あなたに触れたこの右手



 神様は本当にいる。だって、ホラ、こんな女神を遣わしてくれたから。


 学校帰りの彼がポケットからキーを取り出した時、車の後ろに屈み込む1人の女性の姿を見て、一瞬自分が、目指す物を間違えたかと周囲を見渡した。
 しかし乗り物を間違えているのは自分ではないと悟ると、再びその女性に目を移した。女性はリアバンパーの前でスカートのひざを綺麗に抱えて、ナンバープレートの隅を指でなぞりながら、ぼんやりと何事か考えている。
 年齢は自分よりもやや大人っぽいだろうか。房の多い睫毛は伏せがちで、髪が綺麗なラインの頬と唇を誘惑するように毛先だけカーブを描いている。その唇は呪文か祈りを唱えるように薄く開かれ、クリヴェッリの絵のような優美な線を描く輪郭が、不思議にひきつける魅力を放つ。彼がその瞑想を一体邪魔していいものなのだろうかと迷っていると、どうやらそれに気づいたその女性はくるりと振り返った。
 くるりと振り向いたその顔は驚きもせず、ただじっと見つめていたかと思うと、少し赤味が差した。最初に吐き出された言葉たちには謎かけが含まれていた。

「これ――あなたの?」

 ぼんやりしていた彼は『これ』というのが車のことを指しているのだと気がつくと、ようやくうなずいた。
「ええ――まあ」
「ふうん」
 女性は悪びれた風も無く再び元の方向を向いて、さっきと同じところを触り始めた。持ち主など全く気にしてない様子にも見えたが、背中から緊張感が溢れてる。彼は少し警戒すると、彼女をもっと観察した。
 彼女のいじっている所を注視してみた。そこには、普通だったら付いているはずの無い突起が、いや、ナンバープレートのねじ部分に別の何かが被せられている。どうやらペットボトルの蓋で、少し前流行して、同じことをしている車をちらほら見かけるものだ。しかも手書きで何かのマークが書き加えられている。
 この車の持ち主である彼はこんなことをするはずがないので、この女性が悪戯したのだろうかと彼は訝った。しかし、だったらこんな風に運転手にさっそく見つけられてしまうような行動なんてしないだろう。きっと彼女はこれが気になったのだ。
 彼は彼女の無邪気に車を見つめる姿を見て小さく微笑んだ。少々変わってはいるけど、悪い人間ではなさそうだし疑るのはよそう、と。それに――。
 彼は自分がちょっと図々しいかもしれないと思った。なぜなら彼は、彼女が自分に恋をしているように感じたのだ。もちろん初対面なのにそんな感じを受けたのは、彼女がこの車の持ち主が現れるのを待っていたように感じていたから。彼女から伝わる緊張感は、赤味の差した頬を消すための焦りにも思えて、一層彼の疑問をあおるように見える。
 そんな風に考えを巡らしていると、唐突に立ち上がった彼女が彼の方へ向き直った。そして次に放った言葉は余りにも予想とかけ離れていたため、この日一番彼を驚かした。

「ねえあなた、笑ってみない?」

「――は?」
 さすがの彼でも、すぐには返答できなかった。
「笑った顔、素敵そうよ」
 からかわれてるのか、その反対か。彼は相手の目をじっと見て考える。真っ直ぐに視線を返してくる瞳は、少し光にかざすと変色したように見える。うん、そうじゃない。彼女はきっとただ思ったことを言っただけなのだ。体からふっと力が抜けて、彼はもう一度意味を考えてみた。不思議と親しみを感じる雰囲気に、愛情すら覚えて彼は彼女をもっと知りたくなった。会話を続けてみよう、そう考えた。
「なんだかそんな風に言われると…あとが怖いな」
「なんで? 別に、笑ってみればいいだけなのに。いいことあるかもよ」
「どんな」
「それはやってからのお楽しみ」
「いいことじゃないかもなんでしょ」
「だからお楽しみなのよ」
「けど今日ちょっと、くさくさしてたんだよね」
「なあに、やなことでもあったの?」
「まあ。だからそう簡単には笑えないな。笑ったとしてもこんな風に苦笑いだけ」
「…ふーん。でも、絶対そうだと思ったんだけど。笑い顔に、本性の出るタイプ」
「本性なんか見たって仕方ないじゃん、初対面なんだし」
 でも彼女は、首を振った。
「違うの。笑った顔が見たいの」
「どうしてそにこだわるわけ?」
「あなたの影に、見えるものがあるから」
 強くはっきりとした言葉に、彼は体ごとひきつけられた気がした。半信半疑で彼女の視線を追ってみる。でも自分の後ろには何もなかった。しばらくは視線を宙に彷徨わせていたけれど、諦めて、彼女の触っている物に話題を変えた。
「そのナンバープレートのキャップだけど」
 今度は彼女が彼の見ているものに視線を移した。彼女はまるで他人事のようにああ、と言うと、ゆっくりと思い出すように小首を傾げる。それは考える小鳥のようだと彼は思った。さながら彼は獲物を追い詰める猫。小鳥と猫の会話。獲物に迫るのは、なかなか至難の技だぞ。
「私、車って自分がどれに乗ってきたかすぐにわからなくなっちゃうの。車種を見ても自信がないし、ナンバーも覚えられないし。それで色も別に派手じゃないって場合、どこを探せばいいかわからないでしょ。だからこういうマークつけたらどうかなあと思って」
「――なるほど」
 結局曖昧な答えに彼が迷っていると、彼女は車のトランクにそっと触れ、ゆっくりと撫で始めた。撫でられた車は冬の淡い光に照らされて、綺麗に反射を描く。その辺りだけ暖かい季節のように、光がオレンジ色に跳ね返っている。

「いつもそこに、帰ってこれたら」

 彼女はブーツの踵でコツコツと地面を蹴りながら、何かを語ろうとしていた。彼はそれが何か知りたくてしようがなかった。彼にはこの後予定があったけれど、気まずい気分のせいですぐには行きたくなかったし、彼女ともう少しだけお喋りしてたって悪くないだろうと思った。だから話す体勢になるために車に近づいてバンパーにもたれることにした。すると急に距離の近くなった彼女が目線で自分を追っているのがわかった。距離を測っているのだ。気さくに声をかけるくせに、意外に慎重だな。彼はへえとまた彼女について考察を始めた。
「ここの学生?」
 脇にある校舎からぞろぞろと出てくる生徒たちが見えたので、そんな風に聞いてみた。近くで見る彼女は最初に感じたよりも年が下らしい。それに思った以上に綺麗な面立ちをしている。これなら誰かがすぐに恋に落ちてしまうことも、当然起こり得るだろう。もしかしたら自分だって彼女に恋してしまう可能性が。出会いや運命なんてそこらに意外と転がってるのかもしれない。彼はなにげなく考えた。
「ううん。私は――大。ここのインカレサークル(*)に入らないって友達に誘われて来たの。今日は見学だけ。Rっていうサークルなんだけど」
「ああ、知ってる。同じ系列だし、友達がいるよ。ホラこれ」
 彼は背負っていた荷物をガサガサと揺らして、自分も同じ系統のサークルであることをアピールして見せた。
「あなたは? なんていうサークルに入ってるの」
「Sっていうやつ。知ってるかな」
「わからない。でもあなたがいるなら面白そうね」
「そう? でもうちはインカレじゃないから、他大生は紹介できないんだよね。それとも交渉してみる?」
「そう――いえいいの。私は特別になりたいわけじゃないから」
 彼女は間を置いた。

「特別がいいんじゃなくて、日常でありたい」
 そう言って。
 彼女は急にニッコリと微笑んだ。

 そんな風に微笑むと、心に謎を秘めた女性から、1人の恋する女の子に戻ったようだった。そして彼はそれを見て急に、急に――他人のいないところで自分に微笑んでいる彼女と微笑まれている彼を知ったら、その人はどう思うだろう、と自己嫌悪に陥った。
 それに彼女は遠い何かを見ているようなのだ。自分と話しているのに、まるで心ここにあらずというか。つまり彼と話してるのではなくて、彼に誰かの影を見ているように見える。さっき言っていた影って、もしかして。彼女が自分と誰かを重ね合わせてるから恋心を抱かれたよう見えたのだと、彼は少し寂しい気持ちになった。
「やっぱり笑ったり出来ない、あなたが思ってるようには。あなたが見てるのは別人だし、僕が笑うのは別のヒトだから」
 彼女は少しだけ考えるように眉をひそめると――でも再び笑った。その笑顔はもう謎に満ちたものでも魅惑的なものでもない、普通の笑顔に見えた。彼はじゃあ最初に感じたあれはなんだったんだと、さっきの話を思い返していた。彼は余計にわからなくなって聞いた。
「あなたはどうして、そんな風に笑えるの」
「どうしてそんなことが知りたいの」
「人間なんてみんな、似たり寄ったりなのかな」
「そうかもよ」
「だったらどうして同じ事象に対して、こんなに見解が変わってくるの」
「本当にそう思ってるの」
「思ってるよ。だから君みたいに笑えないって言っただろ」
「くさくさしてたからって言ったじゃない」
「おんなじだよ。つまり彼女が――自分の彼女が、昨日他の男に告白されて笑顔を向けていたら、思わせぶりな態度をするなんて、って思うでしょ。自分以外の誰かに向ける笑顔に意味があるかもなんて、考えたこともなかったのに。ってゆうか、さっさと断れよって」
 彼は少し拗ねたように、子供っぽい仕種をしていた。それを見た彼女は面白そうに口元に手をやると、言いかけた。
「まあそれは」
 でも彼女は言いかけて、やめた。彼は憮然としたが、時計を見てそろそろ切り上げ時だと思った。
「さて、もうそろそろ行きます」
「そうね、それがいいわね」
 彼女も同意して、右手を差し出した。彼もつられて右手を差し出す。
「じゃあ」
「じゃあ」
 握った手は細く小さく、彼は恋人と手をつないで歩いている時のことを思い出した。感触も形も違う、手。なのに思い出すのは目の前にいる彼女ではなくて、恋人のことばかり。かくいう相手も、自分の手を握り締めながら、別の映像を見ているのかもしれない。自分の右手から彼女の愛する人の笑顔を感じてるだろうか。この右手で触れているのはこの人なのに、心の中で繋がっているのは別人だなんて。唐突に彼女が変にニヤけた顔をした。
「今、なに考えてた」
「――なにって」
「同じだと思うわ」
「同じ?」
「あなたの大事な彼女。見ているのは目の前の人でも、見えているのは別人てことよ」
 彼はびくん、とそのつないだ手を震わせた。
「1つの事柄が、1つの事実とは限らないわ。物事には沢山の面があって、人間の数だけ事実があるものよ。反対に、1人の人間の持つ事実は、考え方によって沢山の事柄に生まれ変わるってこと」
 彼は何も言えなかった。謎が紐解けていくように彼の目には映った。
「あなたが恋人をどう思うか。それだけ」
 するりと離れた手が、彼の最後の謎を解く。
「さっきのあなたのあの忌々しそうな顔! 見せてあげたい――」
 彼女は再びニヤニヤとしてみせて、彼の証明が正しいと決定付けた。
「ねえ、この顔真似してみたんだけど。似てる?」
「――いいえ」
 徐々におかしい気持ちになると、彼はついつい声をあげて笑ってしまった。笑ってみて「なんだ、そういうことか」とますますおかしくなった。結局簡単なことじゃないか。恋人はそこに自分の影を見ていただけ。
「ああわかった。ようやく全部わかった。あなたが恋してたのはもちろん僕じゃなかった。僕に見た影だったんだ。僕の彼女が笑っていたのは、告白してきた相手を思ってじゃなくて、昔の僕の影を見てだったんだ」
 けらけらと笑う彼を面白そうに見ながら、彼女はそれでも怪しむように言った。
「本当にわかってるの?」
 彼は――彼の奥底に棲む、意地悪い部分を引き出すように微笑んで答えた。「わかってるよ」
 少しだけ眉をつりあげると、それで彼女は納得したようだ。同じように意地悪く、でもきっぱりと言う。
「あなた、素敵よ」
 彼はもうその意味を間違えたりしなかった。
「それは光栄だ」
「それに、頭がいいのね」
 彼は今日ずっと抱えていたもやもやとした気分がすっかり晴れているのを感じた。ああ、なんてつまらないことでひねくれていたんだろう。まだまだ子供なのかな。そもそも、嫉妬した相手も子供ときてる。彼は色んなことを思い出して恋人が恋しくなった。彼は今度こそお別れを述べた。
「また――お会いしましょう。僕の想像が間違っていなければ」
 彼女もまた、しっかりと答えた。
「ええ。間違ってないことを祈るわ。彼女と仲良くね」
「あなたも」
「あら」
 彼女は心外という風に首をかしげると、こう言った。

「私は幸せよ」

 そういい残して、彼女は陽気に去って行った。
 それはまるで小さなつむじ風。
 その背を見送って、彼は楽しいウキウキとした気分になりながら、こんなに面白いことってなかなかないよなと考えた。あんな人と巡り合わせてくれるなんて、神様は意外にイキなヤツかもしれない。じっと右手を見る。そして彼は携帯を取り出した。
『もしもし!』
 あっという間に電話に出た相手に驚いて、彼は嬉しい気持ちになった。彼が待ち望んで、小さな焼きもちをやいた相手がこの電話の向こうにいるのだと思うと、少しだけ幸せな気分だった。
「もしもし?」
『ああ良かった、電話かけてくれた。昨日からずっと怒ってるから悠也、ワタシ必死で――』
「ごめん」
『え?』
「ごめんね、結花」
『あの――』
「ごめん」
 彼は恋人を抱きしめた気持ちになると、もう何も言わせなかった。昨日彼女が勤務先である高校の生徒に告白される姿を見て、過去の自分の強引さを思い出し、彼は不安や不満を抱いたのだ。自分も生徒だった時教師である彼女に無理やり迫り恋人の座を奪い取ったから。でも彼女は電話の向こうにいて自分を待っていた。だからこの携帯を彼女だと思ってこの右手で握りしめよう。そうすれば、ホラ! もう逃げられない。
「よし、プチ旅行に行こう!」
『は? え、今何て言った? さっきからワタシなんだか、耳がおかしいみたい』
「なに言ってんだよ、とにかく謝ったからね。昨日怒る前に、夕方迎えに行くって言ったでしょ。その為に僕はわざわざ車を兄貴に借りてだねえ」
『怒ってないの? 昨日のこと』
 なんだそこかよ、と彼は苦笑した。
「結花が僕を見てるってわかってるから、いい」
 彼はにやけると、携帯を握りなおした。
「それに、本気で怒ってたら旅行なんて計画してないよ」
『良かった――ってええ!? ちょっと待って、これから行くの!? ワタシ旅行なんて聞いてない、ホントなの!?』
「仕事は終わったんでしょ。荷物なんてどうにでもなるよ。それに、結花ちゃんはスッピンでも可愛いしね」
『ばっ――あんたねえ』
 多分赤い顔をしてるであろう恋人は、大騒ぎしてそれでも安心したようだ。そして1時間後彼が迎えに行くと、しっかりと準備を終えていて、車の後ろについたおかしなマークに気がついた。
「なにこれ。なんでこんな変なものつけてるの?」
「ああそれ?」
 彼はちょっと誇らしげに見える様子で、恋人の右手をつかんだ。まるでこの手が宝物のように喜びを放つ。
「それはね、恋人たちが、いつでも一緒に戻ってこれますようにっていう、おまじないだよ」
「本当なの?」
「モチロン。それをつけた人は実際、幸せだって言ってたし」
「でも取れちゃったら?」
 彼女は不安げに、彼を見上げた。彼はでも、とびきりの笑顔で女神に囁いた。そう、彼女が自分の女神。神様はちゃんと自分に遣わしてくれた。さっき出会った彼女は誰の女神かも知ってる。僕が笑ったりニヤけた時そっくりだと言われる人。その人は車にこんなオモチャをつけられてるとも知らずに、きっといいように彼女を追い掛け回してるんだろう。でも僕は知っている。教わったから。不思議なあの人に、女神の扱い方を教わったから。

 大丈夫。大丈夫だよ。
 この手はいつでも、あなたをつかまえるから。

Fin

(*)インカレサークル…ここでは様々な大学の学生が入って集まるサークルのこと。普通、サークルは主催する大学の生徒以外入れない。
対のお話、読んでみる?