くちづけ


 軽やかに銀糸のような春の雨が紡がれていた。
 耳に心地よい水の音楽は地面のぬかるみに流れを作り、靴に泥はねをつけた。
 ばしり、と力強い腕が振られる。
 彼が叩き落したピンク色の傘が音を立てて、空から降る雨よりも強く存在を主張する。
 灰色の世界と黒い服を着ていた私たち以外にある色はそれだけだ。
 しっとりとした水が服にしみて、少しずつ重みを増す。
 生ぬるい風がピンク色の傘を吹き飛ばした。
 ゆっくりと影が差した。
 人のを跳ね除けておいて、自分の傘を差し出した彼は、能面のように表情を硬くしてじっとこちらを見てた。
 透明の傘は曇り空を透かして見せる。
 しゃがんだままの私は黙って彼を見上げる。
 影が近づいた。
 わかってたくせに、私はどうしても動くことができなかった。
 目を閉じることもできなかった。
 透明の傘の下で、彼にくちづけられた。
 熱いものが私の唇を伝い、予想外に柔らかい感触から零れ落ちる息遣いが激しいと思った。
 私の傘は円を描きながらごろごろと転がり続けてる。
 強く吸われた唇が赤く熱を持つ。
 春風がぶわりと雨糸を揺らして、頬を濡らす。
 私にはまだあの人がいるの――そんなこと、言わなかった。
 ただ黙ってそれを受け入れ、ただ黙ってそれを受け流したとしか説明できなかった。
 最後に甘く齧られた口はぴたりと閉じ、くちづけられる前と同じポーズ。
 相変わらず無表情な彼は、張り付いた髪の毛を私の頬からそっと払って、屈めていた腰を伸ばす。
 流れる泥がどんどん溜まる。
 枯れた花の添えられた場所には、もう誰の想いもないのに。
 私はずっと囚われたままだった。
 気付けば、閉じたピンク色の傘が目の前に置かれていた。
 私にくちづけした彼は既に歩き始めていた。
 雨は緩急をつけて落ちた。
 ぬかるんだ地面をもっともっとどろどろにして、どこかへ流れている。
 唇に残った湿り気がじんわりと胸に染みてゆく。
 この熱の意味を考える日がやってくるのは、そう遠くない予感がした。
 

Fin

2008.3.6〜2008.3.14 お礼第2弾「くちづけ」篇