Home Sweet Home 93


 最近みょうに機嫌がいい。調子がいいと言ってもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、波は家の中を掃除していた。島の部屋には入らないが、それ以外のところは大抵自分でやる。業者もいまだ定期的に入っているようだが、おかまいなしにマメにやらないと、怠け心がついてしまうし、全体的に暗い色合いの家で埃が積もると目立つ。
 張り切って便所掃除に励む自分が、ご飯はなににしようかな、とか考えてるのが、自分のことであるくせに、頭の片隅でおかしいとも思う。

 あれか、あたしは本当に家政婦にでもなったつもりか。

 いいことなんて何も起きていない。
 島に助けてもらったことは、いいことと言うより、救いみたいなもので、実際にあったのは、年末に、家や家財道具全部失って、ほぼ無一文で路頭に迷ったという事実だけである。
 保険はいまだおりないままで、この先どうなるのかわからない。島の好意にだらだら甘えてるだけの心苦しい生活がいつまで続くかしれないというのに、それでも波の毎日は、徐々に生き生きとしてゆくようなのだ。
 この不思議な高揚はどこからか生まれて、消えずに、波を潤している。
 なにが楽しい。なにが嬉しい。なにが面白い。なにが幸せ。
 不安の中で用心しながら注意深く生きてくべきときに、波はもっとも信じてはならない希望や期待に胸を膨らませている。
 こんなに気を緩めて、足もとをすくわれるんじゃないのと思いながら、思考の先にはひとつの存在がある。
 トイレを出て、1つの、扉の前を通り過ぎるとき、足が不意に止まって教えてくれる。
 この扉は、波が唯一出入りしないところだ。
 ――先生の、部屋
 他となんら変わりない造りであるのに、大きくて、堅くて、分厚い最後の審判の扉みたいに見える。
 たった1枚、鍵もかからないというのに、開けることができない。
 開けてしまえば引き返せないと考えてしまうような、大きな不安が渦巻いている気がする。
 だけども、思い切って開けてしまって、大したことないじゃないかと、確認したい気もする。
 そっと触れてみても、それはただの木材で、なにを伝えるものでもない。
 それなのに、そこから僅かでも感じとろうとしているのは、人間の虚しさであり儚さであるのだろう。
 気がつけばずっとドアの前で立ち尽くしていて、はっとして掃除を再開した。
 機嫌がいいかと思ったら、今みたいにふいに思い煩ったりして、ただ呆然とくちびるを噛み締めている。
 でも、けして不幸だとは感じない。
 ほう、と息を吐いて扉の表面を、埃を払うように指先で辿った。
 何度触れても、冷たい扉の質感は変わらないのに、指先はうすらと熱を帯びていた。