眼鏡にかなっただけあり、既に買った時より値がかなりつりあがっているらしい。ともかく、ステラは運良く在宅中だったアディーと楽しい一時をこのマンションで過ごした。
 ステラが次の用事を思いついて部屋を後にし、エレベーターがエントランス階に到着した時、入り口に飛び込んできた男がいた。男はステラの姿に気付くと、すばやく階段の方へ駆けていった。身なりはいいものだったが、帽子を目深に被り背も高いのに俯きがちなことがステラの脳裏にひっかかった。エレベーターも使わないで、変な男。ステラは何となく気になりつつそのまま出て行った。
 ステラが忘れ物に気がついたのは翌日のことだった。
 珍しく早起きをして電話をかけた後アディーのマンションを訪ねると、ドアマンがいない入り口はしんとしている。そう言えば昨日もいなかったわねと、ステラが入り口の扉に手をかけると、当のドアマンがぷりぷりしながら戻って来るところだった。
「全く一体なんだってんだ…ああこれは奥様」
「あなた何を怒ってるの」
「これは失礼。いえねまた例の騒ぎで呼び出されたんですよ」
 ドアマンは誰かに言いたかったのか、ここぞとばかりにステラに話し始めた。
「何度見たって同じなのに」
「例の騒ぎって、なんなの?」
「ほらあの、501号室の紳士の秘書がまた言ってきたもので。私はその秘書とやらの方を調べた方がいいと思うんですがね」
 501とはアディーの部屋の隣である。だがステラにはドアマンが一体何のことを話しているのかさっぱりわからなかった。ちょっと小首を傾げると、ドアマンは「ご存知ないんですか」と頼みもしないのに説明し始めた。
「最近マンションの外に不審な女浮浪者が来てるって大騒ぎしてるんです。私が何度見てもそんな人物はいないって言うんですけどね。いつも『この目で見た。絶対に怪しいから確かめろ』って。私が見に行くまで放してくれないんですよ」
「まあ」
「最近毎日のようにですよ。結局その浮浪者というのを捕まえることは1度もないときてるんですから。おまけにどこかの子供が悪戯しに来たり、忙しくてかないませんや。私だって暇じゃないんですよ」
 そういうドアマンは、こうして無駄話をしてる以外に特にすることはなさそうだった。ステラはふと気になって、ドアマンに尋ねた。
「ねえ。昨日あたくしが来た時。そうね、今の2時間くらい後の時間かしら。その時ももしかしてその浮浪者を見に行ってたの?」
「ええ! 確かにそうです。その時は電話で呼び出されまして。部屋の窓から今その女が見えるからそこへ行けって言うんですよ。行かなかったら管理会社に言ってお前はクビだとまで言われまして。私はきちんと職務を全うしてますし、ここはそんなに品位のないマンションじゃないんです。女浮浪者どころかねずみ一匹だって敷地内にはいやしませんよ。一体私が何をしたって言うんです」
 まだぷりぷりと怒りつづけるドアマンをなだめると、ステラは大急ぎでアディーの部屋へと上がった。連日訪れたステラを温かく迎え入れたアディーは、ステラがたった今ドアマンから聞いた話をすると、素晴らしい色に染め上げた自慢の髪をいじりながら答えた。「あら、そんな話初耳だわ」
「じゃああなた、このマンションに浮浪者が出たのを見たことないの?」
「もちろんよ。そりゃあジョージとあたしはこのマンションにいつもいるわけじゃないけど。でもそんな変な人がしょっちゅう出るマンションなんか、ジョージが選んだりするわけないわ」
「その501号室の紳士って、お隣りよね。どんな方なの?」
「確か外交官とかなんとか。そういう方だったと思うけど」
「ドアマンは真面目なの」
「さあ。でもわりと良く立っている方じゃないかしら」
「じゃあその外交官だか秘書だかが神経質なのね」
「そりゃあそうよ。外交官なんて神経質の塊みたいなものじゃなくて? やれこれをしたらA国に印象が悪いだの、やれ外貨がどうのと、まったく。きっと朝食の目玉焼きの黄身がどっちかに片寄っただけで戦争が始まるって本気で信じてるに違いないわ」
 2人は大いに笑った。
 ステラは得意げに言った。
「あたし細かい男の人って嫌い。もっと大きく構えて、妻に操られてるようなふりの出来るくらいでなくちゃ」
「あらステラ、うちのジョージには充分満足していてよ」
「ジョージは別よ。見なくてもあなたが充分甘やかされてるってわかるわ。あたしが言っているのは世間一般のことよ」
「そう言うけど。今世間じゃ一見いい殿方には用心した方がいいのよ。甘い愛の言葉たっぷりに、お金はあるけど男性慣れしてない令嬢に近づく身なりのいい殿方」
「あらなあにそれ?」
 持ち前の好奇心で尋ねると、アディーはステラの手に自分のを重ね、顔を近づけた。
「詐欺師よ。結婚詐欺」
「まあ!」
「今そういうのに引っかかるお嬢様たちが多いのですって。世間を知らない無垢な娘たちはあっという間に彼の虜となり、貢いでしまう。そして気がつくと――ドロン」
 アディーが両手をぱっと広げた。
「それで、そういう手合いに引っかかりそうになったさる方のご令嬢も、大慌てでパリへの留学を早めたんですって」
「恐ろしいわね」
「どんな美女で殿方を知り尽くしたつもりになってる人でも、簡単に引っかかるのよ」
 アディーが意味ありげにお気をつけなさい、とステラに瞬いた。ステラは「あたくしはそんな手合いに絶対にかからないわ」と自信たっぷりに答えた。
 ふとアディーが何気なく窓の外を見やった時「あらまただわ」という小さな声が聞こえて、ステラは気になった。
「何が『また』なの?」
「ほら、あの車よ。浮浪者は見かけないけど、あの車は最近よく見るのよ」
 外にはちょっと独特のエンブレムをつけた高級車が止まっている。ステラはその車から降りた人物を見て驚いた。あれはリー卿ではないか!
 ステラの父は娘を一流社交界に近づけさせたくてせいぜい努力していたが、同じように娘を1人持ち、元は軍事工業の大立者で今は政界で名を轟かすアルフレッド・リー卿とは随分親しくさせてもらってるようだ。卿のご令嬢は最近婚約されたとかで、相手は筋金入りの貴族らしい。これ以上ない縁談に父は随分羨んでいたものだ。
「でも一体どうして卿がこんな所に?」
 そう言えば卿には昔、スキャンダルが持ち上がったことがあった。軍事関係の仕事に携わっている時、何かスパイと関係があると言ったような、大きな問題だったと記憶してる。結局シロともクロともはっきりしないまま、話は終焉したようだが。政治にさほど興味のないステラには詳しい内容はわからなかったが、その時なんとかいう外務省の人間が卿の潔白を表明していなかっただろうか?
 アディーにならって、ステラも窓からリー卿の行方を追った。リー卿は威風堂々といった態でマンションに入って視界から姿を消した。
「マンションの新しい住人かしら」
 アディーはあれがリー卿だと気付いていないようだった。だがステラは黙ったままでいた。
 リー卿のような昔気質の軍人気質の方は、決して現代風マンションなんて好むはずはない。田舎の邸宅に落ち着いて乗馬に狩りをするのが趣味なのだ。だからどこかの部屋に用事があって来ていると思われる。もしや身の潔白をつけてくれた外務省の人間というのは、やかまし屋のお隣りなのかもしれない。
 ステラは退屈したアディーに引き止められて、それから1時間も過ごした挙句、ようやく帰る算段をつけた。
「それじゃ」
 そうしてメイドが開けたドアを出かかったところで、はっと身を翻した。
 驚いたメイドをよそにステラは急いで扉を閉める。
「……」
 扉にそっと耳を当て澄ましてみた。唇に人差し指を当ててメイドにも黙るよう促す。
 隣の扉からリー卿が出て来たのだ。
 卿は風のように素早く出て行くと、エレベーターを下りたようだった。
「あらステラ、どうかしたの?」
 アディーがのんびりと出てくる。
 ステラは「ちょっとごめんあそばせ」と言うと、素早くさっきの居間まで戻った。居間の窓から外を覗く。
 時を同じくして、卿が素早く出て行くのが見えた。
 ステラは考え始めた。
 再び見送りの言葉をかけられて今度こそ部屋を後にした時は、ステラの目は猫のように光っていた。


 行きと同じくらいの速度で自宅に帰ったステラは、玄関ホールに入るなり執事に切り出した。
「ねえスティーブンス、リー卿が以前スキャンダルに遭われた時、窮地をお助けしたのは誰だったかしら」
「コールマン様でございます」
 卒のない執事はいつもどおり表情を変えないまま、ステラの突然の質問にも難なく答える。
 手袋を傍らのメイドに脱ぎ渡しながら、ステラは質問を続けた。
「ミスタ・コールマンはどういう方なの」
「はい。外交官をなさっておいでで、大臣のご信頼も厚い立派な方でございます」
 ステラが目を細めたのを見て取ったスティーブンスは、遠慮がちに付け加えた。
「確か現在のお住まいは、キャンベル子爵ご令嬢モートン男爵夫人、現在のカーネギー夫人のロンドン仮住まいであるマンションだったと存じます」
「まあ、お前は本当に物知りね」
 恭しく頭を垂れた執事にステラは満足の笑みを与えると、お茶を持ってくるように命じながら、再び考え込んだ。
「……」
 その時スティーブンスが熱いお茶を持って入ってきた。
「まあスティーブンス、丁度いいところに。近いうちに、リー卿とお会いできるようなパーティだとか晩餐会だとかはないのかしら」
「それでしたら、明晩のチャタートン夫人の晩餐会が宜しいのでは。あの方はアナスタシア様の大層ご熱心なファンでいらっしゃいますから、今からご出席を申し上げても問題ないと存知ます」
「どうしてチャタートン夫人なんかの晩餐会にリー卿がおみえになるの?」
「チャタートン夫人はご令嬢のご縁を取り結ばれたとか」
 それを聞いて、ステラは少しだけうんざりとした表情を見せた。
 あの派手好きのゴシップ婆あ!
 チャタートン夫人は人の色恋沙汰に首を突っ込み注目を浴びるのが大好きな派手な老女で、一度お茶会に参加した時なんか、ヴィクトリア時代のようなごてごてしたレースのティーガウンを引きずって、モダンなステラの目を白黒させたほどだ。ステラのことに尋常ならざる興味を抱くのも、自分が花形社交界の立役者になりたくて仕方ないからだった。
 それが嫌でなんやかやと理由をつけては誘いを断っていたのだが、そろそろ行っておかないとならないタイミングでもあったし、情報収集のためにはやむを得まいと晩餐会に出席することにした。
 チャタートン夫人に連絡したスティーブンスの報告によると、ステラの来意を聞いた夫人は“これ以上ないくらい”喜んだという。13人になってしまうからと大急ぎで“きっと調子が悪くなるに違いない”客に断りの連絡を入れるとまで言ったらしい。

 翌日、運転手にチャタートン夫人の屋敷まで運ばれたステラは、一段と艶(あで)やかだった。あっさりとしたデザインながらスタイルの素晴らしさを最大限に引き出しているイブニングドレスは、陶器のような肌のステラを宝石で包んだように輝かせている。仕立ての良さもさることながら、クレープ地の滑らかな裾が長く尾を引いて凛と歩くステラの美貌にも、見た者全てが溜め息した。
「まあ! まあ! まあ!」
 迎え入れたチャタートン夫人は極彩色の羽飾りでもつけたら似合いそうな格好で、ごてごて宝石のついた両腕をステラの方に伸ばした。
「アナスタシア! 今日はまた光り輝く星(ステラ)そのものね!」
「光栄ですわチャタートン夫人。どうやったらいつまで経ってもそんなに華やかでいられますの?」
 適当にあしらいつつ、客を見渡す。食前酒を手にお喋りを弾ませている中に、リー卿の姿を認めた。
 ステラは親しげに話しかけられつつも生憎誰だったか思い出せないミスター&ミセス何とかをやり過ごすと、そっとリー卿の元へ近寄った。
 ステラを見たリー卿はにこやかに応対したものの、どこか心ここにあらずといった態だった。2人は挨拶を交わすとステラは早速本題に入ろうと思った。客はまだ揃っていないようだが、早くしないと卿と話すチャンスがなくなりそうだったのだ。ステラが最近のご様子をさり気なく尋ねると、卿は答えた。
「健康だけが取り柄でね」
「あら、あたくしと同じですのね」
「ルーシーには会ってくれているのかね」
 ルーシーとは卿の令嬢の名だ。
「最近はしばらくお目にかかってませんわ。あの、ご結婚なさるとか。おめでとうございます。お2人はいつから?」
「チャタートン夫人のお陰で。先月知り合ったばかりなのだが」
「先月! まあ羨ましい。でもそれでしたら今さぞかし花嫁の父としてお幸せでしょう」
「そうは言っても近頃は難しい問題が起こりがちだよ」
「それは大変でございますわね。殿方は政治に家庭にと顧みる場所が多うございますものね」
 卿はしかし、ぼんやりとしたままこう答えた。
「果たしてこのままうまくいくかどうか…」
 ステラはひどく驚いた。確かにルーシー嬢の婚約は急で、センセーショナルだった。今まで浮いた噂もなく、自分の身なりよりチャリティやバザーなどのプランを練ることに熱心だったと聞くルーシー嬢に、突然降って沸いた恋である。だからと言ってしかし、こんな風に心配することがあるだろうか?
 ステラは何かひっかかるものを感じながら、なんとなく訊いてみた。
「そういえば先日、友人のマンションで卿をお見かけしたんですのよ」
 すると卿は、突然ステラに気付いたようにまじまじと見た。
「どこで…?」
「――地区の、瀟洒なマンションですわ。あすこに友人が住んでますの。卿は最近マンションをお買いになられたの?」
「いや。私にそんな趣味はない。あそこには私も友人がいてね。時々顔を出すようにしているんだ」
「それって、もしやミスタ・コールマンというお名前では?」
「私の友人は、彼だけじゃないよ」
「あら、そうでしたの。あたくしはてっきり」
「ミス・バートン」
 卿は持っていたグラスをそっと窓際に置くと、ステラに向き直って言った。
「誰の人生にも、超えねばならない山がある。そしてその山はいつもなだらかとは限らない。しかし」
 あとでその時のことを考えれば考えるほど、意味深であったように思える。
「私は家族のために。私が大切に思う人々のために、その山を無事乗り越えることが出来た時、一際大きな幸せが待っていると思う。そうじゃないかね?」
 ステラは意味を図りかねて、無言になった。
 食事の開始を告げる鐘が、ホールに響き渡った。


 それから数日の後、ステラが再びアディーのマンションへ向かうと、三度ドアマンの姿が見当たらなかった。
 それを見たステラは大急ぎで入り口に飛び込むと、その脇でじっと待った。
 扉が開いたのを見計らって、ステラは素早く飛び出した。
「あ!」
「失礼!」
 例の男だった。ステラはわざと相手の男の顔を覗き込んだ。
「お怪我は」
「いえ、どこも」
「それでは急ぎますので、失礼」
 男は覗かれそうになると素早く顔を避け、すっとその場を離れた。それを見てステラは決意した。これは早く動かねばならない。
 だが、だがどうやって。
 間を置いてアディーの部屋へ行くと、今度は夫婦揃ってステラを迎え入れてくれた。
 閃くものを感じてステラはすぐに行動を開始した。
「ねえ、お隣りのミスターは、あたくしのことまだ知らないわよね」
 アディーが夫のジョージを見上げながら、
「さあ。あなたはいつも、風のように来て風のように去っていってしまうから」
 そう答えた時には、ステラのプランはもう決まっていた。
「ねえジョージ、アディー、お願いがあるの」