パーフェクトゲーム 5


 昨日の酒が綺麗に抜けない。
 こんなのは学生の時、馬鹿飲みして以来だった。
 敦之は自分が何にこんな苛ついているのかわからず、苛々と仕事をこなした。その日は急げば誘うことも出来たが、昨日の今日でそういう気にもなれず、結局残業をしていた。こんな調子では――。あと1週間ちょいだと言うのに。
 夜9時を回ってもオフィスは明るい。残って仕事を片付ける人が多いからだ。高層階の窓の外はすっかり暗いというのに。
 集中していたお陰でしばらく梨古のことを忘れていられたが、それも終わってしまえば梨古について考えるしかないのだ。そう気付くとなんだか馬鹿馬鹿しくなった敦之は、諦めて帰ることにした。
 パスケースの中に、梨古からもらった名刺が入っている。
 一体彼女はどういう女なんだろう?
 歳も働いている会社も住んでいる場所も、何もわからない。何も教えようとはしない。そんなもの無くたって付き合えるが、こんなにも相手を知りたいと思ったことがあっただろうか。かつて、これほどまでに敦之をつき動かした女はいなかったように思う。
 同僚の吉岡の言葉が甦る。女に付きまとわれて怖い――
 いや、本当に怖いのはつきまとっている自分だ。でも吉岡はこうも言った。“違う、逃げたいだけか”、でも“どっちにしたって意味は変わらない”とも。どういうことだ? 遊ぶのと、逃げたいというのは一緒なのだろうか? でもそれなら俺のしていることはなんなんだ。
 敦之は少し休んで一服していくことにした。途中にあるイングリッシュパブに入ると、ビールを1パイント頼んですぐに煙草を取り出す。
 煙をゆっくりと吹き上げる。
 何故自分がこんな馬鹿な男に成り下がったのか。そもそもはヤリたい盛りの高校時代から始まったように記憶してる。経験をつむと、色々試したくなる。好きで付き合っていた彼女もいたが、1度年上の女と遊んでからは、遊ぶほうがメインになっていった。敦之の中で女性像が歪んでいった時期でもあった。
 別に本気で相対するほど望む相手もいないし、何かを分かち合えるほど素敵だと思えることにも出会わなかった。1回相手の女が浮気して修羅場というのを経験してからは、もうどうでも良くなった。女の言うことを真面目に取り合うほうが疲れる、信じると後で痛い目見ると思ってからは、ライトな付き合いしか望まなくなった。それでも充分女は寄って来たし、楽しめた気がしてたのだ。
 1人家に帰れば女のことなんて忘れていられるし、素の自分でいられる。誰かが彼女と真面目に付き合っているのを見ても、別に心は動かされなかった。人種が違うとか、もし本気と思える相手が出来たらその時真面目になればいい。そう思っていた。
 だがどうだろう。もしかしたら本当は何もわかっていなかったのかもしれない、敦之はそんな気がした。いろいろな女と付き合えば、相手の考えていることもわかるし、深入りしないで済むし、逃げることも可能だ。それなのに、どうだ。どうして梨古のことはわからないんだろう。知りたいと思うのだろう。何に俺は戸惑っている?
(お前はセイレーンの歌声を聞いてしまった)
 ふとそんなフレーズが敦之の中に生まれた。
(セイレーン。梨古。梨古の魔力に、)
 ――馬鹿な。
 敦之はうっすら笑うと、ビールを飲む。どうせあとちょっとなんだ。よし、次の約束を取り付けよう。敦之は携帯を取り出した。


 次に会ったのは、金曜日の晩だった。時間的に余裕があったので、待ち合わせ場所に敦之が車で向かうと、珍しく梨古はまだ来ていなかった。
 いつも先に来てるのに。
 敦之は車から降りると、ボンネットにもたれて煙草を吸い始めた。
 最近量が増えている。マズイな。
 表に出てこなくても、煙草の量が増えている時は苛ついている証拠だ。ちっと軽く舌打ちして、道端に煙草を捨てた。
 残暑はあるが、大分涼しい。
 着替えて来なかったので、外したネクタイを胸ポケットに入れてシャツのボタンを外した。こんな砕けた格好も、人前では余り見せなかったのに。
 そうしていると、梨古のすらっとした姿が現れた。敦之は苦々しい気分だったけれど、にやけた顔をわざと作った。
「お早いお着きで。そうそう、この間は仲裁ありがとう」
「どういたしまして」
 皮肉たっぷりに言って見せたが、梨古は何も感じていない様子だった。敦之はなんだか不満だった。
 車が静かに動き出した。運転しながら敦之がちらりと梨古を見ると、いつになく無口でいる。開けた窓に頬杖をついて、外を眺めていて、何も言わない。
 期限も残りあと僅か。もうこんな男に構ってる余裕はないってことか? 訝っていると、梨古が突然言った。
「右へ行って」
 ちょっと驚きつつも言う通りにする。何故か胸がキリキリした。その後も「左」だとか「真っ直ぐ」だとかいう指示だけが続き、とうとう「ここで止めて」という場所まで来た。
「こんな所で、どうした?」
 人気の無い通り。広い道路の先は工業地帯だから、この辺を走る車も少ない。周りはしんとして暗い。敦之は怪訝そうに梨古を見た。
「飯は? 腹へってないのか?」
「いらない。それより」
 梨古は真面目な顔で敦之を見つめた。遠くの街頭の薄明かりが梨古の顔を照らしている。敦之は不審を通り越して、ただ綺麗だと思った。セイレーン。美しく人を惑わし愛に反抗するモンスター。自分は他人を愛さないくせに、こちらはオルフェウスの竪琴でもない限り、抗えない。ぼうっと見つめていると、梨古が言った。
「もう賭けはやめにしましょう」
「え?」
 突然のことに、敦之は驚くよりもショックを受けていた。
「もう、これ以上、続けていても無意味だわ」
「だけど、まだあと1週間はある」
 ここでやめられたら、という思いが微かに敦之を動かした。それともコールドゲームってことか。僅かに声が震えてるのを感じながら、それでも敦之は軽い調子で言うしかできない。
「俺が負けるのは目に見えてても、今やめてしまう必要はないだろう」
「違うの」
 梨古はすっと手を伸ばして、初めて自分から敦之に触れた。瞳が、苦しげでそして悲しい色をしていた。
「違うの。私の負けよ。だから、今ここで私を抱いて」
 敦之は息を呑んだ。