ベツレヘムの星 前編

※注意:「君は無口」シリーズに関するネタバレを含んでいます



 『マタイによる福音書』2章1−16節より

 ひときわ輝く大きな星を見た東方の3人のマギが、ヘロデ王のもとへ赴き訊ねた。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」
 ヘロデ王は自分以外の王の誕生に動揺した。そこで密かにその子がどこで生まれるか学者たちに調べさせた。それはベツレヘムであった。ヘロデ王は幼子を見つけたら知らせるようにとだけ3人に言った。
 3人が出発すると、かの星が再び現われ、彼らを導いた。それはイエスのいる場所で止まった。
 3人はマリアとイエスを見てひれ伏し、黄金・乳香・没薬の3つを贈り物として捧げた。
 3人のマギたちは夢のお告げによってヘロデ王の元へは帰らず、別の道から帰路についた。また父の見た夢のお告げによりイエスらはヘロデ王の難から逃れた。
 3人に騙されたと知ったヘロデ王は非常に怒って、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。


1−12節 『東方の三博士』
13−23節 『エジプト逃亡とナザレでの生活』

黄金…貧窮のため。王権の象徴 与えられるためなら何でも容れる
乳香…馬小屋の悪臭のため。神性の象徴 神への供物 礼拝の契約
没薬(もつやく)…未来の受難、死の予兆 肉欲の否定 御体の永遠性

◆ ◆ ◆


「ねえ、孝兄ぃ〜」
 甘ったれた声で受験勉強中の次男・孝明(たかあき)の部屋を訪れたのは、倉本家3兄弟末っ子の悠也(ゆうや)だ。誰の遺伝なんだか少し色素の薄い目を眠たげにして、変てこな格好で呑気に寝起きぶりをアピールしている。自分は大学附属の私立高校なもんだから、来年高3になっても受験は無縁とでも思っているのか。国立大を目指している都立高校3年生の孝明にとっては、「生意気」の一言で片付けたいことだった。でも孝明は無言で悠也を見ただけだった。
「今年のクリスマスは、どっか行かないの」
 …寝起きのくせに
 孝明は呪詛を唱える。同い年の彼女も当然受験生で、今2人とも追い込みの真っ最中。呑気にクリスマスの予定を立てるほど暇じゃない。それに――
「お前うるさい。あっち行け」
「あ、喧嘩でもした?」
 っ――思わず顔に出てしまうほど、悠也は妙に勘の鋭い人間なのが忌々しい。そうなのだ。確かに孝明は彼女と喧嘩中だ。喧嘩というか、見ようによっては…よらなくても、もしかしたらとてもヤバイ状況。
 けれど、孝明はいざとなったらなりふり構わずに取り返す気でいる。そもそも悠也なんかには関係ないと思っている。だから孝明は問題集に再び目を落とした。
 が、その背中で「出てけ」と語る威圧感を悠也は軽く無視した。
「あのさあ。孝兄はちょっとストイックっていうか、自分で何とかできることは他人も何とかできるって思ってるところありありだけど、修正は早いに越したことはないんだよ」
「お前に言われたくねえし」
 シャーペンの手を動かしながら孝明がぶっきらぼうに言っても、悠也はまだ出て行こうとしない。
「僕はほら、三男だから」
「…はあ?」
 時々、悠也という弟は自分の半年分くらい先の世界を歩いているんじゃないかと怖くなることがある。タイプの違う兄を2人持つ人間というのは、こういうものなのか。孝明はうんざりとしながらもはっきり教えてやる方がいいと判断した。
「お前先週末も帰ってこなかったろ。俺受験生なわけ。母親宥めてる暇ないんだけど」
 遊んでばかりで本命を作らないどころか、本気にならないことが正しい恋愛と信じている長男・敦之(のぶゆき)みたいなのが家に2人もいたら、とばっちりが家に残ってる息子に回ってくるのは当然だ。
「あんま朝帰りばっかしてっと下半身腐るし」
「別に。遊びまわってるわけじゃないよ」
「えっ、じゃマジカノ!?」
 突然孝明は悠也を振り返ると、急に興味を持ったように早口でまくし立てた。
「マジで!? 遊びじゃなくて? 誰と付き合ってんの」
「どうでもいいでしょ」
 今度は素直に出て行こうとする悠也を孝明は慌ててつかまえる。
「ちょっ…と待てって。だってさ、あんなにしょっちゅう泊まりできるって、タメとかじゃ難しいよな。それとも何かあんの。一体どういう相手だよ。うわーやべぇ、すっげぇ気になる。どこで知り合ったの。お前バイトしてたっけ。合コン? お前がマジって、本当?」
 先ほどとは打って変わったような孝明に面倒くさそうに目を細めると、悠也は「人のことより自分の心配しなよ」と呟いた。「繊細な人なんだからさ。美人だし。あんま放っておくと、誰かにとられるよ」
「……」
 痛いところを突かれて、孝明は思わず口篭る。本当に、コイツ俺らのこと盗み見てんじゃねえの? と疑りの目で見る。
「会えなくっても、プレゼントくらい用意しといた方がいいと思うけど」
「言われなくても、するよ」
 あっという間に口数の減った孝明に悠也はにんまりすると、それじゃあ頑張って下さいと心にもないことを言って出て行った。孝明はその後姿を苦々しく見た。
(何しに来たんだ)
 憮然と、そして彼女とのすれ違いにむくれながら机に戻る。
(プレゼントなんて、とっくにもう、買ってるよ)
 引き出しを開ければ、綺麗な金色のキーリングが、鍵をつけられるのを待っている。
 吐いた溜め息がいやに大きく聞こえて、もう一度息を吐いた。

◆ ◆ ◆


 孝明の部屋をいまだ寝ぼけ眼のままで出た悠也は、仕事が休みの日でも、自分よりもさらに妙ちくりんな時間に帰宅する長兄・敦之の姿を目にして、ふわふわと近寄っていった。
「長男って意外にラフでもいいもんなんだね」
「ただいまユウ。お前は相変わらず自由だな」
 この噛み合っていないようで互いには理解してるかもしれない挨拶を交わし終えると、悠也は今度は敦之を追った。敦之が玄関に1番近い自室に入る後ろを当然のようについていき、クローゼットを開けているのをぼうっとした目で見上げながら、主よりも先にベッドに転がる。
「ねえ、敦兄はさあ、欲しいものとかってないの」
「別に」
 さすがに孝明よりも6年長く生きてきて社会人としての経験も積んでいるだけあって、敦之は核心を突かれても簡単には動じなかった。
 引き締まった大人の体を見せつけるように着てるものを脱ぐと、先ほどとは全く違うラフな服をぱっとまとう。その口は面白そうに歪んでいる。
「欲しいものなんて幾らでも手に入るし、手に入りすぎていらないくらい」
「疲れない? 本当はいらない物ばかりの生活なんて」
「悠也。俺お前が何の話してるかわかんない」
 本当に逃げるのが上手いな、とは悠也は口にしなかった。ただ、この長兄は次兄よりかは遥かにすれていて、遥かに歪んだ考えの持ち主だったことを思い出しただけだった。悠也は7つ年上の兄の背中を眺めた。
「敦兄に好きな人ができたら、どんな風になるのかな」
「俺? 俺にはいっぱい好きな人がいるよ。だからこれからまたその1人と会いに行くんだけど」
「わかってると思うけど僕が言ってるのはさ、好きにできる相手のことじゃないよ。恋愛感情を抱く人のことだよ。いつの日か、敦兄が好きすぎてみっともないことするくらいの人が現れてくれればいいんだけど。そしたら僕はその人に会って『幸せにしてあげて』とかなんとか言ってあげるのに」
「随分小さい夢だな」
 敦之はニヤニヤとしながら時計も付け替える。念の入ったことだと悠也は思う。それが妙にカチンときた。
「俺はね」
 突然目が覚めたように鋭い目つきになりながら――その時は必ず“僕”から“俺”となる――悠也は起き上がって言った。
「早く大人になりたいよ。自分に力がないことがこんなにもどかしいなんて思ったことなかった。だからその権利を得ているくせして無駄遣いしかしない人間を見ると、頭にくるんだよ」
 普段はとろんとしたいい子ぶってるくせに、時々こうした一面を見せる。末弟の苦労性的な一面を感じ取った敦之は、少し眉を寄せて言葉を受け止める。敦之は孝明のことも悠也のことも良く理解して可愛がってるつもりだったが、悠也のこういう場面だけはとても苦手だと感じていた。つい本音が漏れた。
「…お前には関係ない」
「似たようなこと孝兄にも言われたよ。けどあの人は別の意味だった。あの人は自分に与えられた権利と義務を理解して、その範囲内で精一杯のことをしようとする。けれど敦兄はその権利を捨てるふりして、義務を放棄しているだけ。全然意味が違う。そんなにいらないんだったら俺に頂戴よ」
「お前、何焦ってんの」
「敦兄には関係ない、…だろ?」
 挑戦的な悠也の瞳に、敦之は軽く感情を濁す。悠也を叱り飛ばすほどこっちもガキじゃない。敦之は少しだけ目を閉じて、開けた時にはいつものふざけたニヤけ顔に戻っていた。
「なあ悠也。これは俺だけのゲームじゃないんだよ。相手もあることだ。俺だけが義務を放棄してるわけじゃないんだって。確かに俺は自分の権利を無駄遣いしてるのかもな。でもその代わりに、欲しがったりしない。な? 俺だってちゃんと理解してるだろ。そもそもそんなことを言うってことはユウ、お前が」
 まだ敦之をじっと見つめたままの悠也に近づいて、敦之はことさらふざけた調子でそのおでこを小突いた。ふうわりと、敦之から香水の香りが漂った。
「年上の、それも大人に恋してるってことだ。だろ?」
「……」
 悠也は何も返答しなかった。顔色1つ変えなかった。内心苦笑しながら敦之はじゃあ俺は出かけるから、と笑顔で出て行った。悠也は1人になった後もなお、まだどこか遠くを見つめていた。近づいた時に嗅ぎ取った香りが、微かに鼻腔をついている。その匂いが胸の奥深くまで達した時初めて、悠也は本音を表した。
 反抗的な――子供っぽい苛立ち。
 香りを弾き出すように、悠也は毒づいた。
「下半身、腐れ」

◆ ◆ ◆


(どうしてあいつ、自分が苛立ってる時に人の感情まで揺さぶろうとするんだろ)
 敦之は煙草を咥えながら疲れた顔を見せた。車を走らせて次の約束に向かいながら、考えるのはどうしても先ほどの悠也のことばかりである。
(八つ当たりするならともかく、人のことほじくりかえして間違い探し、みたいなことさ。自分は正しいのにお前が間違いを隠してるせいでイライラする、って言ってるようなもんだろ)
 珍しくぶちぶちした気分で、敦之は煙を吐く。窓から出した手に冷たい冬の空気がしがみついて、灰が後ろへ飛んでく。
 でも持ち前の明るさを発揮して、敦之は別の側面から先ほどの会見を捉えることにしてみた。そう、それなら楽しい。敦之はひとりにんまりとする。
(あいつ、秘密主義秘密主義と思ってたけど、年上の女か。相手は誰かな。担任だったりして)
 自分が高校の時はそんなイイ女いなかったよなと、当時を振り返る。悲しい哉、遊びが過ぎたせいか既に遠のいて久しいせいか、敦之には全く思い出せなかった。そうするうちに早くも待ち合わせの場所に着いた。今日の朝まで絡みつかれた女とは異なる、とても付き合いやすい女が所在なげに立っている。――奇しくも年上だ。敦之はニコニコと助手席のドアを内側から開けた。
「遅れた?」
「平気よ。どうせまた別の女と会ってたんでしょ」
「ヒドイ言いようだなあ。弟にからまれてて、遅くなったんだよ」
「まあいいわ」
 女はさっさと乗り込むと、綺麗な面立ちなのに化粧っけの少ない顔を敦之に傾けた。彼女は仕事の時は完全に隙のないメイクをするくせに、休みになるとこうして自然体でいるのが好きらしい。服装も普段からは想像もつかないカジュアルなものだった。だから敦之もそういう雰囲気に合わせるようにしている。
 とは言え、彼女の時計はショパールのなのだけれども。
「で? 弟に何をからまれてたって」
「変なとこに興味持つね。それって、本当に他の女のせいで遅れたんじゃないって確かめたいの」
「馬鹿ね、アタシがどういう人間か知ってるでしょ。倉本君が誰と何してようと全然構わないわよ。ただ『弟』なんて面白そうなキーワード出てきたから、興味持っただけ」
「ああ」
 このヒトはそうだった。敦之は密かに笑むと、車を発進させた。
「下の弟がさ、どうやら[なさぬ恋]にはまっちゃってるみたいで」
 くっくっと笑って言う。女はチラっとそんな敦之を見てから、髪をかきあげる。
「兄弟揃って馬鹿なの?」
 腕にあわせて動いた時計のダイアモンドがキラリと光った。円い文字盤の周りを星のように巡り回転する。
「違うよ。そんな気がしただけ。何だか知らないけどイラついてるみたいだし、大好きなお兄ちゃんに相談の1つでもしたかったんじゃないの」
「倉本君みたいな人に恋愛相談したって、何にも解決しないじゃない」
「意外だろうけど、他人のことに関してなら俺は結構まともだと思うよ。真ん中にもう一人いるけど、そいつは俺のところに時々来るし」
「ふうん」
 女はもう興味を失ったのか、遠い目をする。
「心配しなくても、俺はどっぷりはまったりしないよ」
「知ってる。困るのはこっちだもの」
「変わった人」
「君に言われたくないわ」
 赤信号で停まる。敦之は彼女のよく見ると見つかる小さな目じりの皺を綺麗だなと思いながら、じっと見つめる。彼女は敦之にとって非常に都合のいい女性で、夫や恋人なんて欲しくないけれど、時々遊んだり性欲は満たしたいという貴重な相手だった。[なさぬ恋]とまではいかないが、敦之にとって職場の上司ではある。だからといって彼女に取り入って仕事上の便宜を図ってもらおうとか何とかいう気持ちはない。それをお互いわかってて、お互い便利だと思っているからこうして時々会っている。それだけのことだ。
「あ、薬飲むの忘れてた」
「薬――?」
「そう」
「どうぞ」
 敦之はペットホルダーの飲み物の蓋を開けると、彼女に手渡した。ありがとうと言ってから彼女は何かしらの錠剤を口に含んだ。
「それ、何の薬」
「あら、気になるの」
「どっか具合悪いのかと思って」
「フフ――何だと思う?」
「…さあ」
「ピルよ」
「――ああ」
 敦之は深く考えないようにして返事した。彼女がそれを飲む理由があると考えるのは嫌だったから。
 でもたったそれだけの言葉からでも、鋭い彼女は気付いてしまう。
「あなたって面白いわね」
「何で」
「自分から逃げているものに、目を背けられない。勘違いしてるのよ。アタシはそんな女じゃないわ」
「それって――」
 その先の言葉は奪われた。彼女が敦之にキスをしたから。
 でも敦之は、それらを黙って受け入れる。
 その味は少しだけ、ほろ苦いような気がした。
 ようやく青信号に変わった。

◆ ◆ ◆


 倉本3兄弟の母である倉本百合子は拗ねていた。
 百合子は子供っぽい性分で時々我がまま言うことはあったが、息子たち3人に対してそこまで口うるさく説教したこともないし、余計な世話を焼いたりもしてないはずだと思っている。
 だが、三男の悠也の現状に関しては、どうにもこうにも心配でならない。
 悠也はこれまで特に苦労もかけない、何でも1人でさっさと決めてしまう大人びた子だった。時々妙に勘がいいなあとは思うけど、隠れてこそこそ悪いことをしたりしてるようには見えない。何よりもまず、建前を作らない子だなあと百合子は密かに自慢だったのだ。嘘を吐いたり、心にもないことを言ったり。正しいと思ったことだけ主張して、言わなくていいことは黙っている、だからごちゃごちゃと理論ばっかり並べ立てて言う人よりも、あの子の言うことは信じられる気がしてた。
 でも近頃、悠也には何か大きな隠し事がある気がしてならない。
 そりゃあもちろん、年頃の息子に隠し事の1つや2つ、あって当たり前だ。それを詮索しようなどという気はない。他人様に迷惑さえかけなければ、百合子は自由にさせるつもりでいる。ところが最近、いや去年の暮れ辺りから妙に外泊が増えた。外泊くらいと思うだろうけど、帰って来る時間が変だったり、やたら眠そうだったり、回数も半端ない。幾らなんでも高校生でそれは……とちょっと嫌な想像をしてしまうくらい。
 あの中に、女の子と外泊してる回数は何回あるのだろう。
 百合子だって外泊の全部が友達とじゃないことくらい想像できる。
 彼女がいることは別にいい。一緒に過ごしたいって気持ちも、まあしょうがないのかも。けど、節操ってものがある。
 まだ高校生じゃ、相手の親御さんだって心配するだろう。こういう時男の子の親よりも女の子の親の方が絶対心配している。それとも不特定多数だったりするのだろうか。万が一なんてことがあった時、どう考えたって責任の取れる年齢ではない。相手を泣かすことだけはするなとあれほど言っているのに、そこらへんは全部ちゃんと理解してくれてると思っていたけれど。
 息子ばかり3人も生んでしまった百合子は、子供たちは出来が良すぎると近所に触れ回りたいくらい自慢に思っていても、息子を持つ母親としての覚悟や責任感はきちんと持っている。それゆえ多くを語らない息子にちょっと不安になっていた。
 百合子はソファで寝ていたミニチュア・ピンシャー犬のミユウを膝に抱えると、至って真剣な面持ちで黙考を続けた。
(自由にさせすぎたかしら)
 いつだったかさすがに外泊の多さを咎め立てたら、悠也はプイとむくれて『悪いことは何もしてないよ』と言い返されたっけ。あれだって意外だった。いつも素直な子なのにと驚いて、悪いことって何よと訊けば『僕は生まれたての赤ん坊じゃない』ってそれだけだった。初めて悠也にも裏側があるんだと自覚させられた出来事だった。
 目の前で付けっぱなしだったテレビから、音が漏れ続けている。不意に、最近日本のご意見番のような顔してあちこちで色んな人間を叱りまくっているオバサンの言葉が耳に飛び込んできた。
『いい? 男ってのはね、いつまで経ったって子供で甘えてるのよ』
 子供…。
 3人とも、ちょっと前まではほんの小さな子供だった。
 いつの間にか背も越されて、人と恋愛する年になって…。それでも中身はやはり子供。
『女がしっかり手綱を握ってなきゃ、暴走するわよ。闇雲に引いたら反発されるだけだから駄目。けどゆるゆるにしてたら永遠に帰ってこないの。加減が大事ってこと。その手綱加減が女の器量を表すの』
 百合子はミユウの背をなでながら、考えた。
 あの子たちはまだ配下から出たわけじゃない。
 手綱加減、手綱加減。
 百合子はじっと、考えた。

◆ ◆ ◆


 クリスマス間近いせいか、どの店へ行っても人で溢れかえっている。
 通りには大きなクリスマスツリーが金色の玉飾りを幾つもぶらさげている。脇にはお定まりの星型ライト。安っぽいはずの電飾も雰囲気に飲み込まれればそれなりに見える。悠也はごった返す人の喧騒を遠くに感じながら、1人繁華街をぶらついていた。
 悠也には現在付き合って1年くらいになる交際相手がいる。
 自分からその相手のことを誰かに話したことはない。いること自体は隠すほどのものでもないが、いかんせん相手の立場を世間が黙っていてはくれそうにないので、全部隠している。
 そう、敦之が想像したのは殆ど正解と言っていい。悠也の彼女は学校の先生だった。担任ではないが、部活では接点がある人で、猛烈アタックの末ようやく交際までこぎつけた。
 悠也は人から良く『要領がいい』と言われる。
 悠也は確かに迷うことが少ない。自分が正しいと信じること、何が大切かをわかっていれば、ぶれることなんてないと思ってる。
 でも、学校の先生と恋に陥って、自分の感情に間違いも悪いことも何もないと信じつつも、それが世間では認められにくいことであるという矛盾を知った。もし2人の関係がばれてしまった時、相手を庇えるほどの包容力も経済力もない。文句を言い返し立場を覆せるほどの力は自分にはないのだ。だから隠したくなんかないのに隠さざるを得ない。そのことが時々ひどくイヤになる。
 世の中には秘密がいっぱいあるくせに、騒がれるのはこういう弱い人間のものだけ。
 早く大人になりたい。
 大人の男になって、金も権力も手にして、彼女を自分の力で堂々と幸せにするのだ。
 そういう悠也の気持ちを彼女はわかってくれているのかいないのか、時々素っ頓狂なことをしては自分が子供じゃないことを悲しむのだから困惑する。
 彼女は立派な大人のくせに(年齢は敦之と同じだ)なぜかそれを恥じ、高校生である悠也と肩を並べようとした。そうじゃない。僕が大人になりたいんだよ。なんでわかってくれないかな。そのくせ、悠也がしょっちゅう部屋に来ることを注意してきて。そう、悠也は彼女にまで外泊を咎め立てされたのだ! 悠也は憮然と尖った顎を上げた。
 そして悠也は、彼女がクリスマスをどうすればいいのか悩んでいることも知っていた。外をおおっぴらにふらつけないので、どうしたって部屋の中で過ごすのだが、料理のりの字も知らない彼女は盛り上げ方がわからないと言う。“またワタシのせいで”せっかくのイベントもまた日常の地味になる。“遊びたい盛りの高校生を部屋の中にばかり縫い付けた挙句、楽しみの1つも与えてあげられない”。その思考の流れが手に取るようにわかるから、悠也はこう伝えてあげるのだが。――特別な料理なんていらないよ。結花(ゆか)ちゃんがいればね。
 それを聞いても、ポーカーフェイスのできない彼女は赤くなって唇を噛むだけだった。悠也が欲しいのはそんな顔じゃない。幸せな笑顔をするなり、そういう時こそ大人を見せて欲しいのに、それを、社会にだけに見せるのはおかしいじゃないか。
 外泊のことを母親に言われるのは下手を打ってるとわかっていた。でもそれは世間に対する悠也のささやかな反抗でもあった。だからやめる気はかけらもない。結局理由を知らない母からすれば理解不能だろう。
 だが彼女は違う。彼女は悠也の気持ちをわかってくれそうなのに、やっぱり母と同じように怒る。子供に対する大人、生徒に対する教師。世間を知る者と知らない者。自分たちは恋人の前にそんな関係でしかいられないのか。
『いつになったら僕を1人の男として見てくれるの。本当は自分の方こそそんなクリスマス過ごしたくないって思ってるんでしょ』
 そう告げたらあっさりと、喧嘩になった。そうなのだ。何だかんだ言って悠也も、先週彼女と喧嘩した。せっかく交際記念日と、彼女の誕生日のお祝いをしていたというのに!
 悠也が孝明に言ったことは、全てそのまま自分へ返すべき言葉だった。
『修正は早いに越したことはないんだよ』
 全くもってその通り。
 悠也は寂しいクリスマスを過ごすつもりは毛頭ない。彼女が自分に言い過ぎたことを悶々と反省してどうやって謝ろうか迷っていることだって百も承知。悠也は相手から謝るのを待って時間を遅らせるくらいなら、さっさと自分から折り合いつけて行くタイプだった。相手が間違っていたらそれを認識する時間さえ与えれば、それ以上の時間は無駄と考えている。
 早く大人になりたい自分は、時の鈍さに苛立つことがあるけれど、でも彼女といる時は、もっと長くてもいいと思う。
 そんな時間をおろそかにしてつまらない時間を増やすことはない。自分にストイックである必要はない。だから今日もこれから押しかけてやろうかと思ったのだが。
「……」
 悠也はふと、口元に笑みが浮かぶのを感じた。それも意地が悪いというような、ニヤっとした笑みだ。
(いや、やめよう)
 悠也は目を細める。
(クリスマスなんて、ナシだ)
 悠也の目に、ツリーの俗悪な飾りがピカピカと映っていた。

◆ ◆ ◆


「何か食べるもんない」
 孝明が急にリビングへ入ってきたので、百合子はビクリとした。腕の中にいたミユウがぴょいと出て、孝明の方へ走ってく。
「えっ…じゃあ、炒飯でいい?」
「うん」
 百合子が慌てて冷蔵庫を開けると、ミユウを抱っこして孝明はテレビに注目した。孝明が自分の彼女と同じ名前の飼い犬を溺愛しているのは、タブーだけどいいネタだ。自然に口元がニヤける。
 自分の世界に没頭していた百合子に、何気ない孝明の声が届いた。
「悠也さあ」
「――うん?」
「変に遊び回ってるわけじゃないっぽいよ」
 日頃から外泊問題のことを一生懸命取りなしてくれようとする次男の気遣いに、感謝しつつも百合子の方も何気ない様子で返事する。
「そっか。…その点に関しては安心することにする」
「…あまり心配しなくていいんじゃん」
「…大人の目から見たら、難しい」
「あれでも反抗期のつもりなんじゃないの」
「いいから。あなたは自分のことだけ考えていなさい」
「……」
「大丈夫。うまくやるから」
「うまく、って」
「フッフ、手綱加減てやつよ」
「…」
「彼女は元気?」
「…飯できたら呼んで」
 孝明は不審そうな目で百合子を見ると、ミユウを抱えたまま部屋へ戻ってしまった。
 百合子はその背を目で追うと、手綱加減、と口の中で呟いた。

◆ ◆ ◆


 時々あの人はおかしなことを考えるからな、気をつけないと。
 孝明は無事ミユウと共に自室へ逃れると、安堵の息を吐いた。
 ちょこっと休憩、と犬ごとごろんと横たわり、喧嘩してしまった相手、彼女のことに思いを馳せる。
 こんな風になったのは、自分のせいだった。
『しばらく、会うのやめよう』
 孝明が彼女にぶつけてしまったひどい言葉。
 彼女と家庭教師の関係についての自分の猜疑心を、大人ぶった対応で誤魔化そうとした結果がこれだ。
 彼女の家庭教師が男だっていうのは知ってた。どうしてそこで女を指定しないかなあとは言いたくなかったが常々疑問を抱いていた。でもまさかあそこまで傾倒してしまうとは予想外で。今さら悔やんでも仕方ないが。
 あの時孝明は珍しく焦っていた。彼女の、年上の男に憧れを抱く姿に、孝明と違う魅力を感じ取っていることに、早く大人になりたがる様子に。自分も大人にならなければ彼女を失うような気がして、無理に取り繕った態度をとった。そのみっともない姿が家庭教師との差をあからさまにしたのだろうか、彼女は孝明に『辛い』と言った。このまま卒業したら、2人はどうなるのかわからない、と。それは孝明の耳には『別れたい』と同義語に聞こえ、ひどく混乱して、だったら受験が終わるまで、2人きりで会うのを避けようなんて提案してしまった。彼女がそれ以上何か口走るのが怖くて、自分の安定を奪われるのが怖くて、逃げた。
 実際孝明は、彼女のことを想うとちっとも落ち着いてなんていられない。
 未来に見る自分の横には必ず彼女の存在がある。それがどんなに見当違いと言われようとも、孝明の中で彼女なしの自分が想像できないのだから末期だと思う。それなのに彼女は。
 そんなにまで孝明が自己を見失った一番の原因は、彼女と家庭教師のあるシーンを見たことにある。大体あのカテキョウは普段から大学はどうのサークル活動はどうのと余計なこと吹き込んで彼女の思考を振り回して、孝明をイラつかせていた。その上であんな、人の彼女の顔に頬寄せて、孝明が自分だけの特権だと思っている彼女の艶やかな髪の毛に口付けるような真似――「クソッタレ」
 暴言とは裏腹に孝明は優しい手つきでミユウに顔を埋めた。ミユウは孝明に一番懐いていて、孝明には何をされても大人しい。短い毛の感触と小さな動物のトクトクいう心臓の鼓動を感じる。小さいけど温かい。このぬくもりだけが孝明の心を癒す。だから。
 今ここにいてくれたら。
 本物に会いたい。本物を抱きしめたい。
 クリスマス。自分の言葉を撤回して、ほんのちょっぴりでもいいから会おうかと考えた。
 けれど今会ってしまったら何だか駄目になりそうだ。第一美夕自身が避けてる。学校でも気を遣ってるし、電話してもメールしても返事が曖昧。自分からは連絡を寄越さない。
「ああー…俺って最低」
 もう少し感情をコントロールできていたら、違ったかもしれないのに。
 だが後悔してても始まらない。
 ぼうっと、用意していたプレゼントのことを考えた。あれをクリスマスにあげようかと思っていたが、今考えると合格してからの方がいいかもしれない。先の見えない今よりは。
 今できることと言ったら……。
 ミユウの黒く輝く目が孝明を見た。
 孝明は百合子に呼ばれるまで、ぼんやり考え続けた。

◆ ◆ ◆


 上司との短い逢瀬が済んだ後、何気なく手にした携帯が僅かに光って、敦之はうっかり見てしまった。
 今朝まで一緒だった女からの電話だった。無視してひと寝入りしようとした敦之を制し、彼女は敦之の煙草を取り出しながら「出たら?」と短く命じる。彼女の鋭い目が敦之を見据え、煙草を咥えた唇が微かに歪んでいる。
 その強制力に逆らえず敦之は仕方なく通話ボタンを押した。
「――はい」
『ねえ、今から会えない?』
 敦之も煙草に火をつけると、短く答える。
「無理」
『だって…昨日は会ってくれたじゃない』
「予定あるから」
『…彼女?』
 向こうが不安がっている声が、敦之の神経を少しずつ逆なでする。
 声が1つ喋るごとに低くなっていく。
「彼女なんていないし、俺は家に帰りたいだけ」
『なら』
 どうして皆次に考えることといったらそれなんだろう。彼女はいないと言った途端に安堵したような声色になるのが煩わしい。彼女がいなければ自分が彼女になれるとでも思っているのだろうか。俺は恋愛をする気はない。ごっこで充分。最低で充分。
「そういうこと、言わない約束だったよね」
『でも、私あなたのこと――』
「約束破ったから。バイバイ」
 敦之はさっさと通話を切ると、メモリをあっという間に消去した。溜め息を吐いて上司の顔を見た。
「趣味悪い」
 でも彼女は何でもないという風に上品な肩をすくめる。
「あなたがどういう対応するのか、見てみたくって」
「で、どうでした?」
「うん。想像通りで面白かった」
「……」
 彼女は煙草をのんびりと吸いながらそう説明したが、まだ敦之には違和感があった。なんだろう。どこか変だ。煙を吐き上げている彼女の口元が薄っすら微笑んでいるのを敦之は冷めた思いで見つめる。
「信じると、後で痛い目見る」
「なあに?」
 敦之は指の間から立ち上る紫煙を遠くに見ながら、思い出し笑いした。
「女って嘘吐きだよ」
「――そうね。嘘を吐かないと、今みたいに逃げられちゃうってわかってるからじゃない?」
「…でも嘘を吐くのは嘘が下手な人間ばかり」
 敦之の視線が彼女と絡み合う。彼女はすぅーっと冷たい表情で迎え撃つ。
「そろそろ帰りましょ」
「…そうだな」
 ようやく敦之は安堵して、にこりと微笑んだ。
 彼女は笑うことはなかった。