パーフェクトゲーム 6


 敦之は、会社の喫煙スペースで煙草を吸いながら、空を見上げていた。
 思い返す。あの後、欲望に勝てずに、梨古を抱いてしまった。梨古の幼く拙い動きにも最高に欲情している自分がおかしかった。そして、むさぼるように口付けた気がする。
 勝負に勝ったのに、ちっともすっきりしない。
 これで終わったんだ。
 ちょっとした遊び。そして報復。自分を男じゃないと言っていた女に、自分を惚れさせた。ゲームオーバー。勝ったのは自分。いいじゃないか。なのに。
 梨古が、俺に惚れて…惚れて?
 敦之は首を振った。梨古は自分を好きになったんじゃない。単に賭けを早く終わらせるために、あんなことしたんだ。
 彼女からは、今までそんな感情を微塵も感じなかった。敦之のことを他人に対して「価値が無い」と罵った女が、まさか信じられない。はっきりと自覚すると心が痛む。
 それに俺はまだこだわっている。敦之は煙草を持つ手を額に当てた。
 いつまであんな痴話喧嘩にこだわってるんだ。過ぎたことじゃないか。何がそんなに腹立つんだ。もう梨古とは終わったんだ。ゲームだったんだ。そう思うのにでも…
 もう、賭けなどどうでも良くなっていたのに。ただ梨古が欲しかっただけなのに。それなのに、何もできないでいた自分が悔しかった。そして賭けの終わってしまった今、もう2度と会うことは無い。梨古もそれをわかってか、いつになく「さよなら」って手を振って行った。あれは別れの挨拶。
 梨古に映っていたのは、最低最悪の自分だけ。
 本当の結果は俺の負け。いや、最初から俺の負けだった…
 ようやく自分の気持ちを認める気になって、敦之は苦笑した。
 俺は、予感していたのだろうか。
 最初に、腐った自分におろされた鉄槌を味わって、その時から既に彼女に惹かれていたのかもしれない。なのにどうやって彼女に近づけばいいのかわからなくて、回りくどいことをして。
 確かに、俺は盲目で手探りしながら彼女を探していた。見つかるはずのない彼女を。
 こんな風な気持ちだけしか残らないくらいなら、抱いてしまわなければよかった。
 敦之の心に、隠し切れない気持ちだけが溢れて、胸が一杯になる。
 梨古も最初からきっとわかっていただろう。俺に勝ち目の無いことを。無駄な時間を費やすのに飽きたのか。それとも俺には何も教えることはないと諦めたか。覆しようのない事実がどんどん広がっていくことに、暗い恐怖を覚える。
 ようやく認める気になったのに。
 敦之は再び苦笑して、目を閉じた。
「俺は梨古のことが好きだ。人生をかけてもいいくらい」
 敦之の心で一旦それが弾けると、彼はもう迷いも隠しもしなかった。
 このままではいられない。
 敦之はすぐに携帯を取り出した。
 かける相手は決まっている。だが梨古は電話に出なかった。何度かけても通じなかった。それは“あなたとはもう終わり”と言う暗示なのかと不安になったが、敦之は諦めなかった。
 梨古のプライベートを知らない。彼女はこのことを見越してわざと教えなかったんだろうか。敦之は募る苛立ちに何度も煙草に手が伸びそうになった。でも逃げるのはやめたと決めたから、ぐっとポケットに伸びる手を抑えた。

 それから毎日電話をかけ続けた。仕事の合間や後に、何度も電話した。電話が通じているのだけが頼りだった。頼む、出てくれ。敦之は祈った。でも梨古は出なかった。そんな日々が続くと敦之の心は難破船のように暗く沈んでいった。
 もう駄目なんだろうか。
 やっと認めたのに。やっと這い上がれるのに。
 敦之はこんな自分に呆れつつも、オフィスを出ると、習慣になっていたリダイヤルボタンを押した。馬鹿みたいだな、俺。
 相手の携帯の発信音。敦之は聞きなれたメッセージの音を想像した。同時に着信音がする。――着信音?
 何気なく辺りに視線を配る。耳に当てた携帯からも音がする。不安で張り裂けそうな時間。
 だが敦之は見つけた。目の前に、竪琴を持つセイレーンの姿が現れた。
「! ……」
「もしもし」
 電話は切れていたが、相手は携帯を耳にあてたまま言う。敦之は、目を離せないでいた。逃さないように必死だった。
「…ああ…斉藤梨古さんですか」
「そうですが」
 震えそうになる体を我慢して、敦之は近づいていく。
「俺です。あなたに身も心も打ちのめされた、俺です」
「…」
「あなたに打ちのめされて、立ち直れない男です」
 梨古は携帯を持っていた手を下ろすと、目の前に立った敦之を見上げた。
「あなたは最低だと思ってたのに」
「俺は君に罵られて、苦しかった」
「私はあなたの過去に、嫉妬してた」
 敦之は、泣きたいくらいおかしな気持ちになった。高揚しすぎて、何を言っているのかわからない。でも確かなのは、目の前にいるのはもうセイレーンじゃない。1人の女性だ。美しくて素晴らしい、人間だった。
「どうかこの代償に、俺を、一生あなたの傍に置いてください」
 彼女は恐れる敦之を抱き締めると、優しく微笑んでくれた。
「あなたの勝ちよ。完全に。だから、あなたの言うことなんでも聞くわ」
 敦之は心地よい勝利を味わった。完全なる敗北と同時に、完全なる勝利を戴いた。