ベツレヘムの星 後編


◆ ◆ ◆


 その日の晩、出張中の父親以外全員揃った食卓にて、百合子は声高に宣旨を下した。
「今年のクリスマスイブは、家族みんなでお祝いしましょ」
「えっ」
 声に出して言ったのは敦之だけである。敦之ははっきりと不平を表しても突っ込まれないと思っているからだ。しかし百合子はわざとらしく微笑んだまま敦之に振り向いた。
「あら、敦君はいつも暇そうじゃない。彼女もいないんだし、それに沢山来るお誘いを断るのにも好都合でしょ」
「……」
 珍しく嫌味を言われて敦之は瞠目する。今日の母はどうしたのだろうか。早くも更年期障害が来たのだろうか、と。
 一方用心深い次男と三男は黙々と食事を続けながら、水面下でそれぞれに思考を巡らせていた。孝明はあれは外泊に業を煮やしたせいだなという目で悠也を見、悠也は知らん顔でどうやって逃げ出すかを考えてる。いい年して男ばっかりの家族でクリスマスもねえだろとは誰も思っても言わない。
「大事な話もあるし。絶対いて頂戴よ」
「…友達と約束があるんじゃないの」
 ひょいと敦之からの助け舟が出れば、百合子はギロリと長男を見る。
「あら。悠ちゃんはしばらく外出禁止だから。孝明は受験生でしょ」
「外出禁止?」
 悠也が顔をしかめて反駁の声を上げるも、百合子はツンと澄ましてそっぽを向いている。
「そうよ。悠也は近頃遊びが過ぎると思って。学校の勉強さえちゃんとしてれば何してもいいってわけじゃないんだから」
「それって…何するの」
 恐る恐る訊いた孝明は嫌な予感に身悶えしている。
「いいじゃない。お父さんも帰ってくるし、皆で楽しくお喋りして過ごせば。張り切ってご馳走作るわよ。ケーキも焼いちゃおうっと」
 誰もうまく返事ができなかった。3人の乗り気でない様子に百合子は目を吊り上げて、絶対よ! と念を押した。
 3人が3人とも、母百合子を唯一宥められる父の帰りを待ち侘びた。

◆ ◆ ◆

10
 クリスマスイブ当日の未明。
 倉本家のドアをそうっと開けて出て行く姿があったが、誰も気が付かなかった。 

◆ ◆ ◆

11
 クリスマスイブ当日の早朝。
 再び倉本家のドアがそっと開いたが、やはり誰も気が付かなかった。

◆ ◆ ◆

12
 外を走る車の音で目が覚めた百合子は、あくびをしながら時計を見た。
「…あら、もう8時だわ。起きなくっちゃ」
 今晩夫が出張から戻る予定だ。それまでに張り切って準備をしなければ。素早く起きあがる。
(ああ、こんな時に娘がいたら)
 さすがにこの年で子供をもう1人というのもどうかと思われて、だからメスの犬をいっぱい飼って紛らわせようとしていたがそれも止められた。だけど娘がいたらもう少し華やかで楽しい日となったろう。一緒に料理したりなんかして。
 それでもまあ、久々に家族揃ってのイベントにワクワクとする。子供達は難しい顔をしていたけれど。
 百合子だって子供達が勝手気ままにしたがるのはわかっていた。親なんかと過ごすより彼女とか友達とかとの方が楽しいに決まってる。だけどたまには親も強権発動せねば、自分の存在価値が消えてしまうような気がした。まだ手から離れるには早すぎる。
 百合子だってずっと我慢してきた。
 長男の敦之が昔連れてくる彼女がとっかえひっかえだったのは、連れてこなくなった今もそうなのだろうかとか。
 唯一同じ彼女を連れてくる次男の孝明はいつもあんな無愛想で淡々としてて、彼女は大丈夫かしらと心配で心配で本当は電話して色々アドバイスしてみたいとか。
 末っ子だけはいつまでも母親を甘やかしてくれると信じていたのに、もう誕生日もクリスマスもケーキ1つ焼かせてくれないとか。
 思ってはみても、百合子は自分がどうこうすることじゃないと納得して、きちんと諦めてきたんだから。
 だけどその結果、誰も母親を頼りにしてくれなくなった。自分たちのことは自分で何でも出来ると思って、好き放題。
 少しはこっちのことをわかってもらわないと。
 さっと着替えてダイニングに向かう。休みの日は寝坊の子供たち。まだ当分起きて来ないだろうが、朝食の準備はしとこうと思う。こういうのだって、感謝されるべき姿よね。
 百合子は食事の用意を済ませると、孝明だけは起きてるかもしれないと思い、部屋へ向かった。受験生の子を持つ母親は過保護になりがち、とひとりごちながら。
 小さくノックする。
「……」
 返答はない。まだ寝ているのだろうか。
「…起こすのも可哀相かな」
 百合子がまあいいやと思いながら戻ろうとした時、部屋の中から微かにカリカリと戸を引っかく音がした。
「…ミユウ?」
 ミユウが部屋から出たがっているのだろうか。百合子はさっと部屋の戸を開く。
 茶色と黒の2色の小さな物体が飛び出て、百合子に飛び掛った。やはりミユウだった。
「おはようミユウ。今日も元気?」
 にこやかに言って何気なく覗いた室内に、百合子はぎくりとした。
「…え」
 孝明が、いない。
 百合子は青ざめる。
「孝明?」
 ずかずかと入り込むと、勢い良くカーテンを開く。明るくなった部屋のベッドはもぬけの殻だ。触れたシーツは冷たい。
「…まさか」
 百合子は急いで手近な悠也の部屋に向かった。まさか。まさか。ノックもなしに勢い良く扉を開く。
「!」
 悠也の部屋も同様に、主不在だった。静寂が落ちている。
 そのまま急いで階下の敦之の部屋へも向かった。ドアを開くとしかし今度はベッドが膨らんでいる。
 ああ良かったと安堵したのも束の間、百合子ははたと今朝目覚めた時のことを思い出し、思い切り布団を引っぺがした。中身はソファクッションだった。すぐに車庫へと飛び出すと、敦之の車があるはずの位置には、乗っている車と同じオモチャのミニカーが置いてあった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 おのれ、覚えておれよ

◆ ◆ ◆

13
 イブの朝、孝明は早くから湯島天神へと向かい、目的を果たすと図書館でずっと日を過ごした。
 孝明は家で呑気に家族とクリスマスパーティする気分ではなかったので、後が怖いと知りつつも、逃げ出したのだ。何もあんなに早起きして行く所でもなかったが、出かけるところを見つかったら止められそうな気がして、朝も6時前から家を飛び出してしまった。
 それに、孝明が起きた時には既に悠也が逃げ出した後だった。
(アイツ…)
 孝明の部屋に、悠也の字で「後は任せた」というメッセージが置いてあった。早起きする予定でなければ百合子のとばっちりは確実に自分に向かっていただろう。何度言えばわかるんだ。俺は受験生だと思わず紙に向かって文句を吐いていた。だから孝明はその紙に更に自分の字で「後は任せた」と追加して、敦之の部屋へ放り投げてきたのだ。
 今日したかったことは、湯島天神でお守りを買って、このお守りを彼女に届けること。
 彼女に直接手渡すのではなく、まあ家にでも行ってこそっと置いてこれればと思う。
 もし彼女に会ってしまったら、気持ちを抑えられなくなって、あの家庭教師を辞めさせろとか、我がままを言ってしまうかもしれない。
 今はじっと我慢しよう。受験が終わってしまえばもう孝明を縛るものは何もない。そしたらあの男を気兼ねなくぶん殴って、土下座してでも何でも彼女と仲直りするのだ。
 東京都文京区にある湯島天神は、学業の神とされる菅原道真を奉るそれと知れた天満宮である。開門は朝6時からだがお守りなどを買える授与所は8時半から。孝明はそれまでの時間を移動と朝食に入った店で費やし、頃合を見て詣でると、自分とお揃いで学業成就のお守りを2つ買った。他教の神のイベント日でも神社は粛々としていて、朝早くから神妙に境内を周るとどこか清清しい。手にしているお守りからも霊妙な香が漂うようで、不思議と胸がすく。朝の澄んだ空気と一緒に深く吸い込むと、そのお陰か少し気持ちの落ち着いた孝明は、そのまま図書館へ向かった。持って来ていた勉強道具一式を机に広げて、ただ黙々と時間を潰し始めた。
 彼女も今頃必死に机にかじりついてるだろう。2人が今交際よりも受験を優先させている事実について孝明は何も口にしようとは思わない。でもそれが未来に不安を抱いてないことだとは思って欲しくない。孝明には信じると思うことでしか乗り越えられないだけ、それだけだ。
『勝手に…信頼なんか、しないで…。あたし、そんなに強くない』
 彼女を信じてると言った孝明に、返ってきた言葉が甦る。
 他人に何か吹き込まれてそこまでの不安に陥ったのだとしても、彼女のその言葉を、孝明は受け止めてあげられなかった。
 結局はそこに尽きる。大人ぶろうとしてそれが却って子供の浅はかさに繋がってるともわからずに、彼女の不安に思う気持ちを理解してあげられなかった。
 今はそのことを後悔するばかりだ。
 後悔しているのに、やはり受験が終わるまでは、などと思ってしまう。
(…悠也の言う通りなのかも)
 時間が経つにつれ孝明はのろのろと問題集のページを繰り、途切れがちな集中力をどうにか戻そうと苦心することが多くなった。
 ようやっと日が傾いて閉館の時間になった時は、ひどく疲弊していた。
 荷物をまとめたら、とりあえず彼女の家まで向かうしかない。何度も通った道のり。彼女と2人歩いて、時に近くの公園でお喋りをして。そこかしこに散らばる思い出に、深まった冬の凝縮された空気が積もる。
 コートを着ていても寒さが凍みる冬の空は、見上げると吐く息に白く煙る。
 こんな中途半端な対応しか出来ない自分を、いつまでも彼女が想ってくれる保証なんてどこにもない。
 そう思って彼女の家の前まで辿り着いた時、孝明は自分の気持ちがわからなくなってしまった。
 付き合う前にも、やっぱり彼女と喧嘩みたいになって、こうして彼女の家に来たことがある。あの時はすごく勢いがあって、絶対に想いを遂げようというたった1つの強い意思があったけれど。今は、自分で何ができるのか、何がしたいのか、全くわからない。
 うろうろとして、まるで不審者で、おかしかった。黙ってこのお守りを郵便受けに投げ入れて行けばいいことなんだけど、それも正しいことなのか孝明にはわからなくなって。
 ごそごそと取り出したお守りを眺めては溜め息する。孝明は途方に暮れた。もう諦めて帰ろうかなあと立ち去りかけた時、彼女の家のドアが開く音がして、孝明はぎくりと立ち止まった。
「……」
 怖くて振り返れない。いや、このまま逃げよう。
 走ろうとするのと、不機嫌そうな声が背中にかぶさるのは同時だった。
「あーもしもし警察ですか。うちの前に不審なヤローがうろついてんですけど」
「っ…草太か」
 がっかりしたようなホッとしたような。孝明は諦めて立ち止まると、ふざけて警察を呼ぶふりをしている彼女の弟・草太(そうた)を振り返る。
「ビビって損した」
「そうそうラブコメ路線には持ってかせねえよ」
 フンと憎々しげに孝明を見やる草太は、初めて会った頃よりも成長したというか、門の中から外の孝明を憮然と見やる姿はもう立派な高校生だ。だから以前よりも余計に、年上の孝明を年上とも思わないふてぶてしさが前面に出ている。
「頼みがあんだけど」
「ヤダ」
 聞く前に断るという相変わらずの態度のでかさは、一応彼なりの姉への愛情なのだろうと孝明は諦めているのだが。
「美夕(みゆう)には会わせねえよ。今受験期で、大切な時期なの。男と会ってる暇はないの」
「俺だって受験生だよ」
「フラフラしてるくせに」
「お前こそ、高校受験の時随分ふらついてたじゃんかよ」
「うるせえなあ。でも受かったろ」
「替え玉じゃねえの」
「こんの…っ」
「タンマ。今はとにかくこれだけ頼みたい」
 出鼻をくじかれた草太は、孝明が目の前に突き出した物を一歩引いて眺めた。
「何コレ」
「…見りゃわかんだろ。お守りだよ」
「…俺にくれんの?」
「わかってて言うな」
「安産のお守りとか言うんじゃないだろうな」
「お前さ、頭大丈夫?」
「何せ倉本は鬼畜だかんな」
「いい加減それやめろよ」
「ケッ。大体なんで本人に直接渡さねえんだよ」
「…邪魔しちゃ悪いし」
 孝明はちょっと言いよどむ。
「俺からよりも別の人からもらった方が嬉しいかもしれないし」
「…何だよそれ」
 草太がギロリと孝明を睨んだ。
「だってさ…ほら、何とかいう家庭教師がいんじゃん。ああいう大人なヤツの方がいいのかも」
「お前、馬鹿?」
 どれだけ侮辱されても、今の孝明には言い返せない。そのままさらりと告げる。
「美夕に、受験が終わるまで会うのよそうって言われた」
「……」
 さすがの草太も驚いている。そうなのだ。実は孝明は、昨日の時点で彼女に電話していた。今日ちょっとだけでもいいから、会わないかと。
 自分から『しばらく会うのは控えよう』なんて言っておいて、図々しい頼みだったかもしれない。だから彼女は断ったのかも。彼女は『よそう』としか言わなかった。孝明にとってそれはものすごく大きなショックだった。『わかった』としか返答できなかった。
「元々は俺が悪かったんだし。先に気まずくなるようなこと言ったの、俺だから」
「…お前はそれでいいのかよ」
 草太に強く言われて、孝明は怯む。いいわけない。でも。
「美夕が決めたことを、今の俺がどうこう言う資格はない」
「やっぱ馬鹿だお前」
「何だよ」
「最低」
「うるせえな。じゃあお前にわかるのかよ」
「わかるよ。わかんねえのはお前の気持ちくらいだっ」
「じゃあ何なんだよ言ってみろよ!」
「美夕は強くなりてーんだよっ。お前がさっささっさ1人歩きすっから、だから追いつきたいんだろ! 何で勝手なとこだけそう控え目になるんだよ。誰もがお前みたいに自信たっぷりだなんて思うなよっ」
「自信なんてねえからこうやってうだうだしてんだろ! 俺だって失敗も後悔もするし、だけどそれでも手を離したくないんだよ。最後まで諦めるつもりなんてない」
 最後の方は祈りみたいになって、孝明はぐっと拳を握り締めた。こんな弱音だか何だかわからないものを彼女の弟に吐いたりして、情けないったらありゃしない。でも。
「でもやっぱり、俺は最後まで信じてる。信じられるのが辛いって言われても、何でも、やっぱり俺はそれが1番だと思ってるから。それでも駄目だっていうんなら、俺はなりふり構わないし。だからこれ」
「…」
 無言の草太の手に、無理矢理お守りを押し付けると、孝明は幾分スッキリした顔で告げた。
「俺からって言わなくていい。お前からってことにして、美夕に渡しといてよ。クリスマスプレゼントにしちゃ色気ないけど、今はそれが1番だろ? …あーあ、俺ダッセー。けどお前の言葉で、ちょっと自信戻ったかも」
「何が自信だバーカ。無駄な自信だけが倉本の取り得のくせして」
「うるせえ。先輩をもっと敬え」
「とっとと卒業しちまえ。お前が先輩なんてお断りだ」
「じゃあな」
「2度と来んな」
「一生来てやる」
「――っ!」
 草太は一瞬顔を赤らめて、それからご近所のことも忘れて大声で怒鳴った。
「絶対に認めない! 絶対にお前なんか認めないからなー!!!」
 どっかで聞いたことのあるセリフだ、と孝明はくすくす笑いながら、それでも星を見上げる余裕を持った。キラキラと瞬く星に、孝明は帰ろうと思った。素直に帰って、聖裁を受け入れようと。

◆ ◆ ◆

14
 バーンと開け放ったドアの向こうに見える己の姿に、完全に度肝を抜かれているのを確認して、悠也はようやく溜飲が下がった気がした。
「……くら、もと」
「メリークリスマス!」
 今だ事態についていけないのか、呆然としたままの彼女に、手に持っているスーパーの袋を突き出す。
「っとと、違った。今日はクリスマスのお祝いに来たわけじゃないから。いつも通りのデートだからね。悩むくらいなら最初からない方がいいんだよ。ってことはチキンだのケーキだのはいらないけど、これしか売ってなかったから買っただけ」
 そう言ってから、悠也は彼女が台所でごそごそと何か作っていたことに気が付いてちょっとの間、衝撃に打たれた。
「まさか…料理してたの?」
「……」
 もじもじと俯く彼女を良く見れば、今まで泣いていたのか、鼻もまぶたも赤い。流し台の上には破って投げ捨てたみたいなレタスと洗っただけのプチトマトの入ったボウルも置いてある。火にかかっているごった煮みたいなのはどうやらスープらしい。
 それらをざっと眺めて、悠也はこれ以上ないくらい得意げな顔に変わる。
「料理の全くできない結花ちゃんが…ここまで頑張ったのは…誰のお陰?」
「……倉本」
 ちょっと膨れっ面でいう可愛い恋人を、悠也は持っていた荷物全部を落としてぎゅっと抱き締めた。
「良く出来ました」
「うっ…うっ…倉本…」
 途端に泣き出す恋人を愛おしく頬ずりして、悠也はもう全部丸く治まった気がした。幸せな気持ちで聖なる夜に愛を告げるのは楽しい。そう、彼女こそが物事の中心なのだ。
「食べ物もプレゼントも何もかもどうだっていいんだよ。僕は結花ちゃんと一緒にいられれば幸せなの。だからここへ来るな、なんてもう言わないで。お願いだから」
「う…ごめ……ごめ…」
 やっぱり彼女は後悔していた。悠也は密かににんまりとする。
「料理なんかして、今日僕が来なかったらどうする気だったの」
「…それは」
 黙りこむ彼女に、しょうがないなと鍋をかき混ぜる。丸ごとのじゃがいもが見える。
「結花ちゃんが頑張って腕を奮ってくれたんだから、食べないとね」
「でも…味付けが…うまくできないの」
 彼女はちょっと恥ずかしそうに口篭る。
 悠也はすくってみた。お玉の中に、星型の人参が入ってた。そっと口にする。ガリっと音がする。すぐに恋人が気まずそうな顔に変わる。
「…味、ないでしょ。お塩もいっぱい入れたんだけど」
「じゃあ、とっておきの隠し味を教えてあげよう」
「隠し味?」
 ぱちくりと瞬きながら悠也を見上げた彼女に、悠也はとびきり甘い笑顔を見せる。
「そう。魔法の隠し味」
 そのまま悠也は、彼女の唇に自分のを重ね合わせた。悠也がキスするとすぐにとろんと力の抜けてしまう彼女をしっかり支えながら、何度も角度を変えて堪能する。熱い吐息が体を駆け巡って、これ以上ないくらい胸を焦がした。口の中の星が溶けてく。
「…これでさっきとは変わってるよ」
 悠也は厳かに告げると、もうどちらが囁いたかわからない声に呑み込まれた。
「もうひと口――」
 夜は静かに更けて行った。

◆ ◆ ◆

15
 クリスマスの朝は静謐で、鳥のさえずりさえも眩しい。
 ホテルのベッドからむくりと起き上がった敦之は、隣りで寝ているはずの人が既に身支度を整え終わっているのを目にして、驚いた。
 その人とは例の、上司だ。
 彼女は今まで一度もイベントについて口にしたことはなかったのに、どうしたわけか昨日のイブに限って『良かったら一緒に食事でもどうかしら?』と敦之に連絡してきた。他の女たちみたいにプレゼント交換を強請ったり敦之を見せびらかして歩こうなどと思わない彼女の誘いに、敦之は気軽に応えた。昨日の朝ふと目が覚めたら部屋の中に変な紙が落ちていて、それを見て闇雲に家を抜け出たので、何も考えていなかった上、道はどこも渋滞でうんざりしていたところであったし。
 だが、彼女と待ち合わせして敦之は先ずその格好に驚かされた。いつもラフだったのにその日は随分と綺麗な服を着ていた。敦之がジャケットを買うだけでどうにかなった服装だから良かったが、それにしてもいつもの感じで行っていたら釣り合わなかったろう。
 彼女は自分で予約していたというレストランを指定した。そこで2人は食事を楽しみ、それからお定まりのようにホテルに向かった。ラブホテルなんかじゃない、ちゃんとした所。ここも既に彼女が予約をしていた。それら全てが何だか敦之に奇妙な感覚を抱かせた。
 そして今朝。目が覚めて見た彼女は、まるで会社の時目にするような完璧な化粧をして、カッチリとした上着を羽織っていた。そうまるで、オフィスで目にしていた時のような。
「昨日も今朝も、いつものあなたらしくないね」
 敦之が口にすれば、彼女は完全に仕事のような、力強く相手に良い印象を与える笑顔で光を背にして立つ。
「シャワー浴びてきたら」
「うん」
 敦之はすぐに向かうと、熱い湯を浴びて、さっと身支度を整えた。
 でもその間中胸に宿る警鐘みたいなものを感じてもいた。
 違う。変だ。この間もちょっと思った。そうこれは、まるで――…
「もうやめましょう」
 敦之が準備を終えると同時に、彼女ははっきりと告げた。
 敦之はじっと彼女の顔を見返す。彼女はあの仕事用の笑顔のまま、敦之を優しく見ている。2人の間に立ちはだかっている、壁。それは化粧であり、服であり。
「まさかあなたの方から言われるなんてね」
 敦之は別段驚いた風もなく答える。怒りなんて当然ない。だって恋愛していたわけじゃないから。でも居心地いい関係だったのに、突然止めるなんていいだすのは残念だった。いや、これでいいのかもしれない。だって彼女は、多分、敦之のことを。
「――本気になるのは、イヤなの」
 美しい上司は、あっさりと述べる。
 笑顔をやめない。なのにその瞳からしずくが零れ落ちていくように見える。見えるはずのないしずくは星のように輝いて、永遠に消える。
 ――ああ、やはり。
 敦之の中に存在するルール。相手が本気になったら、お終い。
 彼女はそれを自覚して、自ら引き際を綺麗に済まそうと思ったのだ。だけど最後にエゴが勝(まさ)ってしまった。それで昨日、敦之をエゴのままに連れまわしてしまった。でも敦之は、それとわからないまま連れまわされた。つまり彼女はエゴまで完璧だったということだ。追えば逃げる敦之を追うと見せることなく、やり遂げた。その姿は賞賛に値する。
 彼女は敦之の前に立つ。敦之を見上げ、その頬に手をかける。くいと唇を吊り上げて見せる。
「あなたって、毒みたい――人の心を殺し、永遠に死をもたらすような」
 敦之は、それを素敵な賛辞として受けとると、爽やかな笑顔で告げた。
「じゃあね。バイバイ」

◆ ◆ ◆

16
 クリスマス当日の倉本家は、とてもクリスマスを祝うような様子はなく、家の中が家具でごった返していた。
「う…うう」
「その覚悟で出て行ったんだろ」
 かなり文句を言われはしたものの、ぎりぎりセーフでイブの夜に戻ってきた孝明は、やかましい家の中でひとり優雅に百合子お手製のケーキをつついている。横で呻いているのは悠也。遠くで叫び声を上げているのは敦之だ。
「あー俺、つくづく受験生で良かった」
「家出しようかな…」
「やめとけ。お前父さんにも言われたんだろ」
「……」
 昨日の夕方に帰ってきた父は、自分の車のワイパーに挟まる「後は任せた」の文字が3つも書いてある紙を抱えて我が家へと入ると、怒り狂って模様替えを始めている妻・百合子の姿を目の当たりにして全てを理解した。何せ筋金入りの引越し魔を家に縛り付けているので、その代償として家中の模様替えを趣味としている彼女。子供達3人が何を怒らせたかは知らないが、とにかく彼女の怒りを静めるには動的パワーだと思ったらしい。一番憎たらしい悠也と敦之の部屋交換を例によって例の如く半分まで手をつけ、受験生の孝明の部屋だけは辛うじて「ミユウ1ヶ月禁止」の張り紙で済ませた百合子を待って、まあ2人で静かにイブを祝おうじゃないかと穏やかにとりなしたそうだ。25日に子供たちが帰ってきたら、それこそクリスマスプレゼントみたいじゃないかい、と。
 それだけで百合子は黙ってケーキを焼き始めたと聞いた。
 父は24日の夜にひょっこり戻ってきた次男に、何があったのかと尋ねた。ついでに自分の車が移動していてタイヤの下にはミニカーがぺしゃんこになってたけどあれは何? とも訊いてきたが、孝明には何のことかさっぱりわからなかった。
 そして父は25日の午前中にひょっこり戻ってきた三男を静かに諭し、25日の昼時にひょっこり戻ってきた長男を静かに諭したというわけだ。
「くそう…この裏切り者め」
 オーディオを抱えながら孝明に罵った敦之を見て、孝明も言い返す。
「俺だって無罪じゃなかったんだ。受験生なのに1人で3人分の対応を迫られた上に、ミユウまで没収されたんだぞ」
「部屋が半分崩壊して外泊回数制限つけられた僕に比べたらどうでもいいよ」
「何言ってんだ。こんなうるさい状況で勉強できるかよ。落ちたらお前らのせいだからな」
「そもそも社会人にもなってどうしてこんな目に遭わされるんだ。あのミニカー高かったんだぞ」
「いつまでも家にいるからでしょ。早く自立すればあ」
「まあ楽しいわねえ。やっぱり家族全員揃って過ごすって、大事ね」
 にこやかに登場した母百合子に、3人の息子達の口は止まる。
「あ、片付けは夕食までに終わらせてね。今度こそ皆で食事するんだから」
 そうして百合子は、夫がテーブルの上に置きっぱなしだった「後は任せた×3」の紙をくしゃくしゃに丸めて紐をくっつけると、リビングの隅に飾っていたクリスマスツリーにそっと引っ掛けた。その少し下には「ミユウ1ヶ月禁止」「外泊は月1回」「大人をからかわない」などがまるで七夕の短冊のように吊り下がっている。
 倉本3兄弟はそれらをじとっと確認すると、再び自分のすべきところへと戻っていった。
 百合子は全てを満足気に眺め、やっぱり自分の夫は誰よりも素敵な人だと思いながら、愛しい子供たちがもう少しだけ大人にならないでいてくれたらと願うのだった。 

Fin