Home Sweet Home 90


 島は眼鏡をくいと押し上げた。
「最近気づいたのですが」
「なんでしょう」
「あなたといると、僕はとてつもない世間知らずなのだという気分にさせられる」
「!」
 いろいろな意味で驚いて、すぐには返答ができなかった。
「幸嶋さんも、僕はひとりでなにもできない愚か者だとお思いですか」
 島はかすかに口を結んで――波は、居住まいを正した。
 最初の頃だったらきっと、答えはひとつだったろう。
 とてもシンプルな質問だと思い違いしていたと思う。
「はっきり言わせて頂きます。先生は、世間知らずだと思います」
 でも、とすぐに続ける。
「それはひとりでなにもできない愚か者とは違います。先生はお金持ちさんだから、わからないことがあるというだけです。けど、人間が全部ひとりでできるなら誰もがこの世にひとりで充分てことになりませんか。できないことがあるから、できることをして、できたことを誇ればいいのではないでしょうか。あたしも先生に――甘えて――くだらないことをしてしまう。そのあたしを、先生は受け入れてくれました。先生は、あたしを救って下さった恩人です。あたしにとってはそれが真実で、大事なことです」
 不思議と、すらすら語ることができた。今度は意味を間違えたりしなかった。
 直感的に、島は恐れているのかもしれない、と感じたから。
 島は「幸嶋さんも」と言ったのだ。「も」、はどこかに重ね合わせているのだろう。
 それは律のことかもしれないし、別のことかもしれない。
 ただ、大事なことはそこではない。島は答えを欲しがっている。真実よりも、人が他人から欲しい言葉よりも、どこに答えを見つければいいのかを求めている。
 波は島を世間知らずだと思っても、けして馬鹿にしてるのではない。そんな些末な事象にとらわれて、島という本質を、島のよいところを見失わないで欲しいと、こころから願っている。島の気持ちが時々わかるから。島の防衛本能がわかるから。大人のくせに恐がりで、でも大人としての諦めや感情になびいて素直になれないから。
 こういう、極まれに零れ落ちる、島の正直さを、あたしは逃さずに拾いたいのだと。
 波は真っ直ぐに伝えたかった。
 ゆっくりと結んだ言葉に、島は眼鏡の奥の瞳を揺り動かした。
「いま、わかりました」
 島は静かに息を吐いたようだった。
 本を持って立ち上がり、背を向けながら言う。
「あなたははっきりと物を言う。その点は僕の姉と変わりないような気もする。しかし、全く違う。それが不思議でもありました」
 それはまれに見る、島の珍しい告白だった。
「あなたはよく『自分を厄介払いしたくないのか』と言う。答えましょう。あなたがいても、僕は、苦にならない」
 それだけ呟いて、島は去っていってしまった。
 後に残された波は、火照る体をどうやって押し込めればいいかわからずに、ひたすら水を飲むしかなかった。