ラブシチュ物語 伍


MIYAKOが思うラブいシチュエーションの物語18(ブログまとめ)
中国三国時代イメージの話と思って下さい。もちろん、イメージですよ……


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18

初めて目にした時から、惹かれてたのだろう。
その凛々しい風貌と、厳しいまでの視線。
太守としてこの郡へ入った時、彼は将軍らしい具足を身につけ、腰には大剣を佩いていた。それらはけして華美すぎないのに、まるで千金をまとうような華々しさがあり、一糸乱れぬ行軍を率いて馬上ゆうゆうと進む姿は、ひきしまった口元と相まって、庇護に入る安堵感を生んでいた。
遠目からそれらを眺める霖(りん)は、必死で目に焼き付けようと凝視した。
心に吹き抜ける爽やかな一風を感じて、目が離せなかったのだった。


霖の父親は郡の民政を担う府において文官として務めている。
ご多分に漏れずこの地のある州も覇権争いの渦に巻き込まれてはいたが、幸いにして前郡太守の不正に耐えかねた霖の父親を含む文官らの内部工作により、労せず開城、民らも含め大きな混乱なく新しい太守を迎えることができた。よって父は今、仕切り直しの民政に手腕をかわれ、忙しく立ち働いている。
その父が客人を伴って戻ってきたのは、寒いこの地方にもようやく遅い春が巡ってきたころの、少しだけあたたかな晩のことだった。

庭に咲き始めた桃の甘い香りが鼻をかすめ、枝にかかる月がやわらかな光を落としている。
炉の火は消えかかっていたが、春の訪れを感じ庭に向いて琴(きん)をつま弾けば、花が咲き乱れているかのように楽の音が、室にも枝々にももたらされる。
と、家人が霖に遠慮がちに声をかけた。旦那様がお呼びですという。常ならば、父を迎えにも出ず気ままに心慰めていたとて咎められることはない。むしろ、霖が楽に夢中でいるときは、父を迎えに出ずとも怒るどころか、穏やかな笑みでいつの間にやら聞き惚れているのだ。その父が、珍しく霖の琴にも惑わされず呼ぶとは一体どうしたのだろうと慌てると、お客様がおみえです、それから琴をお持ちするようにとも、と付け加えられる。
慌てて立ち上がった霖は、少々衣服を正し言われた通りにした。父の友人たちは皆霖の琴を褒めて、せがんでくれる。今宵もまたそうなのであろうと、気楽に父と客人の待つ室へと向かった。

霖が向かった先に、父と、同じようにゆったりとした袍をまとう背の高い人間の背が見えた。
袖を合わせいつものように丁寧に挨拶をして顔をあげる。霖の声に振り返ったのは――驚くことに、あの風を感じた将軍その人であった。
(1)2009.10.08



霖(りん)は思いもかけぬ人の来訪に声を失った。父は素早く霖を紹介した。
「韋(い)将軍、これが私の娘でございます」
「お前か、先ほどの音は」
どうしてよいかわからなくなり慌てて再度拱手し顔を差し向けた霖に、韋将軍はどこか親しみのある声で尋ねる。霖の頬が熱くなった。
「お――お耳汚しを」
「一曲聞かせてくれぬか」
霖は勇気を出して面を上げると、韋将軍の視線を微かに受けた。こうして鎧をまとっておらず、炉と燭の光の中で見る将軍は昼に垣間見たのとは少し雰囲気を異にしていて、眸にも柔らかさがある。離れた所からでさえ感じた威風はそのままに、しかし太守としては若干、年若いせいだろうか、霖は人としてどこか身近い感覚を受けたのだった。
「何か、ご要望はございますでしょうか」
父が尋ねると、将軍は磊落な気風そのままに手をあげ、笑った。
「俺には詩興もなければ風雅もない。ただ女(むすめ)御の楽の音が耳に心地よかったまで。思うさまに聞かせてくれればよい」
強い口調だが命ずる風でもなく、人を惹き付ける響きがある。口にしたがすぐに将軍は胡床(こしょう)にどかりと腰掛け、家人の慌てて用意した酒肴を前に霖を待ってしまう。

霖は再びどうしてよいかわからなくなった。
ほのかに憧れを抱いていた将軍その人がにわかに目の前に現れて、霖の琴を聞きたいと言う。将軍のような人がなぜ、下級役人の父などと共に我が家へとやってこられたのか、それすらも理解できないでいる。
だが、霖の琴の音を心地よいと言ってくれたことに救いを見出し、霖は勇気を奮い立たせた。指が動き出す。その音には、先ほどの春の訪れを喜ぶだけでなく、霖自身の憧憬が混じる。爛漫の華やぎというには少し控えめな、開き始めの花の恥じらいが見え隠れしている。霖は己の心根が恥ずかしくてただ夢中なふりをして弾いた。きっと父だけが霖の心情を理解していただろう。盗み見た父は少々困ったような表情を見せていたから。

どうにか間違えずに奏で終えた時には、頬は見るからに上気し背筋に薄く汗をはいていた。
伺うように待っていると――
「実に良い心持ちであった。俺はこの地の生まれではない故どんな春を迎えるかは知らぬが、なんとなくわかったように思う」
「おそれいります」
充分な言葉をもらえた霖は嬉しさのあまり泣いてしまいそうだった。
「今宵はお前の父と話があるゆえこれでよい。また聞かせてくれ」
「はい」
顔をあげられぬまま、霖は逃げるように下がった。
火照った体を沈めようと、慌てて庭へと出た。
(2)2009.10.11



仄かに香る桃の香が鼻孔をくすぐる。大きく息を吸い、熱くなった体をおもての空気に晒すと、少しずつ落ち着いた心持ちになる。
言葉は、殆ど交わせなかった。
いや、雲の上の人とそうそう交わせるものではないとわかっていたが、それにしても将軍は、その外観からは予想外にとても親しみやすい態度を示してくれた。父、王昭(おうしょう)は高官ではないし、王家もとくべつ名家ではない。不慣れな事態に霖ははたして正しく応えられたのか、つい先ほどのことであるのに思い出せないでいる。

うろうろと小さな邸の周りを歩くと、いつの間にか足が厩に向いていた。そこには王家の鹿毛馬が2頭ばかり飼われているが、穏やかな気性の2頭が今日は隅に寄って少々怯えた仕種を見せている。どうしたのだろうと側寄ると、2頭の脇に黒い影が映り、激しい音がした。ハッと、見たこともないような立派な青毛の馬がぶるるといなないているのに気がついた。月影に映る毛並みの青々とした輝きは、まるで江に渡る夜空の煌めきのようであり、霖が驚いて近寄ろうとするとすぐに先のように鼻を鳴らし、前足で馬柵や地を叩いてみせる。非常に気性が荒いようだが、同時になんと神々しく美しい馬だろうと見とれた。
「これ、むすめ、みだりに近寄っては危ないぞ」
霖が振り向くと、少々あどけない幼さを残した面立ちの青年が慌てて飛んで来た。見知らぬ男の存在に霖はすぐにこの悍馬の持ち主を悟り、初めて見た時もその人がこの馬に跨がっていたことをようよう思い出した。
「もしやこれは、将軍の…?」
尋ねれば、相手は馬首を宥めるようにしながら頷く。
「その通り。飛影は将軍と俺以外は触らせないんだ。下手に触れようものなら蹴られて死んでしまうぜ」
脅かすように投げかけられた言葉を聞いても霖は、恐れる気持ちは抱かなかった。むしろ、その気高さに感動し、将軍だけがこの飛影と呼ばれる駿馬を自由に操り駆け巡る姿が想像できて、血がざわめくのを覚えた。
「本当に立派な馬ね」
「当たり前さ。韋将軍は車騎将軍様だぞ。いつも騎馬隊を任されておられるんだ。その将軍と飛影が一体となれば誰も敵わない」
「あなたは将軍の従者様?」
それにしては少々若すぎるような気がして、霖は問うた。すぐにかがり火を持つのと逆の手が自慢げに反らした胸を叩いた。
「俺は将軍と飛影の身の回りのお世話をしてるのさ。俺は子供のころ牧童をしていて馬の扱いは得意だったし、飛影は俺が世話しても嫌がらなかったから、将軍に取り上げて頂いたんだ。この名馬は滅多なことでは他人を近づけないから、油断して触ると俺だって何されるかわかんないぜ。だから俺はこうして飛影の番をしてるんだし。あんたは?」
「私は…この家のむすめよ」
「ああ」
そうか、と朗らかに言って「俺は靜(せい)ってんだ」と名乗った。見てろ、年が明けて16になったら俺も戦に連れてっていただけるようお願いするんだと続けた言葉に、霖は驚いて靜を見上げた。
「あなた、まだ15なの?」
確かに少々若いとは思ったが、まさか自分より年下だとは思わず、霖は呆れる。そのような年で兵に応募したのかと思うと、胸が詰まる。霖の表情を見た靜は苦笑いしてみせた。
「俺は将軍のお役に立ちたくて、自ら進んで応募したんだぞ! 韋将軍に憧れてんだ。最初は年誤魔化してたんだけど…結局将軍に見つかって、でも俺が飛影の面倒見れるってんで、お側で使ってくださることになったんだ」
嬉しそうに語る靜はとても誇らしげで、少しでも近くにありたいという願いが叶って得意そうだった。霖はその真っ直ぐな行動力を素直に羨ましいと感じた。
「韋将軍はさぞかし素晴らしいお方なのでしょうね」
「当然! …あ、もしかしてお前、将軍に憧れてるのか? 確かになあ。俺みたいな男でさえそうなんだから、女ならなおさらだよな。女官たちなんかさあ毎日将軍に色目を使って――」

「衛謐(えいひつ)!」

唐突に将軍その人に名を呼ばれて靜は慌てて飛び出ていった。荒声でもないのに夜に凛と届く声に、鎮まっていたはずの思いが高まる。
(3)2009.10.16



いくらもしないうちに靜が戻ってきて、飛影の手綱を取った。もう帰ってしまわれるのかと寂しくなった。飛影は将軍の声を耳にした時から、いやきっとそれよりも早く飛影は己の唯一の主人を感じていたのだろう。嬉しげに引かれてゆくのが霖にもどことなくわかった。その目が優越感をもって霖をちらと見やり、悠然と過ぎてゆくのに腹の底が熱くなる。霖の眼前で見せつけるように、飛影は気高き主人を乗せる喜びに尾を跳ね偶然か霖の頬を叩いた。この馬が将軍に愛されていると思うと、馬相手だというのに霖の胸はうち震え、思わず手を伸ばしていた。不意に馬の後ろから触れようとするなど暴挙だと、誰でも知っている。そのうえ特別な悍馬である。しかしその暴挙を霖は敢えてした。こちらを見ていた一行が「あ!」と飛び出し、振り返った靜が青ざめたのが見えた。誰もがその逞しい蹄の餌食になるとふためいた。

――尾を握られた飛影の後ろ足は地についたまま、霖を睨みつけただけで、払おうとはしなかった。

霖はけして目を逸らさずにその視線を受ける。
濃墨を流したような毛並みに縁取られた目は、漆黒の中にあっても炎の輝きを持ち、なにより知性があった。
次第に、霖の手がゆるむ。
するり、と手から尾が滑り抜け、手綱を離した靜すらも無視して、飛影は主の元へと歩み寄る。

「何ということを!」
父の悲痛の声に霖は我に返った。はたと、己がどれほどの無礼を働いたかに気づいて霖はようやく青ざめた。
「とんだご無礼を!」
平に謝る父子の姿に、厳しい空気まとう一寸の後、将軍はくちびるをつりあげた。
鐙に足をかけひらりと鞍に跨がる。
「面白いむすめだな、王昭。今宵は有意義だった」
そうして、瞬く間に漆黒の向こうへと消えてしまった。従者たちも大慌てで飛び出ていく。
最後まで呆然として残っていた靜が己の馬に跨がると、怒ったような呆れたような口調で霖に投げかける。
「お前……侮れないやつ!」
そうして、慌てて将軍一行の後を追いかけていった。

霖の指の間には、夜に張った弦のような、艶やかな絹糸のごとき毛が数本、残っていた。
(4)2009.10.20



賑わい活気あふれる通りには以前よりも品を売り買いする人が増えたように思える。声高に人々の熱気が伝わってくる。
新しい支配下に変わってから、過剰な税や悪徳官吏がなくなり、新しい屯府(軍事行政機関)もできて治安がぐんと良くなった。隣りの州からも人が流れ込んできているようだ。それもこれも、今の太守様、即ち韋将軍と、前太守に与せず対抗した高潔な官吏たちのお陰であると、皆口々に褒めそやす。聞いていて自分のことのように気分がいい。その中には、必死で行政を立て直そうと励み、寝る間も惜しんで働く霖の父も含まれていると思えば、ますます誇り高いことでもある。
先般、将軍が霖の家にお越しになったのも、実はそのことが関係していたらしい。政権転覆直後は慌ただしくひとまず混乱をおさめるのに暇(いとま)がなかったが、少しばかり猶予の生まれてきた近頃、将軍は武官でありながらも府の人間と機会を設けては配下の人となりを量っているという。内応に功のあった人間全員にしかるべき官位が与えられ、新しく来た優秀な文官がそれぞれを適材適所へと置いたという話らしいが、霖の父は異動はともかく論功を断ったともいう。曰く、自分にそんなに立派な才はないし、官位が欲しくてやったことではない、と。父は詳しくは語ってくれなかったが、官位は低けれど高邁の士というその人物を見に来られたのではないかと家人からは聞いた。
父はその噂に偽りなく、昼夜問わず働き詰めだ。気負うのは尤もだろうがそのせいか少々体調も思わしくないように見える。大丈夫だよと宥められても、霖は心配だった。せめて何か滋養のつくものと、医者に寄って薬も求めておこうと今日はこの賑やかな通りまで自らやってきたところである。家僕のひく馬にゆっくり揺られながら、ぽっくりぽっくりと進む。
見れば、通りのだいぶ先に随分な人だかりができていた。ざわざわとした中でひと際目立つ人混みに自然そちらへと視線が向かう。
「何かあったのかしら。ねえ、行ってみましょう」
「危のうございます。わっしがひとっ走り聞いてまいります」
そう言って家僕は素早く走っていく。自分で知りたいのに、と残された馬の首筋をなでてみた。ひとりでは上手に乗りこなせないため、たいていのことでは動じない大人しい馬であった。鹿毛のたてがみは黒くはあるが、あの飛影と比べれば数段劣る。この馬とて手入れは欠かしてないだろうに、何が違うというのだろう。あの折に手に入れた飛影の毛は、小箱に大事にしまってあった。毎日取り出して眺めては、あの美しい馬に跨がって文字通り飛ぶように走る将軍の姿を思い描く。
…ぼんやりと物思いにふけっていると、後ろから声がかかった。
「お前は」
「まあ」
霖を「侮れない」と称した将軍の馬丁、靜(せい)であった。こんなところで会おうとは。靜はくつわを並べる。
「お嬢様が買い物とは珍しい」
「私はお嬢様じゃないわ。それに、今日はどうしても私が行きたかったのよ」
「ふうん」
「それより貴方がどうしてここに? 将軍のお使い?」
「ああそれは…」
そこで前から高い歓声とともに、一団が現れた。先頭に、黒い馬に跨がった白銀の鎧に赤い披風(はふ)の威風堂々とした姿が見え、霖は慌てふためいた。
「あ、あ…!」
見間違いようがない。韋将軍である。立派な従者を10名ほど連れて練り歩く姿は勇ましくも美しい。
(5)2009.10.26



靜は今日も将軍のお供であったのだ。霖はどうしようと慌てて左右を見渡す、生憎霖の家僕は戻って来ない。この人混みで戻れなくなってるのかもしれない。
「ご覧の通り、今日は将軍が巡察に行くと仰ってさ。最初はお供もつけずに出ようとされて、そしたら文官連中にものすごい止められて。仕方なしにいつものお供を選ばれる中に、俺も入れて頂いたんだあ。それでいろいろ見て回ってたんだけど、さっすが将軍、すごいんだぜ。この騒ぎに紛れて泥棒しようとした輩や、無闇な代価で商品売ろうとしたろくでもねえやつを、目ざとく――」
「靜お願い助けて! 私を馬からおろして!」
「何言ってんだ?」
「私、自分じゃ馬を操れないのよ、早く!」
「はあ!? お前、自分で乗り降りもできないのかよ!」
「いいから! 将軍に失礼でしょう、早く、早く…!」
靜の話などどうでもいいといわんばかりに遮った霖は、馬にしがみつくような格好で悲鳴をあげた。将軍と二度とお目通り叶うなど願ってもいなかったが、先日無礼を働いた上に今日もまたというのではさすがにまずい。通りの真ん中で靜と2人であたふたと手を取り合っているうちに、ゆっくりと馬で歩いてきた将軍たちに見つかってしまった。
「もしや、王昭の…」
「は、はい、あの、こ、こ、これは…」
無駄話してるのを将軍に見つかって靜も慌てたのだろう。霖を荷駄のようにぞんざいにおろして、自分だけ礼をとっている。霖は強引につかまれた痛む腕を我慢して深く頭を下げ、袖を合わせた。飛影が霖をじっと見ている気がする。
「い、いつぞやは、大変なご無礼を…」
ようやく口にすれば、将軍はそっと目を細めた。
「はは、よい。それより王昭は息災か。近頃顔色が優れぬと聞いたが」
「父にまでかようなお心遣い、痛み入ります」
「おぬしの父は必要な人物だ。気にして当然であろう」
「もったいなき…」
「衛謐(えいひつ)とは親しいのか」
「は?」
靜が見当はずれな声を出す。霖はどう答えていいのか惑い、口を閉ざす。
「前も2人で話していただろう」
「将軍! べ、別に俺は、たまたま」
「私――こんな人、存じません!」
霖も口にしてから思わずしまった、とは思った。
隣りの靜の間抜け面が憎い。
仮にも将軍様に仕える人間のことを、そんな風に言ってしまったのだから。
だがしかし、変に勘ぐられているようで嫌だった。たとえ韋将軍にとって自分が野辺に生える草のごとくであったとしても、勘違いをされることだけは霖の心が許さなかった。それで、つい言ってしまった。
恥ずかしさに首まで朱に染まっているのが己でもわかる。
自分に視線を注がれているその意味は。霖はおそるおそる顔をあげた。あげて、軽く驚いた。
暗い夜の中では気がつかなかったが、異民族の血が混じっているのかもしれない。将軍の双眸や髪は日の光の下ではやや赤銅がかっていた。それはけして不快な色ではなく、漆黒の馬、赤い披風と白銀の鎧によく映え、より一層特別な存在であることを知らしめているようであった。
目が、離せない。

「そうか」

将軍はわかったのかどうなのか、曖昧に返事をすると、軽く頷いて「また会おう」と行ってしまった。靜が慌ててその後を追いかける。前にも見たような光景にも、霖は気づかない。
震える体から力が抜け落ちて、今にもくずおれてしまいそうだ。
将軍は確かに言ったのだ「また会おう」と。「では」とも「さらば」とも異なる。
それが例え常套句であったとしても、霖には喜び以上の感慨しかわかなかったであろう。
ようやく戻ってきた家僕があわあわと何やら言ったが、霖は聞いてなかった。
内側から震える喜びに、いつまでも満たされていたかった。
(6)2009.11.02



左手で弦を押し、右手で奏でてやる。絹でできた七弦の上で左指をすべらすと、静かで遠い深閑へと伸びてゆくような音が邸にこだまして、雑事をこなす少ない家人たちもそっと耳を傾ける。そうして、しばしの心の休息が得られたと目を開きまたそれぞれの仕事に戻っていくのだ。
霖がひくのは漆を塗っただけの飾りも何もない質素な琴(きん)で、琴に求められる九徳がすべて備わっている名器とは到底言い難いものであった。が、それでも霖はこの琴が好きだ。素朴で、いつも霖の気持ちを解したように音色を出してくれる。今もまた、山あいへ落ちてゆく茜陽を離れて目で追い続ける、霖の心そのままに鳴っている。
そばには小箱を置いていた。ふたを開ければ飛影の毛が流水のごとくしまわれている。
このまま日が落ちれば膝の上の弦も飛影の尾のように美しい黒に見えるかもしれない…。
長くなった陽の最後の雫が消えて、ようやく薄闇が広がり出した。同時に霖も曲を終え、その場を立とうとして声をあげそうになった。
「!」
室内に人がいたのである。いつもの父かと思った霖は、その声を聞いて愕然とした。
「やはりいい心持ちだな、お前の琴は」
「韋将軍」
いつからそこにいらしたのであろう。狼狽し、喘ぐ。燭を灯していない室の薄暗い中に佇む将軍は、やはり昼間とは異なり、あの異民族の色合いも見えないし、華やかさも少ない。ただ初めて会ったときのような物静かな威風と多少の親しさがやわらかく将軍を取り巻いている。
「慌てずとも良い。俺が家人に黙って案内させたのだ。お前の楽を邪魔してはならぬ、とな」
驚いた。
「もうやめてしまうのか」
「あの……」
「どうせなら、もう暫く聞いていたいものだ」
将軍は命ずる風でもなく口にした。
時を量ったように酒肴の支度が運ばれて、ここで飲むのであろうか。小さい邸だが客間の方がと思ったのを見越したかのように、将軍は手酌で飲み始めた。その目にいたずらをする子供のような光が見える。不思議なお方だ、と霖は思い、そうして再び琴の元へと戻った。

琴に向き合うと、指が勝手に動き始める。迷いはなかった。先ほどのゆったりとしたものとは違う、小さな酒宴にささやかな賑わいを添える曲だった。霖は酒をあまり飲めないが、父が親しい友人たちと開く宴の雰囲気は好きだ。学識にあふれ心から寛ぎ信じている仲間との一時であるのが充分にわかるからである。そんな時霖はこの曲をよく弾いた。父たちを邪魔せぬ程度に、でも興を添えて。
今なぜ自分がこの曲を選んだのか、自身でもはっきりとはわからない。でも多分、心地が良いのかもしれない。韋将軍は何も喋らずに、黙々と酒を口に運び、霖の琴に耳を傾け、時にどこかを見つめた。
澄み渡る夜空が盛夏の近いことを告げている。
その濃い空気が、将軍と霖を取り巻いている。
(7)2009.11.10



以来、将軍は霖の琴を聞きに訪れるようになった。
たいてい気まぐれで、「聞きたくなった」という将軍の気分だけで決まるようだ。慌てた従者たちを僅かばかり伴いやってくる。父には別で話をしてあるらしい。が、父からは何も聞いていなかったし、将軍がおみえになる日も戻ってこない時が多かった。知らぬは霖ばかりである。
霖はその訪問を始めは宙に浮くような心持ちで迎えていた。だが次第に、心のどこかで喜びつつも、同時に悲しくも思うようになった。自分の琴を将軍が欲してくれていると自負するいっぽうで、将軍のこころがどこを向いているかわからないと気づいたためだ。確かに霖の琴の音に熱心に耳を傾けている姿がある。でも目は、将軍のこころはなにか遠い地を彷徨うように離れている気がする。そして、どこか深い悲しみに浸っているようにも見える。自分が将軍を喜ばせているのか逆なのか、わからなくなった。いったい将軍はどんな想いを馳せておられるのだろう。
ふと、妻子はおられないのだろうか、と気になった。
将軍ほどの身分であれば、妻子とは別に妾を任地に置くこともおかしくはないが、安定したころには呼び寄せるのが普通である。いまだその時節でないと踏んでるのかもしれないが、それならば今将軍をどんな女が世話しているのだろう。関係のないことと知りながらも勝手に想像が膨らむ。
――官女たちなんかさあ、毎日将軍に色目を使って――
いつか靜が言っていたのを思い出し、霖はざわめくような思いに心を囚われた。
珍しく、霖の指が滑って乱れた音を出した。

「どうした」

それまで口にするのは酒だけであった将軍がふっと意識を戻す。
聞き手にまでわかってしまうような過ちをおかした霖は恥じて、琴を弾く手を止めた。
「申し訳ありません」
「お前でもそういうことがあるのだな」
少し体を動かした将軍は、疲れたのか、と慈悲のこころを見せた。
霖は首を横に振った。
「いえ…」
「そういえば、いつも黙ってお前に演奏ばかりさせていたな。さぞかし窮屈であったろう」
「いいえ」
霖は顔を俯けてくちびるを噛むと、すぐに言葉にした。
「将軍は、私の琴をお聞きになりながら、いつも何か考え事をされておられます。それをお邪魔してはならぬと思います」
すると韋将軍は少しだけ意外な顔を見せた。しばし推し量るように口を閉ざしてから、霖を見据えた。
「どうだ。たまには俺と少し話してみぬか」
「よいのですか」
「お前とて、興の乗らぬ日もあろう。いつも無理ばかりさせては、悪いからな」
「興がのらぬなどと…」
「そのように殊勝なことばかり言うくせに、時として生意気な口をきくこともあるのだからな」
「も、申し訳…」
「謝れと申しているのではない。俺はお前と本心で語り合いたいだけだ。俺は本心を語らぬ人間をあまり好かぬ。時にははっきり言えぬこともあろう。だがそれでも、俺が語ってくれと願い、相手が語りたいと思っていれば自然と通ずるものだ。そういうこころまで隠されてしまうのが嫌なのだ。わかるか」
「…なんとなくは」
霖がそう答えると、将軍は軽く頷く。
「俺は、お前の琴を聞いていると、己の生き様を振り返っているような心持ちにさせられる。だから、無言になってしまう。時には思い返したくないようなことさえ、思い返してしまう」
「苦しいのでしょうか」
「苦しくとも、俺の過ごした人生だ。変えることはできぬ」
「そうですね」

霖にはときどき、胸の裡を思いも寄らぬほど偽りなく語ってしまうくせがある。
この時も、そうだった。
気づけば、琴を横に置いて、居住まいを正していた。
「将軍は、奥様やお子様はおられないのでしょうか」
将軍の年ならば、いない方が不自然だ。霖は顔をあげなかった。
「おらぬ」
「それは…」
「いた、という方が正しいだろう。おそらく、死んでいる」
「……不躾なことをお伺いしたでしょうか」
「お前の考えておるような話ではない」
霖の悲痛に沈む表情を、将軍は否定した。

「もう10年以上も前の話だ。俺は、地方の県(県は郡の下)の小役人で、父もそうだった。父はいつも、大きくなくて良いから真面目に生きろと言った。俺は当たり前のように役について、それから勧められた女を娶って子をなした。平和だった。来る日も来る日も竹簡に向かい上役に向かい家と役所を往復するだけの生活だった」
(8)2009.11.16



将軍の声は淡々としていた。
「ある時、俺はそういう己の生き方がひどく嫌になった。どうしてかはわからない。そう遠くない地で戦が頻発しているというのに、ただ机に向かっているだけの己が空しかったのかもしれぬ。真面目ならば小さくて良いという父の気持ちに反発したくなったのかもしれぬ。気づくと俺は、槍や戟(げき)をとって、己の腕で功をたててみたいと考えていた。俺はそのまま官職を捨て、家族を捨て、誰でもいいから俺を兵士として使ってくれる人間の元へと走った。それきり、父母にも、妻にも子にも会わなかった。
それからどうなったのか。数年後、故郷の近くを通りかかったときに人を遣った。俺は既に軍人としての生き方を見出して、都尉になっていたからな。身内が気になったというより、己が置いてきた別の道の行く末が気になったのだろう。結果、もう韋の家はなく、俺の知る人間はいなかった。どこへ逃げたのかも、殺されたのかもまったくわからぬし、名残さえ残っていなかった。それでも、俺は家族を捨てたことを少しも後悔していないと思った。そのうえ、他人の家族も奪ってのうのうと生きている。そういうのがまかり通る矛盾した世を生きている」

霖はどう答えていいのかわからなかった。
この時代に、それを非道と簡単に呼べるのか。はたまたひとごとと言い切れるのかわからない。しかし将軍自ら妻子を捨てたということに、少なからぬ驚きがあったことは、隠せなかった。
霖が案ずるほど将軍の目は虚ろでもなんでもなく、はっきりとしていた。

「俺は位階などには拘らぬ。だが、俺の地で、民が幸せに暮らせるようにしたいとは思う。家族を捨てた俺が、考えているのだぞ。俺は小さな望みなどよりも、もっと大きなところで人の幸せというものを実現したいと、真剣に願っているような気がするのだ。だから平気で人が殺せるのか、とも」

生々しいまでの、将軍という人物が現れて、熱っぽさと同時に薄ら寒い気が胸の中に入り込む。
将軍は、人なのだ、という思いが霖の中に形どられた。
人は清いだけでは済まない。清濁あってこそ、光と闇を知ってこその生き物だ。
霖も父は尊敬している。人からも素晴らしい人間だと言われる。だが父とて、前太守の時代に敵と内応し、多くの人を死に追いやっている。前太守が悪人だったとしても、それは父の側からの正悪の判断ではないことにはならない。
そして、戦で相手を殺すことが悪いと、誰が言えたものか。殺さなければ殺されるというのもあるが、それ以上に、誰かが秩序を求めて戦わなければ、永遠に戦のない世はこない。人から生まれぬ人が存在せぬ限り、それは変わらぬ原理である。
そういう大義の前に立つ将軍と、1人の人間としての将軍。その2つがぶつかり合うことなく、しかし片方を忘れることもなくあるのは、将軍がとても大きく高いところを生きる人であるからだと、霖の目には映った。
初めて目にした時、ただ美しく華やかな雲の上の人であった将軍の、何が美しいと感じたのかわかったような。
遥か遠くにそびえ立つ山に近づき、よりくっきりと輪郭が見えてきたような面持ちだ。
霖の中で、求心力をもつものの正体をかすかに感じ始めていた。

「将軍が、もし人生に負い目に感じておいででしたら、私はきっと今まで琴を気持ちよく弾いて差し上げられなかったと思います。人は正しいと信じる道の前においては、真っ直ぐに進むものです。決して振り返り立ち止まることなく。ただその事実を受け止め覚えておれば良いのだとも思います。韋将軍はそれだけの信義をお持ちでした。ですから、私も将軍の真っ直ぐな想いを受け止めて素直に琴を弾くことができたのだと思います」
また、生意気な口をきいてしまった。
だが、将軍はふっと笑んで杯を置いた。
「お前はやはり、面白いな。そうだ。今までこうして無理をさせてきたのだ。1つ褒美くらいやらねばいかぬだろう。何がいい」
びっくりして霖は慌てる。
「褒美など、私は」
「遠慮することはない。そのかわり、俺は今後もわがままを通すぞ」
その言い方におかしみを覚えて霖は、袖の陰でこっそりと笑いながら、ふいに側の小箱の中身を思い出した。
「では、私、飛影に乗ってみたいと思います」
「なに、飛影にだと」
「はい。あのような素晴らしい馬に跨がって、1度、私も風になる気持ちを味わってみたいのです」
「驚いた」
将軍はしばし考え込むようなそぶりを見せてから、よし、と膝を叩いた。
「良かろう」
「まことにございますか」
「お前が望んだのではないか」
「ですが、私、半ば諦めてもおりました。だって飛影は私のことをきっと敵だと思っております。いつも、睨まれます」
「はは」
将軍は哄笑すると、立ち上がった。
「約束だ。都合がついたら知らせよう」
(9)2009.11.25



その日、靜(せい)がおとねたのは突然のことであった。
勝手に訪ねておいて、靜はたいそう不機嫌そうである。午まえの、良く晴れ渡った日で、庭の花を摘んでいた霖は、馬からおりもせず不満そうな態度の靜を、横柄に出迎えた。
「これはこれは将軍の従者様。あら、馬丁だったかしら」
「お前、あんまり生意気な口ばかり聞いていると、殴るぞ」
「あなたこそ、いくら将軍にお世話になってるからって、笠に着ようとするのをやめなさいよ。人の家で、馬からおりるぐらいしたらどうなの」
「俺だって、すぐに校尉に取り立てて頂くぐらいの実力を身につけてやるさ」
靜は霖のことを睨みつけていたが、用事を思い出したのかやっと馬からおりた。
「お前、馬には乗れるようになったのかよ」
「…乗るくらいできるわよ」
「馬に乗るっていうのはな、馬の背に1人で乗っかって、駆けることを言うんだ。あんなのは、荷物と同じで、乗せられてる、って言うんだぞ」
いちいち引っかかっていると話が進まないと思った霖は、無視して先を進めた。
「それがどうかしたの」
「どうしたもこうしたも。お前、将軍にとんでもないお願いをしただろ」
「ああ」
どうやら飛影に乗せて欲しいと申し上げたことを言っているらしかった。なるほど、それでむくれているのだ。霖とていまさら、それが叶うなどと思ってもいなかったとは言えないし、将軍は必ず約束を守ってくださるだろうことはわかっている。その時は、靜が轡を引いた状態で、飛影の背中にそれこそ乗せられて、ちょこっと名馬の背がどんなものか味わえれば、充分だと思っているのだ。間違っても飛影の上で疾走しようなどとは考えていない。とうてい無理な話である。
「駄馬にも乗れないような女が、飛影みたいな名馬に乗ろうなんて、よく言えたもんだ」
「だって、将軍がご褒美をくださるって仰るんですもの。とてもじゃないけど金品なんか頂こうと思わないし、他に何も思いつかなかったのよ」
「それで、今日の午過ぎは都合つくんだろうな」
「まあ、なあに。もしかして、今日お許しが出たの?」
霖は唐突に、この少年も飛影に認められた数少ない人間であったことを思い出し、遅ればせながら殊勝を取り繕った。
「あなたにまで迷惑がかかるのは、申し訳ないと思っているわ」
「俺なんかどうだったいい。で、どうなんだよ」
「あなたが忙しいって言うのなら、私、少し見せてもらうだけでも、満足するわ」
「馬鹿いえ、いまごろ言ったって遅いや! 俺がお前に難癖つけたとしか思われないだろ。とにかく、伝えたからな。後でもう一度迎えに来るから。いつでも出られるようちゃんと用意しておけよ!」
靜はそれだけ言うと、ひらりと乗ってきた馬に跨がって、さっさと行ってしまった。その姿を遠くまで眺めると、やはり豪語するだけあって、馬の乗りこなしは見事であるような気がした。さんざ馬鹿にしてしまったが、おそらく本人が言った通り、そう遠くないうちに優秀な兵士として戦場に出ることになるのだろう。そう思うと、少しだけ感慨深い。男は、そんなに戦に行きたいものなのか。将軍も、自分の平和よりも、戦の道をとったのだった。
ただ、自分で自分の信ずる道を選択できる。それが出来る人間を、霖は否定する気にはなれない。
靜のことも、もう少しきちんとした態度で応じようと考えた。
(10)2009.11.26



その日の午後になって、深衣をあらため、持っていくものを用意したり、いろいろと準備を済ませた霖は、靜の迎えが来た時、丁寧に応対した。
「いろいろ言ってしまったけれど、あなたにもきちんとお礼を――」
だがしかし、飛影の厩にこちらから訪ねると思っていた霖は、すぐ後ろにその本人――飛影――が、そしてあろうことかその上に主人が乗っかっているのを見つけて、すぐに慇懃さをかなぐり捨てた。
「どういうこと!? どうして将軍が――」
「お前、まさか飛影に自分1人で乗れると思ってたのか? 例えお前がこの世中の馬に好かれてたとしても、お前みたいな乗り手、すぐに蹴落とされるに決まってるだろう。将軍が見てないとこじゃ無理だ」
「だって、だって、あなたがいるし――そんなこと、あなた教えてくれなかったじゃない」
「とにかく、いつまでもお待たせできないだろ。さっさとしろよ」
自分でも顔が青くなってるのがわかったが、もうどうしようもない。
おろおろとしながらも、急いで出た。護衛らしきが全部で数十騎と、その真ん中に将軍。それからもう1人、護衛とも少し違う、初めて見る人物がいた。
「ほう、この者か。孟奕(もうえき)」
将軍を字(あざな)で呼ぶ見知らぬ貴人は、興ありげに霖を見下している。通常、あざなは親しい人間が使うものだ。もちろん霖たちのような目下のものは姓に「どこどこ(太守)」といった官職名をつけてしか呼ぶはずはない。慌てて拝礼する。
「まさか、将軍自ら私のためにお時間を割いて頂けるなどとは夢にも思わず、私」
「よい、許したのは俺だ。それに、丁度遠駆けがしたかったのでな。いい口実ができた」
あまりの事態に、韋将軍に挨拶しつつ、霖はほとんど聞き逃していた。隣りの貴人にも無意識に拝礼していた。
「私は、王昭の娘にございます」
「聞いている。私は孟奕の友で郭士雲(かく しうん)という。孟奕が気に入っている琴の名手とやらに一度会ってみたかったので、ついてきたのだが、孟奕は余計な虫がついてきたとさきほどから文句を垂れていて」
「おい」
韋将軍が少々顔をしかめて制した。霖もどぎまぎとしながら将軍の友という人を見た。物腰のやわらかな、明敏さを示す眼差しの人だった。文官に見えなくもないが、立ち居振る舞いには武人の雰囲気があるようにも感じられる。いずれにせよ、将軍と併せてもこの護衛のものものしさはそれなりの人物なのであろう。そう思っていると、靜がそっと「郭将軍は右都督(諸軍事の長官)様だ」と教えてくれた。
ただ飛影に乗りたいなどと口にしてしまったばかりに…。韋将軍の気ままさに忘れてしまいそうになるが、本来、気軽に出歩けるような人ではない。多分、調子に乗った小娘のわがままと、周囲は腹立て気を揉んだことだろう。今頃父もその話を聞いてあたふたしているに違いない。霖は少なからず後悔の念を覚えた。
「孟奕、お前がうまくやらぬから、見ろ。この娘は大層困っておるではないか」
霖の気持ちを汲んだかのように告げる郭将軍のやわらかな声に、韋将軍はふんと小さく鼻を鳴らした。
「仕方なかろう士雲。護衛を連れて行かぬとうるさいのだ。だが、飛影の足について来れないのは仕方あるまい」
「…なるほど、お前らしい」
なんの話をしているのかと訝ったが、韋将軍から手を差し出されて、そんなことはあっという間に吹き飛んだ。
「どうした。引き上げてやろう」
当たり前のように言う将軍に、霖は体がおかしな温度に変わるのを感じた。
「い、い、いえ、その、私は」
「ずいぶんと荷を抱えているようだが。よし、それはこちらで預かろう」
「いえ、いえ、私の荷を持たせるなどと。それに、飛影に乗せて頂くのは行った先で1人でも」
「今乗らねば、置いてかれるぞ」
「え?」
郭将軍がにやりと小声で囁いたかと思うと、素早く霖の抱えていた包みを奪い、霖本人は韋将軍に抱えられ飛影の上へ軽々と持ち上げられてしまった。
「おお!」
思わず声が出て震える。普段は踏み台の上にあがって家僕にえっこらと押し上げてもらうのに、韋将軍は腕の力だけで霖を飛影の上へ乗せてしまった。おまけに、落ちぬようしっかりつかまっていろと、将軍の体に手を回すよう言いつけられ、まだ走ってもいないのに目が回りそうだ。韋将軍にこれほど近づいたのは初めてである。飛影は意外にも動じない。小馬鹿にしたように鼻を鳴らしている。
「重くないのでしょうか」
「普段はもっと重い具足と武器とを携えて幾里も走るのだ。お前1人など毛ほども気にならぬであろう」
「さあ孟奕、行くぞ」
荷の入った風呂敷を靜に渡し、彼が背中に抱え胸で結び終えたのを見た郭将軍が言った。
(11)2009.12.18



その後しばらくは、どう思い出してみても、霖にはどこを走ったか、何が何やらわからないままである。
飛影はまさしく飛ぶ影のごとく、人を2人も乗せているようには思えぬ速さで、景色は後ろへ後ろへとただ線のように流れていった。将軍にしがみついていないと落ちて死んでしまうとわかって、霖は先ほどまでの気恥ずかしさなどかなぐり捨て、ただもう必死にしがみついた。むろん、景色を楽しむ余裕などなく、早く地面が見たい見たいと目をつぶりだす始末だった。
ようやくどこか辿り着いて、韋将軍が飛影を止めた時もまだ、霖は目を閉じて将軍にしがみついていた。大笑いされてやっと己の姿に気がつき、慌てて離れようとして今度は落馬しそうになった。あまりに霖がふらふらしているのでしばらく休むことになり、はじめて飛影からおろされた。
「すまぬ、お前には少し速すぎたか」
笑っている韋将軍の顔をまともに見れないでいると、遠くから鬼の形相でやってきた靜が、慌てて手綱を引き絞り馬から飛び降りる。そこへきて、霖は周囲に護衛がいないことに気がついた。
護衛たちはどこへ行ったのだろう。
韋将軍がほう、と靜を見て腕を組む。
「よくこれた」
「今日は将軍の馬をお借りしておりましたので死にものぐるいで参りました。それに、俺は行き先がなんとなく読めていました。飛影はここらの草が大好物です」
真剣なままの靜の言葉に、霖ははたと将軍らを振り仰ぐ。
まさか!
靜から、靜の乗っていた馬へと韋将軍は視線を移した。
「乗りこなせるというのならお前にその馬をくれてやるが」
「よろしいのですか!」
「そのかわり、いつもどこにでも死ぬ気でついてこい」
衛少年は声をあげて喜び、抱えていた荷を全て放り投げる勢いで霖に返すと、急いで将軍たちの馬と新しく自分の馬となった馬の世話を始めた。その靜に背を向け、郭将軍が笑って韋将軍に言う。
「お前は衛謐(えいひつ)が来れるのを見越していたのだろう」
「士雲こそ。衛謐に荷など預けたではないか」
「お前があの足の速い馬に衛謐を乗せるのを見ていたからだ」
「ふん。少しくらい遅い馬だとて、俺についてこれぬようでは従者はつとまらぬさ」
「いまごろやつら、気が狂ったように私たちを捜しているぞ」
「つまりは飛影が普段、あやつらに合わせてやっているということだ」
確かに、あんなおかしな速さで走る馬に追いつくなど、なまなかのことではないと霖でさえわかる。だが、つまりは2人は護衛を完全に撒いたのだ。
「護衛の方を置いてきてしまわれたのですか!」
着いたばかりの頃は息が上がっていた霖が、ゆうゆうと草の上に腰をおろしながら話し始めた将軍2人に向かって、やっとの思いで声をかけた。信じられない体験の後は、信じられぬ光景に、目眩につぐ目眩が起こりそうだ。
「あの、大勢いらした方々はどうなったのです!」
「む。そういえばおらぬな」
「誤魔化されません! わざと撒かれたのですね」
「お前が風のように走りたいなどと申すのでな。少し飛ばしすぎた」
「私のせいにされるおつもりですか。おふた方とも大事な御身であるのに、私、いざという時にどうやってお守りしていいのか全くわかりません!」
「なに、女のお前が守ってくれるのか」
霖の言葉に2人は呵々と大笑した。呆れ果てて赤面した霖はそれでも、自分が言い出したことが一因であると認め、顔を差し向けた。
「なにかあれば私はお守りします…」
その硬い口調に笑っていた将軍らの面差しが変わったのだが、霖は気づかずに荷を抱き締めた。
「なるほどな」
郭将軍の含みある言い方にも反応できずにいた。
「その包みにはなにが入っている?」
ふいに問われて、霖はいっそう顔を赤らめる。
「その…私、このような事態を想定してなかったものですから」
そう言って中のものを差し出す。たくさんの、干した棗(なつめ)だった。
遊び気分でいたために、このようなおやつを持参してしまったのだ。
だが、韋将軍はなにも言わずに1つつまんだ。
「うむ、美味いな」
それを見た郭将軍は、霖の耳元で囁く。
「はは、可愛らしいものではないか。あれで随分と楽しんでおるのだ」
郭将軍の言葉に、恥じらいつつも、霖もようやく心がやわらぐ。
韋将軍がちらりとこちらを見たので、郭将軍はすぐさま言った。
「孟奕(もうえき)、先ほどの詫びに、並足で乗せてやったらどうだ」
「ふうむ」
「あんな速さでは、恐ろしいだけであろう」
「それもそうだな」
そうして、もう一度、今度はゆっくりと、霖を乗せてくれるという。
「そう遠くまではゆかぬ」
そういい残して、飛影に再び乗せ上げられてしまった霖は、韋将軍と今度は2人きりで、ゆるやかに走り始めた。
(12)2009.12.19



先ほどは疾風のごとき速さに意識する暇がなかったが、次はそうもいかない。ただただ縮こまっている霖を、韋将軍は不思議そうに眺める。
「どうした、まだ怖いか」
「い、いえ」
「お前は相変わらず、妙なところでだけ口を開いて、すぐに閉じてしまうのだな」
「そのような…」
「俺と2人きりは、嫌だったか」
「まあ!」
「ふうむ。衛謐(えいひつ)の方が良かったか」
「私は、将軍の方が…」
言い差して、口をつぐんだ。変にとられては大変だ。
そんな霖を見て、将軍は無言になる。
しばらくそのままゆるやかに進んだ。青々とした草が覆い茂る台地は見晴らしが良く、爽やかな風が吹き抜けている。
将軍が話さないので、霖も黙っていた。走る速度は大変に穏やかで、先ほどより遠慮がちにつかまっていると、己の心音が聞こえてしまいそうな気がする。
陽は中天をやや過ぎた辺りで、煌めいている。遠く果てまで見渡せるような高さは、もし飛影の速さを恐れずにいれば、まことに飛ぶがごとくに感じたであろう。ようやく、霖にも心地よさが伝わってきた。
将軍は手綱を引かなかったが、飛影が止まった。きっと、言わずとも通ずる、間柄なのだ。青く輝く飛影の毛足と、緑濃い草とがからまり、美しい。
おりるのかと思えば、将軍はそのまま、遠くを眺めていた。
「1つ問おう」
「なんでしょう」
「お前は、衛謐(えいひつ)のことをどのように思う?」
「どのように、とは……」
「まあ、好きか嫌いか、ということだ」
霖は嫌な予感がして、身を硬くした。靜のことは嫌いではないが、好きかと言われれば、慕うような気持ちはないとはっきり言える。
「もしお前が衛謐を好いていて、めあわせて欲しいと望むならば――」
「私、はっきり申し上げたはずです。靜とは、特に親しくもありませんし、どのようにも存じ上げておりません。将軍はどうして、そのようなことを仰るのです」
「あれを、次の戦には連れて行ってやろうと思っているのだ」
少しためらうように告げられた言葉に、霖はぎくりとした。
将軍は、霖が靜のことを好きだと勘違いしていたのだろうか。
それとも、霖を靜に都合のいい相手だと思い定めているのだろうか。
将軍は、また、戦に出ていかれるのか――……。
自分は別に、まだ、誰のものになりたいとも思ってはいない。家格を気にするほどの家柄でもないし、父なら、好いた相手がいれば好きにさせてくれるだろうとは思う。だが、わからぬが、将軍に、そんな風に決められてしまうのだけは嫌だった。憧れの人であるがゆえかもしれない。だから、将軍の目の前で、誰かのものになるなど、考えるのも嫌だった。
「靜を、身を固めねば連れては行かれぬと考えておられるのですか」
「そういうわけではない」
「私は、将軍がお命じになるのであれば、従いますが、でもそうではないのでしたら、靜の妻になる気は、ございません」
自分でも嫌な冷たい言い方になっているのがわかって、腹立たしかった。こんな無礼で嫌な言い方をする女など、生意気な女など、褒美に、飛影に乗せてもらえるような価値はないのだ……。
「すまなかった。俺は勘違いしていたようだ。忘れてくれ」
いくぶんやわらかな声で韋将軍が言い、霖は後悔しながら――息苦しい気持ちになる。
なにやら大変な試験を課せられた後のような、くたりと大きな胸に寄りかかってしまいたいような。
吹き抜ける青い風が、ほのかに感ぜられる将軍との距離や息づかいを、はっきりと際立たせた。
この位置が。このわずかな開きが、霖に訴えている。
――自分はこのように、将軍の近くにいられることが、嬉しいのだろうか。それとも、もっとおそばに寄りたいと、願っているのだろうか。
初めて目にした時から、目が離せなくなるほどこころが動いた。だがそれは遠い憧れであり、雲上の美しさに憧れる少女の夢でもあった。
だのにいつの間にか琴(きん)を通じ会話を通じ、将軍が雲からおりてきた光のように近くなっている。明るい陽射しのもとでは赤銅の双眸と髪を持つと知るほどに近づいて、夢を見すぎていたのかもしれない。
見果てぬ、夢を。
「……また、口を閉ざすか」
「えっ」
「なにを想っていた」
「…別に…なにも」
「そうか」
「はい…」
2人はしばらく飛影の上で、静かに風が過ぎるのを感じていた。
その後、麦が黄金色に実る時期を過ぎて間もなく、韋将軍らはすぐ北の異民族討伐へと赴いた。
(13)2009.12.27



北伐については、領内が落ち着き、兵糧が整い次第と決まっていたことのようだ。
食料不足などで時折攻めおりてくる北の騎馬民族は、冬が近くなると襲いかかってくる。これまでも農民が被害を受け、その影響で町に食料が不足することはあった。だからこうしてその不安を排除してくれるのはありがたいことなのだ。
その上、北方の民族は、果敢ではあるが軍としてのまとまりが薄いらしく、騎馬に長けた韋将軍の軍が彼らを打ち倒すのはそう難しいことではないという。長くて半年もかからぬだろうと噂に聞いた。
半年なら、普通の戦に比べて随分短い。
霖でもそうわかる。
だのにその、たった半年の将軍の不在が、霖になにかしらの不安と、寂しさをもたらしている。
もちろん、郡内には兵がいなくなったわけではないし、突然他国から攻め込まれても数ヶ月は守りきれる備えがしてあるはずだ。
それでも、将軍がおられぬというだけで、大好きな琴にも身が入らずに、吐息ばかりが生まれでる。これはいったい、どうしたことだろう。

そんな折だった。
霖の家、王家に縁談の話が届いた。
相手は近所の張家で、細かいことを言えば、王家よりは家格が上だと思われる、つまりはまずまずの話であった。
それまで縁談の話などそぶりも出さなかったものを、突然、年頃の息子にもそろそろ嫁を、などと言ってきたらしい。
張家のほうでは、しきりと王家に韋将軍が出入りしてると聞き及ぶにあたり、王家は将軍の覚えもめでたいのかと、勘違いしたものだろう。
話を聞いて、霖は、さっと青ざめたようにおののいた。
韋将軍に靜とのことを聞かれたときよりも、嫌な気分だった。
もしこのまま話が進んでしまえば、将軍が戻られた時にはもう既に張家の王夫人となって、将軍と胸襟を開いた話もできなくなる。飛影に乗せてくれなどと、大それたことを言うこともならなくなる…。それならまだ、靜のところへ嫁いだ方が、良かったなどと――。
つまらぬ我がままだと知りながら、それでもなお、しがみつこうとしている己の有様に、霖は愕然とした。
何を求めるわけでもない、かなうはずもない夢に、魅入られすぎている。
私は、いったい。

打ち沈んだ霖のもとへ、府から戻った父が問いかけたのは、その夜のことである。
「霖。張家の話は聞いているね」
「はい、父さま」
霖は暗い翳りを隠せぬまま、しおらしく答えた。
「お前も、そろそろ嫁に出ていい年頃だ」
「はい」
「張家の息子は、華々しい噂は聞かないが、悪い噂も聞かない。手堅い人間だと聞く」
「……」
父の言いようにそっと目を閉じて、それから、ゆっくりと開けた。
「そうですか」
「お前はどう思うのだね? 霖」
「…私は…」
「正直なお前の気持ちを聞いているのだよ、霖」
将軍には、あんなに強く言えたくせに、父にはなぜか言い返せなかった。
多くを望まない、地道な人だけに、父が見込んだとあれば、受けるべき話なのだ。それがわかるから、霖には反対できなかった。
「父さまが、決めたと仰るならば、異論はありません」
(14)2009.12.28



「だが、いきたくはないのだであろう?」
「……」
「お前は、驚くことに、虚空を飛ぶ鳥を見ている。この私の娘とは思えぬほど、大胆で、そのうえ母に似て、頑固だ」
父の比喩にこそ驚いた。霖はおろおろとした気分で、ただ父を見つめた。
「1つ尋ねるが――」
いつかの将軍のような言い方に、霖は妙な符号を覚える。
「お前は大空の鳥に憧れているだけなのか。それとも鳥に乗って羽ばたく夢を抱いているのか。はたまた鳥を撃ち落としてやろうと野心を抱いたか」
「私――私は」
正直、霖にも良くわからない気がした。
鳥に憧れているのは確かだ。だがそれは、鳥に乗ることではなく己が羽ばたくのを夢見てかもしれぬし、ただ大空を眺めるうち己が鳥なのではないかと思い違いを始めたのかもしれない。
女の身で野望など抱くべくもない。風を感じて生きている鳥の美しさに憧れている。
「私は――」
答えられずにいる霖の惑いに、父は少しだけ眉宇をしかめた。
「なるほど。人の本質、人の本心を見抜くのに、時の長さや身の近さは関係ないのだな」
「父さま…」
「よかろう。こたびの縁談は断る。だが、お前がいつまでもそのような考えであるならば、私は許さぬ。わかった上でのことならばまだいいが、お前は何もわかってはおらぬ。霖、よく考えなさい。いいね」
「…はい、父さま。申し訳ありません」
父が、珍しく厳しい表情、声音で言い下した言葉には、一種の謎かけがあった。
父は、霖にどうせよと言うのだろう。
霖がどのような考えに至れば、よいと仰るのであろう。
……だが、それでも、断ると言ってくれた父の優しさに、霖は救われた。
縁談は、消えた。



厳しい寒さが募り、乾いた大地の広さが身にしみる季節が戻ってきた。
河も凍り始めているころだろう。
将軍が北伐に向かわれてからもう5ヶ月になる。
その間、霖は琴を弾くことも忘れてずっと、どこか遠い彼方を見上げてばかりいた。父の真意が見えなかった。
唐突に韋将軍とその軍が凱旋するとの話にも、どこか上の空で、夜、急な韋将軍その人の訪問を受けても、なにがなにやらわからない心持ちでいた。
火を強く炊いた炉の前に案内された将軍は、戦の疲れも見せず、だが、戦場の厳しい雰囲気だけはまだまとったままに、父と相対したらしい。
その後で、思い出したように、将軍は霖を召したのだった。
(15)2010.01.07



「無事のご帰還、何よりでございました」
丁寧に挨拶し、霖はふるえる。
目の前にいる人が、まるでゆめまぼろしのように、感じられた。
琴を、と言いかけて、将軍に遮ぎられた。
「酌をしてくれ」
どきり、と胸が高鳴る。
将軍の目線で人払いがなされ、霖はますます居心地がわるいような心持ちになり、動けないでいる。
室にはふたりだけが残され、炉で焚かれる火だけが音をたてている。
つきだされた杯は、空だった。
やっとの思いで霖は酒をついだ。さざなみたててつがれた酒は、注がれるやあっという間に将軍の喉を通っていってしまう。すると、将軍はすぐに杯を突き出すから、霖はふるえる手をおさえきれないままでいる。
「なにを怯えている。俺が怖くなったか」
「まさか」
「屏風の裏に荊軻(けいか)でもいるのか」
始皇帝暗殺をくわだてた刺客の名を聞き、霖は目を瞠って首を激しく振る。
「人というものは孤独だな」
ふと、くちびるに微笑して言う将軍が、霖はいやだった。
なおも首を振り続けると、将軍はするどい視線で、霖を見た。
「こうして目の前に話していても、互いに、本心は見えぬ」
「私は…」
「俺が男として怖じけていると思っているだろう」
「…なにを…」
「人のこころを奪い、踏みにじることなどたやすい。また、与えられたものをただ受け入れるだけなど、俺には耐えられぬ屈辱だとも思う。だからこそ、俺は試しているのだ」
「韋将軍、あなた様はいったい――」
「さあ、空になったぞ」
ふたたび突き出された杯が、霖にこころの奥底を覗き込ませるような恐れを抱かせ、霖の手元は狂った。
将軍の袖にわずかにこぼした雫に、慌てて己の袖を置こうとした。だがそれよりも早く将軍の手が霖の袖をつかみ、強く押さえた。霖の体がたえきれずわななく。じっと強い双眸で、まるで睨まれるように、霖のことを見ている。わけもなく悲しくなった。言葉が出なかった。
「言うことはないのか」
険しい将軍の言葉にも、答えられなかった。脳裏に、妾、という文字が浮かぶ。
あ、と霖は押さえられていない方の袖で、己の口を封じた。
己の妄想が浅ましく散らばり、さっと首筋から朱が這い上がるのを感じた。
ちらちらと揺れ動く火が激しい。

なんということを、

霖は初めて己自身を見たような気がして、嫌になった。
瞬間、はじかれたように将軍の手から逃げ出し、霖はその場を逃げ出していた。
わけもわからず、ただ、自身の抱く欲望に泣き濡れた。
朝までそうして――それから霖は、ものを口にしなくなった。

病になったのである。
(16)2010.01.14



原因もわからず、治療もうけつけぬまま、霖はずっと臥せっていた。
医師が訪れ、家人がつききり、家族が懇願しても、霖はものが食べられなかった。
気持ちのうえではわかっているはずなのだが、どうしても、体が食物を受けつけないのである。
韋将軍に無礼を働いたまま逃げ出し、ただ日に日に衰えていく己の体を眺めることしかできない自身に、霖は嫌悪を感じた。
己のことが、己で理解できなくなっている。


そっと、室に父が入ってくるのを感じた。
ぼんやりと寝て過ごすだけの霖の思考は、ゆっくりと同じところをまわっているようなものである。
父が、そっと霖の腕を取った。もう10日以上も水だけで過ごした霖の腕は壊れそうに細まっている。毎日飲まされる薬湯だけが、霖の命をつないでいる。
「調子はどうだね」
「……」
答える気力がわかず、霖はそっと目線を父に向けた。
その厳しくも優しい視線が、霖の瞳をうるませた。
「お前はもう少し、賢い子だと思っていたのだが…だがその前に、お前は女であったのだな」
口を開こうとする霖を押しとどめ、父はふっと笑った。
「霖。お前の病は、薬で治るものではない。お前自身のこころで治すものであることは、おわかり?」
「霖。お前はなにに迷っている。以前、私が判じた言葉か。そうではない」
「お前はとっくにその答えをつかんでいる。だが、それを認められぬとする、お前の賢さが拒んでいるのだ」
霖の瞳に、生気が戻ったような色が浮かんだ。
「お前は、恐れ多くも、韋将軍を、想うているのだ」

…将軍が、無事戻られたことが、本当に嬉しかった。
なのに霖は、将軍その人を目の前にしたとき、いいようのない恐怖に襲われていた。
将軍が「俺が怖くなったか」と言われたのとは違う。
それとはまた異なる次元の、そう、あの杯を覗いたときのような恐怖が霖の体を包んでいた。
そのくせ、自身が思い浮かべた言葉は、妾、ただその一語だった。
霖のようなものが将軍のおそばにと思う浅ましい夢の欠片を捨てきれずに、霖は叶うはずもない夢をいつの間にか大きく膨らませ、いっぽうでそれは現実的な尺度ではかられ、妾、という順等なところへおさまろうと、いやしくもかたまりつつあったのである。
そこへきて、戦から戻った将軍のまとう空気の重みが、畳み掛けるような将軍の言葉が、霖とは別次元で生きていると、将軍はひとり孤独に生きているのだと、霖を突っぱねたように思われて――
霖は、破れたこころを補えず、否、諦めることも捨てることもできぬまま、中途半端に逃げてしまった。
霖は、韋将軍を愛し、己も愛されたいと願っていたのだ。


父にはっきりと告げられたことが、霖の体に一時的な覚醒を呼んだ。
「私は言ったね。いつまでも惑うているだけではならぬと。お前が韋将軍ただひとりを想って、一生を独りで過ごすと決めたならば私は止めない。逆に、叶うはずもない夢だ。きっぱりと捨て去って他に嫁ぐとするならば、それもいいだろうと思う。だが今のお前はどうだね。どちらにも傾けず、ただ、ただ誤魔化している。
私が前太守を裏切ると決めた時、それは大きな決断と命をかけた行為であったことは、お前も知っているね。それはすべて、あてのない賭けだった。韋将軍があのように立派なお方でなければ、私はもっともひどい手引きをしたことになっていただろう。或いは、こころに迷いがあるまま内応していれば、失敗して、多くの志ある者が死に、前太守の横暴が強まっただけだったかもしれぬ。
決めるということはそういうことだ。例えどんなことであれ、この世に生きるということは、命がけで、そしてしっかりとした己を持たねばならぬということだ。霖、それは女の身のお前とて同じだ。いずれ誰かの妻になったとき、お前は幾つもの決断を迫られるかもしれぬ。その時、今のようなお前では、夫を助けるどころか、夫の将来を潰す愚妻にしかなれぬだろう。そのような志であるならば、今、このまま、死ぬがよい」
そうだったのだ。そうであったのだ。
霖は声にならぬ嗚咽を漏らした。
「私はお前を少し甘やかし、買いかぶりすぎたようだ。厳しいと思うかもしれないが、これが、私からの最後の言葉と思いなさい」
そう言いながらも、父の手はあたたかく強く霖の手を握っていたのだ。
霖は体の中の少ない水分をほろり、ほろり、とこぼした。
(17)2010.01.21



霖は、死を決意していた。
このまま生きていても、またぐずぐずと迷い続けるだろう。覚悟がないのに誰かの妻になったとて、父の言う通り、良い妻となれぬのは目に見えている。
ならば、このまま、韋将軍を想って、死んでいく方が美しいと思ったのである。
そう決めてからは、薬湯も口にするのを拒むようになった。
ただ家人は諦めずに続けている。やめてくれと頼んでも、霖が眠っている間に、布からしたたらせてしまうのだろう。起きるといつもくちびるが濡れていた。
まだ死ねない。そうすると霖の覚悟が先延ばしになっているようで、ひどく情けない。だが、動くことのかなわぬ霖には、じっと待つよりないのである。
眠っている時間が長くなり、徐々に意識が途切れがちになった。
それでも、以前よりは幸せなこころもちでいられた。

室内へは、やわらかな陽射しがそそいでいる。遅い春が巡って来たようだ。
桃の香りが鼻をかすめるのが、牀のうえにぼんやり横たわっていてもわかった。
鶯の声が響き、陽のぬくもりさえも届く。
1年前のあの日、将軍が初めてここへいらしたおりも、桃が咲いていた。
この春の日に逝けたならば、生涯は幸せであるだろう。
女としての夢も見ることができたから。
刹那、韋将軍の面影を描いて――


幾日、桃源郷の夢に馳せていただろう。はたと、見上げた先に、韋将軍が立っていた。
外の春めいた空気をまとって、だのに表情はまだ冬を抱いたまま。これはまことであるのだろうか。
じっとこちらを見下ろし、何かしようとする家人たちを手をあげて止めている。
霖はぼうっと、その春のまぼろしを見ていた。
「死ぬ覚悟か」
聞いたこともないような、低い響きの声が、おりている。
「すべてを置いて、死ぬ覚悟か」
鶯の声。
「俺はかつて、妻と子を、捨てたと言ったな。己の野心のためであったと。しかし、もうひとつつけ加えて言おう。黙って与えられたものを受け入れるだけしかできぬ人間は、俺とともには歩めぬということだ。
では、お前はどうなのだ。お前は運命を受け入れるだけの女か。その死の覚悟は、なんだ。肉屋が大将軍になったりもする世に、なにを恐れている。お前は重荷を背負うのが怖いのか。覚悟が足りぬと申すか。だのになにゆえ、お前は死んでゆこうとする。俺がおらねば生きてゆけぬと知っているのに、なにゆえそれを隠そうとする。こころを隠すな、霖」
大きく、風が吹き抜けたような気がした。
霖――と、名を呼ばれた。将軍は、家族しか知る由もない私の名を、知ってしまわれたのだ。
…だが、霖の夢の将軍は、強く、偉大なまま、ひどく近く、はっきりと象って、そこにあり。
夢見た通りのまま、なにも変わらないのだ。
むしろ、もっと…
こころひかれずには、おれない。この未練を断ち切るなど、到底、できない。
「そうだ、お前は俺がおらねば生きてゆけぬのだ。死ぬ覚悟があるのなら、生きる覚悟をせよ。俺がお前に命を与えよう。口にして、生きろ」
霖はかさついたくちびるをふるわせた。
するなり、将軍は家人の捧げ持つ器から粥をすくい、自身の口に含んだ。
そして――
貴重な米の粥が、よく咀嚼されて、将軍の口から、霖の口へと与えられた。
命を、まことの命を、与えられた。

「俺がどれほど、お前の父に、お前を妻に欲しいと頼んできたか、教えてやろうか? 生きて、俺のもとへ来い」

風が、吹く。霖を後押しする。
霖は、必死の思いで、飲み込む。
苦しい。あまりに弱った体は、粥さえも容易には受け付けない。だが、吐き出さずに、死ぬ思いで食べた。
一度死ぬと決めたのだ。
おそれるものなど、ない。


***


王夫人は良妻として有名である。王佐の才のごとく、将軍である夫につかえた。
また、賢母でもあり、玉のような男児を3人も生んでからは、どの子も、父将軍に似て勇猛果敢、人格者に育て上げたという。
王夫人は韋一家をとりしきる立派な女性であり、ゆえに、韋家はいつも温かく強く団結した家であった。

こんな、馴れ初めがある。
韋将軍は後に都督にまでなった人でありながら、王夫人をめとると決めるやすぐに、己よりずっと下位である夫人の父へと礼を尽くした。だが、将軍は同時に、己の権力によってのみで動く縁(えにし)を結ぶ気はないということをつまびらかにした。夫人の父もまた、そのお考えは正しいものであると賛同し、夫人のこころがどう動くのか、待つことにした。それほどに、夫人は愛され、大切に求められた女性である。
当初、王夫人は第二夫人にすべきだ、という意見もあったが、「余計な世話だ」という将軍のひとことで、正夫人になった。結局、王夫人の人柄を見るにつけ、誰も二度とその話を蒸し返すことはなかった。

韋家からはいつも、美しい琴の音が響いて、その音を聞くと、誰もが美しいこころもちになれたという。
(18)2010.01.28