時間の問題



 煌々と部屋を照らす光が妙に眩しく感じて、少しだけ目を細めながら、柊一郎(しゅういちろう)の口は無感動に告げた。
「そんなに俺のことが好きで俺のペンまで舐めたって言うんなら、やれるだろ。早くシテみせてよ」
 顔を羞恥に染めた彼女――確か、ナルちゃんだっけ? この子のあだ名は、と柊一郎は考える――はふるふると華奢で小さな体を震わせながら、正座した太ももの上の拳で制服のスカートをしわくちゃにした。
 そら見ろ、と鷹揚に顎を上げた柊一郎は意地悪く鼻を鳴らす。
 散々柊一郎のことを追いかけまわして、柊一郎さんのものなら全部舐めたいなどと爆弾発言するわりには、ナルちゃんとやらはまるっきりのおぼこで、見た目に違わずほわんとした女の子なのだ。今時アニメでしか見たことないような長い髪のツインテールを揺らして、くりっとした瞳を伏し目がちにしてる。
 ナルちゃんはすることが大胆なわりにはその実その意味を理解していない。
 それが柊一郎の気持ちを必要以上にかき乱し、イライラとさせることも。仕事を終えて疲れた体に倍以上の重みとなって跳ね返ってくることも。

 何をどうしたものか、高校生のナルちゃんとは縁もゆかりもないはずのパン屋の柊一郎が、学校一男女問わずに愛されキャラであるだろう彼女に愛されてしまったのは、ただただ困ったことだった。
 気がつけばナルちゃんとやらは毎日毎日柊一郎のパンを買いに来て、店を閉めて家に帰る柊一郎の前にも現れてる。
 しかも、ナルちゃんはおっとりとした見た目にそぐわずいきなり柊一郎の部屋にまで上がりこもうとして、柊一郎の度肝をこれでもかというほど抜いた。
 そうなって早何ヶ月過ぎたろう。今日も閉店後に裏口で待ち構えていて、恥ずかしそうにするわりには、作った本人に向かってこれ美味しいから一緒に食べませんかなんてパンを突き出したが、さすがにもう慣れたもので、柊一郎は微動だにしなかった。(これが普通だったらどんな結果を招くのかなんてこの子にはきっとわかっていないのだ)。柊一郎は嘆息して俺疲れてるからさよなら、とさっさと帰り道を急いだはずが、ところがアパートの鍵を開ける頃になっても柊一郎の横にナルちゃんはにこにこと立っていた。無視して目の前で扉を閉めたはずなのに、今度はどんな魔法を使ったものか、ちゃっかり部屋へ上がりこんで、小さなちゃぶ台の前でぺたんと座っている。自分で買ったパンの袋は脇に置いて、唖然としてる柊一郎に微笑みながら、ナルは柊一郎さんのパンの中ではクリームパンが一番好きなんだなんて、柊一郎が余りモノで持って帰ってきた方のパンを食べ始める。
(これって不法侵入及び窃盗じゃないのか)
 ぴくぴくと顔筋が痙攣し始めた柊一郎は、パンの袋を前に幸せそうに鼻にクリームをつけているナルちゃんの図々しさと物怖じしない態度に、全身が痒くなった。
「あのさ……君、どうしてここで俺のパン食ってるわけ」
「えっ……それは…」
 いまさら急に真っ赤になってもぐもぐしたナルちゃんは、チラチラ意味があるんだかないんだかの視線を柊一郎に投げてよこして、えへへなんてクリームを幸せそうに舐める。きっと同い年の男だったらこういうのにめろめろになるんだろう。だけど俺は大人だ。立派な社会人だ。その乳臭い甘ったるさがすごく癪に障るぜ。
「俺、あがっていいなんて一言も言ってないし、一緒にパン食おうぜなんて思ってないし、君のこと好きじゃないし」
 するとナルちゃんは途端にぽろりと食べかけのパンを床に落として、中のクリームをべちゃりと飛ばす。よりによって柊一郎お気に入りの座布団の上にだ。おい、ちゃんと洗って綺麗にしてくれるんだろうななんてイライラしながら、ナルちゃんの大きな瞳から今にも洪水があふれそうなのを見て取る。女の子の涙くらいで動揺するほど若くもない。「今すぐ帰ってくれんならそのままでもいいけど」なんて感じ悪く付け足すのが大人の男ってもんだ。
 柊一郎の苦々しげな言葉にめげた彼女は、ナル、柊一郎さんのためなら頑張りますなんて見当違いのことを吐いたかと思ったら、余計に泣き出しそうな顔をした。唇を突き出して、たりっと滴(した)たった鼻水をすすって、顎をひくつかせて。あの手じゃスカートの裾で鼻を拭きかねない。子供みたいに大声あげて泣かれたりしたら、近所の人に、もしかして俺、女子高生を無理矢理部屋に連れ込んで不貞を働いたとか言われるかもという不安がよぎり、柊一郎はじりじりと玄関先まで退いた。冗談じゃない。俺の好みは母乳臭いガキじゃなくて、お色気ムンムンの巨乳なんだ、とか口にしながら。ドアを大きく開いて、早く今すぐここから出て行ってくれと怯えた口調で訴える。まったく、女子高生なんて冗談でも冗談じゃないよ。まだオシメもとれてないくせにさ。ワカメちゃんみたいなパンツはいてんでしょ。ナルちゃんは返事するようにひっく、としゃっくりした。
「泣くな。絶対わめくな。スカートめくるな。それやったら警察呼ぶ」
 ナルちゃんはドキリと持ち上げかけたスカートの手を止めて、ごくんとつばを飲んだ。ものすごい微妙な顔して柊一郎の顔を凝視してる。耐えているということのアピール? 柊一郎は素早く決め付ける。
「俺のために頑張れるんなら、もう俺の人生に割り込まないって約束できるよな」
「……え、と。あの。ナル、柊一郎さんのためだったら頑張れるけど、柊一郎さんの人生にはけっこう割り込みたいです…」
 なんて厚かましさだ。どんだけ分厚ければ気が済むのだ。食パン1斤並みか?
「俺のため、とか言ってるけど、君、俺のためなんて1ミリも考えてないよね。考えてないくせに、よくそんなこと言えるよね。そのクリームメロンパンは今日の俺の夕飯だから、食うなって話だよね。っておい、聴いてるのか! ちょっとでも食ってみろ、明日から入店禁止の張り紙、写真付きで出してやるからな」
 ナルちゃんを先制するのは簡単だった。泣こうとしてたくせに人のクリームメロンパンを狙うなんてなんてとんでもなく強(したた)かだ。かなり食べたかったのか、唇をとがらせてクリームメロンパンを指先でつっついてる。やめろ、俺が食うって言ってるだろう。じっと睨んでると諦めたのか、結局柊一郎の袋から別の新しいパンを取り出した。お前の買ったパンはどうしたんだ。
 今度はコロネ。柊一郎だったら穴の方から食べるのに、ナルちゃんは細い側からかじるおバカさんだから、開いた側からまたクリームがはみ出して、でろんと下にこぼれてる。いい加減にしろよ、と衛生にはうるさいパン屋の柊一郎はぎりぎり歯ぎしり。どんだけクリーム食って乳臭くなれば気が済むんだチクショウ。
「も、いい。お前、その袋全部やるから帰れ」
「いひゃですぅ(いやですぅ)…んぐっ」
「食べこぼすな! 落ちたクリームをなめるな!」
「だって柊一郎さんの作ったクリームがぁ」
「気持ち悪い! 口の周りを拭け! 指をしゃぶるな!」
「ん〜柊一郎さんの味がします〜」
「変態チックなことを言ったな! 変態は入店お断りだ!」
「だって〜〜」
 上目使いしたって、嫌なものは嫌なんだよ! と、ナルちゃんはとんでもないことを告白始めた。だって柊一郎さんの作ったクリーム、すっごく美味しいんだもん。柊一郎さんて、クリームの甘いいい匂いがするの。この前も思わず、ペン舐めちゃった。柊一郎さん、いつもあのペンくわえてレシピ考えてるでしょう、ペンからもいい匂いがしたよ。柊一郎さんのものなら、ナル、全部舐めたいな。お店のトングも扉もクリームの味がしたし。などと。
 …誰の…ペンだって……?
 …お店のトングも扉も……?
 ドカンと何かが爆発したような気がした。
 人一倍衛生観念にうるさい柊一郎は、知らぬ間にそんな汚染行為をされていたということを知るや、パンが破裂するみたいに血が昇った。
 この変態バカ女は何を舐めただと!?
 指をしゃぶって甘えた顔をしてるナルちゃんに、イライラMAX。
 柊一郎は突然ばたんとドアを閉めて狭い部屋へ戻った。彼女の目の前でデニムをずるっと膝まで下げて、どしんと足を投げ出した。
「じゃあ俺のをシャブれ」
 きょとん、としたまま、ナルちゃんは首を一方に傾ける。
 長いツインテールがゆらりと流れて、ナルちゃんと同じ方向に傾いている。
「俺が関係あったら何でも舐められるんだろ。俺自身ならもっといいじゃないか」
 おぼこ娘のナルちゃんは、ちゅば、としゃぶっていた指を口から外すと、じぃーっと柊一郎の全身を眺めて、それから恥ずかしそうにん〜っと唇を突き出して顔を寄せる。
「バカ! 違う! 誰がキスしていいなんて言った! 俺が舐めろと言ったのはこっち!」
 ぐいと首根っこをつかまえて、自分の股の間に持ってく。一応30センチくらいは距離を離したけど、下着の膨らみを前にしてナルちゃんはおぼこなりにちょっとは理解したのか、急に赤面してえ〜〜〜なんて騒ぎ始めた。
「できたなら、これまでのこと許してやってもいい」
「あう、あう」
 アホぅみたいにしどもどと慌てるナルちゃんを見て、柊一郎はザマァミロこのガキんちょがと心の中で揶揄した。目には目を、変態には変態を。これで少しは大人の怖さを知れってんだ。
「俺のために頑張れるって言うんなら、これくらいやれるだろ。さあ、早くシテみせてみろ」
 腰を突き出すように後ろ手を付く。ナルちゃんはすっかり赤く小さくなって、ふるふると華奢な体を震わせる。どうせ何をすればいいかも知らないのだ。驚け。怖がれ。そして帰れ。だんだんこの意地悪が楽しくなってきた柊一郎は取り繕った顔の下で笑いながら、俺も結構大胆だよなあと尊大に構えた。ナルちゃんはすっかり参ってしまったのか、歯を食いしばるように唇を引き締めて、また泣きそうな顔して俯いた。
 けれど、ナルちゃんが余りにも小さく固まって動かないのを見てたら、ちょっぴり可哀相に思えてきた。楽しい気分はすっかり萎えて、俺なんで女子高生相手にこんなアホなことしてんだろという気になる。意地悪ってのは相手が反応してこそのものであって、無反応だと単なる苛めで面白くない。ってゆーか、中途半端にパンツ丸出しで座ってる俺ってどうよ。
 気まずいような気分で、柊一郎は急いで事態を収束しにかかった。
「お、大人の男をからかうとこういう目に遭うんだ。覚えておけ。わかったか」
 ちょっと偉そうに言う。するとナルちゃんは俯いたまま小さく「わかりました」と声にした。よしよし。素直じゃないか。今ごろ恥ずかしくなってデニムを引っ張り上げながら、じゃあ許してやろうと、
「舐めます」
「は?」
 ナルちゃんは魔法のように早かった。柊一郎が引き上げたはずのデニムは太ももにひっかっかったままで、その上にはもうナルちゃんがまたがっていた。ナルちゃんの手は柊一郎のパンツをずり下ろしにかかっていて、どうしたわけか鼻息荒いもんだから、襲われてる感が漂ってる。柊一郎の手と一進一退の攻防を繰り返しているが、ちょっとでも気を緩めたら一気に丸裸にされそうだ。同時に彼女の手が変にあちこちいじくって、柊一郎をやりきれない気分にさせる。
「ナル、柊一郎さんが喜ぶんなら何でもやります」
「…いや、あの、君、わかってる」
 顔面蒼白でパンツを押さえている柊一郎には、ナルちゃんのやる気満々の顔が恐ろしくて仕方ない。
「知ってますよ。確か、胸も使うんですよね?」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「柊一郎さんにいいこと教えてあげます」
「こんな時に――」
「ナル、実は巨乳です」
「聞いてねえし!」
 そう言いつつ、巨乳と聞いてちょっとえ、なんて思いながらナルちゃんの胸元に視線を送ってしまった自分はバカで変態だ、と柊一郎はひどく後悔する。
「こういうの、育成っていうんですよね? 男のろまんだって聞きました。ナルも好きな人に好みの女性に育ててもらうの、嬉しいです。頑張ります」
「育てるなんて言ってない!」
「柊一郎さんのそういうところ、好きです」
 好きです、のところでキャハなんて恥ずかしそうに照れてるナルちゃんは、自分のやってることを全く理解していない。やっぱりクリームの味がするのかな、なんてものすごい変態用語をばら撒いてる。
 くそう、一体どうすりゃいいんだ。
 頭を抱えたくても手は埋まってる。
 ナルちゃんとの攻防がどこまで続くのか、柊一郎にはわからなかった。
 

終わり

2008.3.15〜2008.3.26 お礼第3弾「ナルちゃん」篇
番外編5周年企画『もう子供じゃない、逃げるのをやめろ』