水鏡


 義彬(よしあきら)の手に握られたひと振りの刀は重々しく垂れ下がり、その切っ先は紅い雫をこぼした。
 手も、顔も、体もずぶ濡れている。ただ女のもとへ通うだけの時、具足もつけていない。着物が闇夜にまぎれて冷たく湿っているのを感じる余裕もなく、昂りに任せて川縁を下った。辺りは虫の音と川の寒々とした流れ以外、何も存在せぬかのようであった。薄い群雲に覆われても隠しきれない光を発するまろい月が、木立の隙間から草ずれのする夜道や川面を照らし始めた。
 たった今、義彬は人を切った。
 いくさ場以外の感情で人を切ったのは、年若い義彬には初めてのことだ。
 旅姿でいずくかへ発とうとしている女を見たら、考える間もなく抜いた。まるで火花のように生命をまき散らしながら色を失ってゆく体は艶やかでさえあって。それほど義彬の一刀には恨みがこもっており、悲しみの力がこもっていた。ひと太刀で、女は息絶えた。でありながらも、振り仰いで義彬を認めた女の顔は慈愛と覚悟に満ちていた。たぶん、どうして己が義彬に殺されねばならぬか悟り諦めたのだろう。女はいわゆる“草”であったのだから。
 逸る気持ちのままに早足で過ぎる義彬の目は、己で切ったくせに己が信じられぬとでも言うように震え、どうと倒れたその顔が静かな笑みに満ちていたのを思い出すと何も見えなくなる。まだ握りしめたままの腰刀を拭うことも仕舞うこともせず、繰り返し繰り返し切った瞬間を思い出しているのは、記憶がひどく鮮明なくせにどこか曖昧だからだ。顔にこびりついた紅は既に乾いて頬を引きつらせてる。素襖の裾がもつれるようにくるぶしにまとわりつく。
 世には“歩き巫女”などという集団もいるそうだが、その女も似たようなものだろう。いずくから来たどこの誰とも知れぬ者。義彬に近づき情報を流す間諜。そもはお館様に近づくため放たれたものだったのやもしれないが、義彬とてお館様のご信望も厚い優れた武将、まだ若く経験は少ないがめきめきと実力をつけている。その彼がかの女を見初めたと知り、矛先を変えたのかもしれない。義彬と思いを通ずるようになって半とせ。女はすっかり義彬を虜にし、反対されたとてゆくゆくは妻にする腹づもりさえ義彬に抱かせていた。
 ところが。同じ頃からどうもわが国や城の情勢が筒抜けになっている節があると思われるようになった。始めは疑りもしていなかったこととて、長引けば次第に変わってくる。女の全てが義彬の心中に曇り無く映り何もかも解していたつもりだったはずなのに、ふと違う目で見てみれば何一つ解していない気がしてならない。そういった義彬の疑心を女も感じたのか、ここひと月ほどで女の様子も変わり、用心深い目つきをすると思えば妙に甲斐甲斐しく尽くしたりと、義彬に隠し事をしている気配も募る。
 まさかに。ひと度疑い始めれば、どうにもそうとしか思われぬようになる。
 であるならば……義彬は責めを負わねばならぬ。
 女にうつつをぬかし、籠絡され重要事を漏らしていたとあってはとうてい許されぬ。知らなかった、では済まされぬ。
 そうであるのか。そうで。義憤とも悔恨ともつかない感情がさまざまに女の顔の裏側を想像させる。
 どうするつもりだったのだと今ながらに問うと、義彬は眉間に皺を寄せた。
 とかく会って、女をつらまえて、問い質すのが先決であった。その先のことまでは……思い至らずとも、とかく女に会うべきだとは思った。そうして急いた気持ちでいつもと異なる時に訪のうてみれば、かの女は夜更けに旅装束でまさにこの地を出んとしていたのだった。その瞬間義彬の頭にはカッと血がのぼっていた。意識が戻った時には女は事切れていた。義彬は叫びたい衝動を抑えるように、ただその足で道を駆けた。


 ギョッとたたらを踏む。
 突如、行く先にこんもりとした黒いものが道を塞いでいることに気づいた。
 それは女物の着物をまとっていて、それがまるで血しぶきに染まった紅い着物に見える。
 一瞬、あの女に見えて、背なにぶわりと脂汗が滲んだ。
 まさか、まさか。
 ――いや、そのようなわけがあるはずない。
「怪(あやし)か」
 義彬はすぐにもののふの胆力を取り戻そうと声にする。でなければ狂い出してしまいそうなほど女の最期の顔がちらつくのを追い払えない。
 声にし、手にしていた腰刀を構える。刃にぎらりと月が映った。それは禍々しい紅い月であった。血塗れの己ともども妖物の類いを寄せ付けるに相応しいものに思えた。すぐにでも切り捨ててしまいたいほど、義彬の体は強ばった。
「……ねね様」
 その声は――ただの女の童であった。昂りをやり過ごし見極めれば、幼子が刀にやや怯えたように身をすくませている。義彬の臓腑が激しく動いている。
「ねね様?」
 未だ用心するように目を細め、なおも童を見やった。猜疑心でふくれていた心はなまなかにはおさまらず、女が事切れていなかった可能性を模索する。いや、それはない。化けて出たという可能性も、ない。
「…ねね様。この先に住んでる、きれいなチヨねえ様。ちよも“チヨ”って言うの。同じ名前なの」
 再び、義彬の胸に黒いわだかまりが渦を巻いた。それはまさに、あの女のことに他ならなかった。柄を握る手に力がこもり、虚ろになりそうなほど憎悪が沸く。
「その千代が、どうした」
「ねね様と、会いたい」
「かような時刻にか」
「ねね様、もう会えないって言ったけど、ちよはねね様が好き。ねね様は、月をつかまえることができるの」
 幼子の要領を得ない言葉に惑いつつも、義彬はじっくりと考えを巡らせる。この女の童はどうやら千代を見知っているらしい。今時分に幼子が出歩くのは奇妙に思えるが、怪であるならばとうに霊取られておるだろう。義彬は確信した。この者は千代をかなり知っておる人の子じゃ。おまけに千代の秘密も知っているやもしれぬ。幼きちよとやらは『ねね様、もう会えないって』と断言した。千代は役目を終えてどこかへ逃げるつもりで、それをこの幼子にもらしていた。それほどに、幼子には油断していたのだ。だが同時に千代は事をなし終えていたという証でもある。となれば、どこがいつ戦を仕掛けてくるのやもわからぬ。もしこの幼子が何か知っているのならば聞き出さねば――義彬は知らず殺気を放つ。鋭敏な子供は再び身をすくませて、義彬は気をやるのに神経を遣う。
「正直に話せば何もせぬ。お前はここへ何しに来たのだ」
「今日は満ち月だから、ちよも月をつかまえに来たの。ちよもねね様と同じようにつかまえたい」
「……月、とは」
「お空の月。水の面に映る、お空のお月様、ねね様はつかまえたり、飲み込んだり、戻したりできたの。本当よ」
 それは忍術、はたまた妖術や呪術の類いなのか。夢でも見たのではないかと思うたが、童は真剣に訴えた。はたして幼子がいったい何を見たのか義彬は気になった。
「どのようにするのだ、それは」
「ねね様はね」
 ちよが急に川の中に飛び込もうとしたので、義彬は慌ててその体を拾った。
「何をしてる!」
「だって、お月様をつかまえなくちゃ」
 まさか本当に水の中に入って捕まえるとは思わなかった。義彬はじたばたとする童に「大人しくせぬか」と強面になった。ちよが泣きそうな顔をしているので、義彬は少しく悔いた気分になり「わしがする」とそっとおろし、ざんぶりと足を水に入れた。ちらりとちよを見遣ったが、逃げる気配はないようで、触れてみた感触も人であったことからようやく刀を納めることにした。ついで刃を洗おうかとも思ったが、いずれにせよこれはもう駄目だろうと諦めて、そのまま鞘へ押し込んだ。
 冷たい水の感触にようやく心持ちが落ち着いたような気がして、義彬はやや柔い声音で問うた。
「どうすればよいのだ」
「手でお月様をすくうの。そうすると、水の面から手桶の水にお月様が移ってるの」
「……」
 そのようなことができるのか。不可思議ではあったがとりあえず義彬は川面に映る月影をざばりと両の手のひらですくった。もちろん手水に月が飛び移るということなどあるはずもなく、月影はただ先ほどと同じ場所でさざ波の中にその身を映していた。もう一度同じことを繰り返す。手のひらは冷たい水をすくうばかりで、月はあざ笑うかのように川面に揺れている。義彬は黙ってちよを見、手にすくったただの水を見せた。ちよは違う違うと駄々をこねた。
「ねね様は、そうっとすくって、持ち上げたの。乱暴にしちゃだめ」
 義彬には徐々に面倒な気持ちが募って、いったいわしはこのような所で何をしているのだという苛立ちが起こり始めた。千代と接点のあった女の童に問うべきはかような月の捕まえ方などではない。義彬は胸の苦しみを思い出し、泣きたくなった。千代、千代。なぜそなたが。わしは本気で好いておったのに、そなたは。乱暴に水を撒くと、義彬はちよを睨んだ。
 ちよが、怯えたように呟いた。
「宝物持っていないの? ねね様は、大事な宝物が手に入ったから、お月様がつかまえられるって」
「――宝」
 その言葉に再び胸がわしづかまれる。それはつまり、何か重要な情報なり何かが手に入ったということ。いったいいつ、どこで。義彬の目に、えも言われぬ苦渋の色が現れる。
「宝、とは」
「ねね様は宝物が手に入ったから、そのせいで遠くへ行かないといけないって。その時お月様のつかまえ方を教えてくれたの。お月様は満ち足りるとつかまえられますって、ねね様は言ったもの」
「つまり、」
 義彬は両の拳を固くすると、口を強く結ぶ。つまり、事を成し遂げた千代にとって、それは道真の望月の歌みたいなものなのだろう。充分に満たされており、喜びと栄華に満ちあふれているという、傲慢だけ。義彬をたばかったことに一片の曇りもない。一片の後悔もない……。
「千代が言ったのはそれだけか」
「ねね様と会えないのはさむしいって、ちよは言ったの。そしたら、ねね様もよって。だけどどうしてもねね様は遠くに行かないといけないからお別れですって。宝物があるからここにはいられないのですって。それはどんな宝なのってねね様に聞いたら、ねね様はお月様みたいなものだって」
 千代というのを例の女のつもりで問うたのだが、ちよは己のことだと思ったようだ。他に問うべきかと制しかけたが、ちよは弾けたように脈絡なく話しており、それは義彬の口をつぐませた。つぐませ、目の前を昏くした。まるで今先ほどまで空に浮かび水の面に浮かんでいたまろい月が消えてしまったかのように。義彬の周りからは光が消え、本当に失ってしまったのだと、水に入ったままの体に凍り付くような痛みが広がったのだった。義彬は今度こそ泣いていた。溢れる涙は頬にこびりついた血を流してはくれなかった。
「本当はすごくさむしいけど、お月様が手に入ったからねね様は嬉しかったのですって。ちよも嬉しくなりたい、ちよ1人じゃお月様はつかまえられないから、ちよも宝物が欲しいってお願いしたら、ちよにはまだ早い。ちよも大きくなったら手に入るってねね様が言ったの。ちよも今すぐほしいってお願いしたら、お月様をつかまえられるようになったらね、って。だからちよはこうして月をつかまえに来てるの。今日は満ち月だから、つかまえられたらねね様より早く嬉しくなれるでしょう。だってねね様がお月様をつかまえた時は、お空のお月様がまだ小さい時だったもの。だからねね様が飲み込んだお月様はまだ小さかったけど、ちょっとずつ大きくなってるのよ。ねね様の中にはお月様が入っているのですって。お月様は飲み込んでもまた新しいのが生まれてくるから、お空から消えたりしないの。時が満ちて月が10回満ちたら、ねね様の中からは新しいお月様が出てくるのよ。玉のようなお月様が出て来て、ねね様をもっと嬉しくしてくれるの。だからさむしくてもねね様は遠くで生きてけるのですって。本当は、ずっとここにいたいけれど、ねね様がお月様をつかまえたって知ったら、みんな怒るからないしょで行かないといけないの。ねね様は多くを望んではいけないのよ、分はわきまえないとねってちよに教えてくれたもの。よくねね様はここで早くお月様に会いたい会いたいってお腹をさすっていたの。お月様はお腹の中でどんどん大きくなるんですって。ちよもお月様が欲しい。お月様をつかまえたい」
 義彬の体が、ずぶと川の中に沈み込んだ。
 手のひらですくった水には何も映っておらず、口に含んでも満ちたりはしなかった。
 水の面は揺れ月影を消し、千代が永遠に月を持ち去ってしまったことを告げるのみだった。



Fin

●霞様ver.『月映 -げつえい-』
●MIYAKOver.企画TOP

novela 【見知らぬあなた】エントリー作品