Home Sweet Home 89


 その日の夜、バイトを終えて帰ると、珍しく島がリビングにおり、膝の上の本から視線をあげ出迎えてくれた。
 その顔を見ると、講義中あれこれ考えていたし、島が揶揄されてる現状や己にあれこれ腹を立てていたことが追い打ちとなって、波は少々言葉に詰まった。
 先に声をかけたのは、島だった。
「おかえりなさい」
 島の口から出ると、妙なものである。
 波は寸の間面食らってから、ちいさく「ただいま…もどりました」と返事した。もう不機嫌は、どこかへ飛び去っていた。
 都合のいい自分は健在で、何気ないただの挨拶だけでこうも照れくさく、しみじみと嬉しくなってしまってはどうしようもない。
 誤魔化すようにコート脱ぎ、部屋へ戻ろうとしたが、もう一度島をみやると、島はソファにゆったりと腰掛けて、ふたたび本に目を落としている。波の存在に対しまるで気兼ねなく落ち着いているようである。
 荷物や上着を置いてから、そっとリビングに戻った。島は自分の世界に入り込んでもう振り返らなかった。
「……」
 波は一瞥して口元を緩めると、できるだけ物音を立てないよう注意しながら、夕飯の支度を始めた。
 温めるだけの、昨日のおでんの残りと、茶飯をこそこそと用意する。
 無言でも、人がいると、ずいぶんと違うものだ。
 親に反発し、ひとりで暮らし、そしてまた誰かとの共同生活に戻ると、家族との暮らしも、ひとりでの暮らしも、より見えてくるような気がする。
 島はいつ頃から、ひとりで暮らしているのかな、と考える。
「そういえば、先生――」
 声をあげかけて、波はふつりと黙りこんだ。
 島は集中しており、波が言いかけたことにも気づいていない。
 その姿は、ひとりの時と変わらないようでいて、大いに違うと察せられる。
 だって、波が帰ってきてキッチンであれこれとしているのに、島はいっこうに気に留めないどころか、動こうともしなかったのだから。以前なら、自室に消えないまでも、隣の書斎にこもるくらいはしてた。
 慣れてくれたと思っていいのか。珍獣的扱いで失礼とは思うが、今の波には、島が気楽そうに寛いでいるように見えて、それがとても喜ばしい気持ちなのでいっぱいだった。
 嬉しさを押し隠すように食卓について静かに食べようとしたとき、ふいに島と目が合った。
「…目の前で、失礼します」
 儀礼的に謝ると、島は眼鏡の奥で瞬いた。
「それは、昨日も今朝も召し上がっていましたね」
「はい」
「お好きなんですか」
「…ええ、まあ、好きというか……まあ好きで結構です」
「そうですか」
「……」
「……」
「先生は、お嫌いでしたか」
「その食べ物のことでしょうか」
「ああ――念のため申し上げておきますと、これは『おでん』という食べ物になります。庶民が寒い冬に好んで食べる鍋物の一種で――」
「おでんくらい知っています。食べに行ったこともある」
「食べにって…コンビニかなにかで?」
「コンビニ? 普通の店ですよ」
 店の場所を聞いてああ、と波は恥じ入った。多分おでんなのに1万円くらいは払わないとならない高級店だと勝手に推測したのだ。
 その顔を見た島はちょっと気分を害したように本を閉じた。