パーフェクトゲーム 4


 食事はいつも通り和やかに、そして楽しく終わった。お互いのプライベートの話を嫌がる梨古にあわせて、敦之は関係のない日々の話をいろいろ話した。もともと陽気な敦之なので別に話にはこと欠かなかったし、かえって恋愛のうんざりするような気遣いがいらなくて、2人は気楽におれた。
 不思議なもので、色恋を匂わせると途端に嫌悪する梨古なのに、普通にしていれば穏やかで可愛らしい女の子だった。敦之と対峙している時のあんなに大人びて冷たい印象はなく、ただの気ままな明るい女性に見える。
「あんまりお酒を飲ませないでよ」
 梨古はほんのり目の周りを染めて、楽しそうにグラスを仰いだ。
「まあまあ、折角美味しいものを食べに来たんだから。俺は最近、ようやく本当の酒と食事の関係に気付き始めたんだから」
「なあに、それ?」
 敦之がワインを注いでやると、梨古は結局断りもせずに見ている。一体どっちが本音なんだか。でも敦之は楽しかった。
「酒は食事をうまくする、ってこと」
「わかりきってるじゃない」
「違うよ。雰囲気じゃなくて、味。料理と酒は一体なの」
「ふーん。敦之ってじじくさい」
「なんだよ、リコだって本当は幾つなんだか」
「あーらこんなに飲ませて、あとで吠え面かくわよ」
「はいはい、リコちゃんは酔っ払うと大変なんだねえ」
 いい加減に酔って、ゆっくりと食事を楽しんだ後、2人はぶらぶらと駅までを戻った。
 目の前でふらふらと少し足取りのおぼつかない梨古を見ていると、敦之はあの海で感じた「セイレーン」というのを思い出した。彼女には魔力があるのかな。気をつけないと難破させられちまう。敦之は酒で霞のかかった頭でぼんやりと思う。
 ――でも。
 梨古が、自分から賭けの賞品を持ち出した時には、驚きもしたけど、火がついたのは確かだった。俺は今、本当に、彼女が欲しいと思う。なんだろうこのどろどろした感情は。お預け状態に欲望が渦巻いているのか。確かにこんな付き合いは何年ぶりだろう。敦之は締め付けられるような感覚を胸に感じて、少しはっとした。何を考えているんだ俺は。危ない。セイレーンの歌声は恐ろしいのだ。耳に蝋をつめ、マストにしっかりと体を縛り付けないと――
「敦之!」
 予想外の呼び声に、立ち止まった。敦之はさっと心が曇った。
「…あなたたち、そういうことだったのね」
 麻耶だ。隣りに男を連れているのに、平気でこちらに声をかけてくる。何だ、ヨリでも戻したか。梨古がぼうっと麻耶と男を見比べている。
「アタシと別れるために、あんな猿芝居を打ったんだ」
 麻耶の目は怒りに燃えていた。ぎらぎらと燃え上がる炎。敦之はうんざりとした嫌悪感で一杯になる。この炎はさっき見たものとは全然違う。敦之は麻耶がどう出るのかと少し心配になった。もし梨古を傷付けてしまうようなことがあれば、彼女は無関係なのだから助けねば――頭の中にそんな思いがよぎった。
「敦之、言ったわよね」
「俺が何か言ったかな」
 相手の男の動きも視野に入れつつ、敦之は真面目に答えた。へらへらして流せるような場面じゃない。通り過ぎ行く人々が、ちらちらと眺めていく。
「言ったわよあの日。『堅いこと言わないで、今までどおり遊びましょって言えば、俺はいつでも相手する』って。そうよね? だったら、今言うわ。ただアタシと『遊んで』。ね? 約束でしょ?」
 麻耶の男に媚びる仕種が気味悪かった。改めて見る麻耶はメドゥーサのように気味悪く絡み付いてくる。
「連れがいるんだろ。やめとけよ」
「いいのよ。だから早く、遊んでよ。アタシを前みたいに抱いて」
「おい――」
 さすがに黙って見ていられなくなったのか、麻耶の連れていた男がずいと出てきた。ああ馬鹿が、出てくんじゃねえよ。敦之は嫌な顔つきになった。
「麻耶、なんだよこの男。どういうことだよ」
 麻耶は勝気な様子で男を振り返った。
「この男は散々アタシを弄んだのよ。アタシのこと好きなだけ抱いといて、この女と付き合うために、下手な芝居打ってアタシと別れようとしたのよ! この男が悪いのよ!」
「お前一体麻耶に何をした!」
 相手が敦之に掴みかかろうとした瞬間、梨古の白い腕が目の前に伸びてきた。
「馬鹿な女と馬鹿な男の間に挟まって、無駄なことしてるんじゃないわよ。この男はもともと本気で麻耶と付き合ってたわけじゃない。麻耶が勝手にのぼせ上がっただけ。敦之も麻耶も、あなたが拳を上げるほど価値ある人間だとは思えないわ。やめておきなさいよ」
 ズキリ、と何かが敦之の中で音を立てた。何の音? 敦之は戸惑った。目の前がぼうっとなって、視界が悪い。
「お前、なんなんだよ。お前も麻耶を騙してたんだろ」
「知ってる? 麻耶さんあなたと別れて敦之と一生を共にしたかったらしいわよ」
 相手の男の顔が一瞬歪んだ。麻耶は唇をかみしめている。
「残念ね。麻耶さんにとっては、あなたの方が価値がないみたい。こんな所で昔捨てられた男に声を掛けるくらいですもの、あなたよほど愛されてないのね」
 カッと男の顔が赤くなった。マズイ、と一瞬敦之は警戒したが、梨古の方が素早かった。
「私は関係ないから、もう帰らせてもらうわ」
 興味ないという様子で梨古が輪から外れる。しかしその声には苛立ちに似た感情がある。敦之は何も言えなかった。梨古は振り返り様突然麻耶の腕を取って、凄みのある目で見た。
「あなたも。あんまりくだらない騒ぎを起こすなら、交番も近い事だし仲裁してもらう? お望みのヒロインになれるかもよ」
 麻耶が声をあげて手を振りほどいた。それで梨古は行ってしまった。さっきまでの足取りはどこへ、しっかりと歩いていく姿を見て、敦之はとても追う気にはなれなかった。
「くそう」
「やめろ」
 相手の男が暴れようとするのを、敦之は片手で制した。幸い身長もあるしこの程度の男に負ける気はしない。だが。
「俺も思うね。この女と俺との間で、お前が怒りを感じるほどの何かはない」
 敦之は相手を一瞥すると駅へと歩き始めた。麻耶が後ろで叫んでいる。
「敦之! 敦之! お願い、帰ってきて!」
 敦之は振り返らずに笑った。
「もともと行った覚えもねえよ」
 そして俺には価値がない
 敦之は初めて本当の敗北感を味わった気がした。