あなたに左手の届く距離



 自分が思うよりも、もっとずっと近い所にそれはあった。


 季節も充分深まり、そろそろ冬本番というある土曜日の午後。
 休日だというのに仕事に出かけてその帰り、車を置いてきた敦之(のぶゆき)はぶらぶらと歩いて恋人である梨古(りこ)の家を目指していた。
 さっきから落ち着かないのはなぜだろう、今まで付き合ってる彼女の部屋に立ち寄ることなんてなかったせいかもしれない。敦之はアスファルトの道を踏みしめながらこんなことになった経緯を黙々と考えた。ずっと、相手のテリトリーに入るということが束縛を意味していて、相手のところへ出向く行為が自分をおとしめる行為だと信じていた。例えそれが梨古の部屋でも同じ。彼女のあのマンションに一歩入れば、自分の知らない世界が待っている。嫌だ嫌だと避けてきたはずなのに突然それを覆すのは、あの部屋に何か求めてるのだろうか。敦之は人通りがないのをいいことにタバコに火をつけた。
 天気はのんびりと冬の陽だまりを映し出していた。かさかさと音を立てて落ちていくポプラの葉、ブルーグレーの空を突き刺していく鳥、それらは気持ちをあおって風に揺らいでいる。ここへ来る前のことを思い出してみた。それが原因だというのはわかっている。でも目的がわからない。敦之はゆっくりと回想し始めた。
 車を預けた駐車場横に、大学の校舎があった。そこで大勢の学生の、楽しげに笑い語る子供とも大人ともつかない宙ぶらりんの若さを目にした。奔放に遊び、時に羽目を外す。それが学生の醍醐味だとは思う。けれど目の前を通り過ぎながら自分を何度も見つめてくる女子学生の視線を浴びると、昔は気にもしていなかったはずなのに、どうしてか今は嫌な感じすら受けた。彼女達が男を意識し過ぎているせいと、なにより彼らとは違うものとして認識されている感じのせいだと気付いた。
 自分だって大学を卒業したのはたかが数年前。自分の恋人が同じ学生であることも考えれば、そう遠い存在にも思えないのだけれども。目の前を過ぎ行く姿を追いながら、敦之は思った。そう。でも本当は、すでに自分が彼らの気持ちと遠くかけ離れているのも知ってるし、同時に、彼らにとっても敦之は違う人種なのだということもわかっている。ただそれを認めたくないだけ。女がいつもこうやって男を眺めていると思うのが嫌なだけ。
 つまり梨古も一歩大学という枠に入ってしまえば自分とは遠い存在だっていう可能性がないわけじゃない…敦之は口を固く結んだ。俺は梨古の何を知ってる? 梨古は相変わらず、自分のことは聞くまで話さないし、こちらのことも一向に聞く気配がない。お互いの身の上を知ることが重要なわけではないけれど、なぜだか得体の知れない不安にかられることがあるのも事実。大事なことを知らずに、伝えたいことを伝えられない。捕まえようにも確かなものは何もなくて、会った時にただ思いを遂げるだけ。こんなこと俺には……再び学生達が横切り、敦之はぞろぞろと歩き出してくるその建物を見上げた。もっと彼女たちのことを知ったほうがいいのだろうか。あそこへ行けばもっとわかるんだろうか? そして一歩校舎の方へと近づいた。

 ――ああそうか。

 敦之は出しかけた足を止めた。知りたいのは彼女であって、彼女タチではないんだ。つまりここにいたって意味がない。ふっと笑うと、もう帰ろうと思った。こんな所にいたって梨古の何がわかるわけじゃない。ところがふいに、だったら梨古の部屋に行けばいいと思いついた。寄っていくかと聞かれたこともない彼女の城。そこに行けばこの馬鹿みたいな妄想に別れを告げられるかもしれない。そう思うとすぐに学内を出て、最寄の駅へと向かっていた……。
 …それで? それで満足か? 敦之は自分に問いただした。けれど回想が現在と繋がった今も、数分前と気持ちは変わっていないことしかはっきりしなかった。
 家に押しかけたり、梨古の何も知らないと言ってみたり。本当は入るのが怖いくせに、でも少しは自分の存在を見せ付けられるかもなんて。うんざりする側からうんざりさせる側へ、華麗なる転身を遂げてまで自分は梨古の何を知ろうというのだと戸惑った。敦之の中で渦巻く疑問は全て帰結している気がするのに、どうしてもその行き着いた先が見えない。第一知ってどうなるんだ。本当は違う目的があるんじゃないのか。ぐるぐると変わる思考の中で、敦之はいつしか後悔に似た感情を浮かべていた。

 ――それでもやっぱり、梨古のテリトリーに入ってみたい。

 淡くて高い空に向かってぷうと煙を吐き出す。俺は答えが欲しい。
 女なんて欲を満たす道具か暇つぶしと思っていた過去の自分が、踏み込み踏み込まれるのを恐れたプライベートに目を開こうとしていると知ったら、どれだけ驚くだろう。こうして梨古の部屋へ向かっている今でも、逡巡しているというのに。引き返すことも出来ずに黙々と歩き続けている自分がおかしくて、それなのに敦之は自分が人間らしくなったのかななどと嬉しくもあった。


 ようやくたどり着いた城は堅牢で、美しい姫君をその強固な門の内にしっかりと閉じ込め、見栄えのする衛兵が武器鋭く入り口を固めていた。

 絡みつくイバラに閉じ込められて、城の中の姫と同じく100年の眠りにつくニセの王子。ここにある入り口は実はとてつもない審判の門で、目が覚めれば王子を騙ったかどで裁かれる運命にある――。マンションのゲートを見上げて、くだらないことを空想した。足が止まっているのに気付いて、すぐに入る必要なんかないと言い訳してみる。新しいタバコを取り出しながら扉脇の壁にもたれて、でも考えてみればいるのかいないのかも確かめないで来てしまったし、部屋の番号なんて知らないのだから、どっちにしろ中に入れないよなと考え直した。いつまでこうしているかなんて、どうでもよかった。
 そんな風にやや緊張した面持ちで過ごす数十分は、少々滑稽だったかもしれない。何の前触れもなくふらりとどこかから現れた運命の女神は、何をするわけでもなく1人入り口に佇む敦之を見て、少し眉を吊り上げた。しかし、彼女がしたのはそれだけだった。敦之が気が付いて顔を上げた時には、立ち止まってこちらを見ているだけだった。
「時には巡り合わせを信じてもいいのかもね」
 梨古の第一声に、敦之は妙な親しみを感じて少しホッとした。
「これはお姫様。お待ちしてましたよ」
「あなた、歩いて来たの」
 梨古が辺りを見回す。
「ああ、車はない」
「…そう。ないんだ」
 梨古は楽しそうな表情へと変わった。まさかわざわざ歩いて来たとは思われないように、敦之は出来るだけさりげなく聞いた。
「それがどうかした?」
「さあ」
 そして唐突に梨古は訴えた。「ねえ笑って」
「何を?」
 敦之は辺りを見回したが梨古は首を振る。
「そうじゃなくて、ただいつもみたいにニヤって」
「ニヤ、はないだろ」
「いいから」
 何か言い返そうと開きかけた敦之の口が、すぐに梨古の指で押さえられた。たったそれだけで言葉を失っている。「いいから」。冷たく細い指の隙間から魂が抜け出ていきそうで、消えた言葉の代わりに湧きあがる感情に耐え切れずに、その場で梨古をつかまえるとキスをした。もう何度となくしたはずなのに、それは信じられないほど切ないように感じた。
「これじゃ駄目か?」
 こうして見つめているだけで、世界がそこだけ切り取られたように虚ろに見える。なんでもいいから梨古が欲しいと思った。すると彼女は開錠キーを差し込んで扉を開ける。自分がそう口にしてしまったのではと、敦之は口元を押さえた。2人とも黙ったまま中へ入り、エレベーターが待っていたように開いた。現実を思い出してしまえばこのまま突き進むか迷ってしまうから、忘れるために梨古にもう一度口づけようとした。けれど梨古は敦之をするりとかわして、今度は自分が何をしていたかを話し始めた。
「ねえ聞いて、私さっき、幽霊を見たの」
「幽霊?」
「そう。会ったのはほんのちょっとの時間だけ、パッと出てパッと消えちゃった」
 エレベーターという小さな空間のほんの数十秒の世界の中でも、梨古はあっという間に女王として君臨してしまう。幽霊というのは抽象的な例えなのかオカルトとして話しているのか、どっちつかずのままそれでも、敦之は魔の歌声のような声の響きに聞き入った。梨古は反芻するようにゆっくりと話し続けた。
「変なのよ、ぼんやり考え事をしていて――振り返ったら彼がそこにいたの。会ったことも話したこともない人なのに、笑顔がね、敦之に似てた。それだけで、とり憑かれたみたいに夢中で喋りかけちゃった。彼もね、そんな私を嫌がらずに応えてくれたの」
 少々苛ついている自分に気がついた。そんな話今は聞きたくない。幽霊なんかどうでもいい。なのにこの自分を魅了して止まない彼女の小さな手が、自分の手をしっかりと絡めとって、フロアに到着した音を合図に自ら切り開いた部屋への道をエスコートしてゆくと、会話を止められるのが怖かった。

 気付いてる? 俺が初めて部屋へ行くってこと。

 でも最後の砦であるドアの内側に入ると、敦之の意識は薄れ、目には何も映らなくなった。梨古の体を奪うことばかりが頭を駆け巡って、無意識に意識を飲み込んでゆく。微かに震えている体。敦之の愛撫に応えて冷たく海草のように絡みつかれた腕、吹きかかるブリザードの吐息と挑戦的な瞳。恐ろしくもあり命令的でもあるそれらは敦之を狂わせようと更に深みへ連れて行く。首まで浸っても許されないのならお望み通り溺れ死んでみせましょうとシーツの海へ沈み込むと、きちんとベッドメイクされた清潔な白いカバーに広がった髪が、水に浮く人のように揺らめいた。
「今思うと不思議だわ。私、なんであんなこと言ったのか…――」
 幻より、目の前の男は?
「でもね、多分」
「続きは、後で」
 聞くのが怖かったのか、テリトリーを意識したくなかったのか。深い深い海の底に落ち込んで、相手の満足と見せかけた自己満足に溺れた。


 ベランダとも言えないほど小さな張り出し部分で、敦之はタバコを取り出した。部屋の中にいても手すりにもたれられるほど狭い。たかが数階の高さでたいした景色もへったくれもない外を眺めながら、ぼうっとした余韻のまま、すでに暗くなった空にひたすら消えていく煙を吐き出していく。
 しばらくすると、シャワーを浴びて白いバスローブを引っ掛けてきた梨古が、コーヒーの香りと電灯のスイッチを入れる音をさせた。その時初めて敦之は、自分が梨古の部屋に来てただぼうっとしていただけなことを思い出した。

 気づいてしまったら、意識しないわけにもいくまい?

 敦之がため息混じりに体を向けると、狭いながらも1DKの部屋の、無駄のない様子が窺えた。すっきりとした家具は色のない壁に溶け込んでいる。趣味を語るようなものは置かれていない。持ち主の感情が見えない。『無機質な白い部屋』。敦之はなんだかわからない苛立ちを再び覚えた。
 梨古が2人分のコーヒーマグをサイドテーブルに置いた。
「あの話の続き、聞きたくなあい?」
「あの話って」
 そう言った敦之に梨古が視線を向けた。初めて梨古に会った時も、目を逸らすことなく自分の強い感情をぶつけてきた彼女に驚いたものだ。敦之を蔑み、あなたなんかを好きになったりはしない。そう強く言われて「そんな馬鹿な」という気持ちの陰で、知らぬうちショックを受けていた自分。今でも時々そのことを思い返す。そんな弱味、見せるものか。敦之は左手の灰皿に灰を落としながら堂々と視線をぶつけた。
「今日、ちょっと素敵な人を見たっていう話よ」
「その話ね」
 いつから素敵な人間の話に変わったんだろう。ぼんやりと受け答えしながらも少し、顔をしかめていたのかもしれない。梨古は敦之のその表情をすぐに読み取ると、笑みを浮かべてポケットに手を入れた。敦之は会話の流れを無視して部屋の感想を述べた。
「ここの家具、随分いいものを使ってるじゃないか。このベッドにしたって」
「これ? そうね。伯母が、ショップを開いてるから」
「インテリアの?」
「そう。だからもらったの。他にも色々」
「ふうん…。じゃあこの部屋は? 学生にしちゃ広いんじゃない」
「そうかもね」
「リコはどうして、俺に何も―――」
「あのステキな彼、私になんて言ったと思う」
 急に話を蒸し返されて、返答に詰まった。幽霊なんて言ったって、結局人間の男だろ? 気を落ち着かせるために間をおくと、最後の煙を吐く。何をほのめかしてるんだよ。それとも俺の忍耐力を試したいわけ。タバコを灰皿に押し付けると、覚悟を決めてベランダから中に入った。手に持った邪魔なものを置くと、梨古に近づいていく。
「なんだって、その幽霊さんとやらは」
 バスローブの柔らかい肩に顎を乗せて目を閉じた。外気を浴びて冷えた自分の体に包まれるボディソープのいい香りがめまいをおこさせる。今日何度目だろう、俺は一体何をしにここへ。
「面白かったわ。『また近いうちにお会いしましょう』ですって」
 苛々と心の中で反駁する。それのどこが面白いんだ。また会おう。普通だな。敦之は不機嫌に言った。「それってナンパ?」
 梨古を抱きしめる手に、ぐっと力が入っていた。腕の中で反応している彼女を感じとれる。ほら、まただ。敦之はかつて経験のないほどつまらない気持ちに占領されている自分を嫌悪した。
「いいえ、私から声をかけたのよ」
「――そう」
 耐え切れず敦之は梨古を離してベッドに腰掛けた。カーテンを閉めてこちらをじっと見下ろす梨古の瞳は、猫のように収縮して世界を格付けている。視野の隅には自分がいる? 敦之は思わず顔をそらした。
「あんまり見るな」
「どうして? どうしてそんなに嫌がるの? 何を恐れているの?」
「べつに」
 すると梨古は、再び敦之をじっと見つめた。本当に何しにここへ来たんだろう。敦之が迷っているとその正面に梨古が立った。
「知ってる? そういうの何て言うか」
「なんだよ」
 いずれにせよ幽霊は逆ナン(?)なんだろ、と問い返した。でも答えは思いもかけないもので、思わずドキッとした。
「嫉妬」
「――…」
 敦之が何も答えずにいると、梨古はニヤニヤと笑っている。
「どう? 似てるでしょ。この笑い方」
「――似てないね」
 自分が赤くなっていないかだけが心配だった。なに、俺が、嫉妬?
「自信あるんだけどな」
 一体何を指してそういってるのか聞くのはやめておいた。それでも、何を求めてここへやって来たかはようやくわかったつもりだった。
「俺は〈幽霊の君〉なんて眼中にないし、お前が何を考えてるかわからなかっただけだよ」
「教えてあげる。敦之はここにいる。私もここ。だったらあなたがその手を伸ばせばいい。そうすれば私はあなたに届く」
 敦之ははっと目を開いた。梨古の部屋。梨古の過去。梨古の思い出。梨古の生活。全ての詰まったこの部屋を支配してるのは梨古。だが梨古の代わりに語れるものは梨古以外ないから。大学なんかをぶらつかなくたって梨古と通じ合えるし、部屋に入ることはなんでもない。ここは梨古のテリトリーなんかじゃなかった。
「敦之が思う程私は冷静じゃないし、ここにあなたが来たことを意識してないわけでもない。でもそれは、私の部屋にいるからじゃない。私のすぐそばにいるから。敦之がいなければ幽霊の君なんてどうでも良かったし、私が好きなのはあなたで、あなたがいればそれでいいと思うもの」
 ああ、こうまで見透かされると言い返せないな。
 随分時間がかかったけど、敦之にはわかった。単に、近づきたかっただけ。この部屋に来たのは梨古に近づきたかったから。でもどこでだって梨古の内側に入ることは可能で、それを自分が拒みさえしなければいい。それだけのことだったのに。敦之は亡霊なんかくそ食らえ、と顔をあげた。
 小さく微笑む梨古に、敦之は同じような笑みを返した。自分に向かって右腕を差し出す梨古の手が、不安げに揺れている。それを見て、なんだ自分だけじゃないのかとひどく安堵した。
 そう。この手を伸ばせばいい。この左手を伸ばしさえすれば。
 敦之はようやく落ち着きを取り戻すと、今度はしっかりとその腕を引いた。梨古にこの手の届く範囲が俺が生きるのに必要な空間。この手の届く距離にいることが俺の願い。くすぐる髪に鼻を押し付けて、小さなテリトリーを抱きしめる。思っていたよりも、近かったんだな。

 俺は届く。お前に届く。
「ここが俺のテリトリーだから」

Fin

対のお話、読んでみる?