Home Sweet Home 94


 試験期間に突入したばかりの日のことだった。
 無理やりかき集めたノートのコピーやらなんやらでどうにか対策が成った波は、図書館でそれらを整理した帰り、雨に降られた。
 最初はみぞれ混じりのようだったが、すぐに雨に変わったようだ。冬の数少ない雨は、乾燥した空気を多少湿らせてくれるが、ひどく寒い。
 天気予報で特に降るとも言ってなかったので傘のなかった波は、どうせ小雨だろうと、学校から最寄り駅まで走ってやり過ごし、電車を降りてからもそうするつもりでいた。
 駅の改札を出ると、降りは弱くはないがさほど強まってもおらず、これならば傘を買わずともよいだろうと、ふたたび走る覚悟を決めて、暗い雨の中を飛び出した。
 島のマンションに向けて勢い良く駆ける。そんなに遠くはないが、少しだけ坂などもあるので、息が上がる。
 白くけぶった視界に見える、前を歩いていた人を追い抜き様、違和感を覚えて何気なく振り返り見た人物は、予想に違わなかった。自然に足が止まった。
「あ…」
 振り返った波に気づいた相手――島は、かばんを頭上に掲げている波の姿を一瞥して、すぐに渋い顔をした。
「どうして傘を差さないんです」
 島こそ、どうしてこんなところを歩いているのだろう。いつも、車のはずなのに。家の近くとはいえ街中でぱったり会ったことに焦りを覚え、波の思考はぐるぐると廻るばかりで、オーバーヒートにでもなりそうだ。
 いつの間にか島の傘の下に入り込んでいた波は、走って早くなった動悸に肩で息をつきながら、一歩後ろに引いて逃げる。
 冷たい雫の下に戻ると、妙に落ち着いた。
「傘、持っていないので」
 当たり前のことを申し訳ないような気持ちで告げると、島はまた眉間の皺を寄せ集める。
「そんなに人に迷惑かけたいのですか」
 波が傘を差さないとどう島に迷惑がかかるかはわからなかったが、波はとりあえず謝ってみた。すると島は、ポケットを探り始めた。お金でも渡されて、いまさら傘を買ってこいとでも言われるのかと思っていると、頭の上に影が差した。ふたたび島の差した傘の中に、入れられていた。
 距離が、近い。島の背が、体が、思った以上に大きい。雨雲の下、少し先の街灯の光がゆるく届いて、ぼんやりとしている。そうして固まってしまった波など無視するように、島は探っていた手にハンカチを握りしめて、雫に濡れた波を丁寧に拭い始めていたのだ。一生懸命自分で洗濯した、ハンカチだろうか。ぎょっとして、逃げたかったのに、体は動かなかった。その手が頭上におりると、風邪をひいたときのことが蘇った。思い出したせいか、額が熱いような気がした。ああ迷惑って、風邪のことだろうかと考えてみた。ひと通り拭き終わると、島はまたしかめ面を見せて、少し怒ったように目を逸らし、行きますよ、とぶっきらぼうに宣言した。その言葉も息もあまりに近すぎて、思わず息を止めているのも気づかなかった。島が強引に歩き始めるまで、波の硬直は続いた。
「…あたし、若いんで、走って帰ります!」
 気づいたら、傘の下を飛び出て、雨の中をこれ以上ないくらい走り抜けてた。
 雨の中ぐらいが丁度いい、と、わけもわからず思った。
 どうせ走って帰ったところで、すぐに同じ家に戻ってくるのに。そう思うと余計に足が早まって、マンションまでは近かった。濡れたまま部屋に逃げ込むように戻った。久しぶりの全力疾走は心臓にこたえる。だがここなら島は入ってこない。入ってこれない。扉を強く閉め、ベッドに体を埋め、荒ぐ息が落ち着くのに、やたら時間がかかった。