Home Sweet Home 86


 ――そうか、先生がさっき「不味い」とか「味がしない」って言ったのは
 波の味覚がおかしくなっている、と勘違いしたからだった。
 波の食欲がないのを、風邪のせいではないかと、気にしてくれたのだ。
(ああー……)
 グラスを抱える手が強まった。
 いつだって、島の方が先に、動く。
 島はなにも言わないし、事を起こしてもそれがなんのためであるのか、さっぱりわからない。悪い意味にとられがちなその行為がしかし、島のわかり辛い気遣いと優しさとで成り立っていることを、波は嫌と言うほど知った。だから。だから余計に、波にはわからなくなる。島が、なにも言わずに波を置いてくれるわけを。島が、波をどういう風に捉えているかを。
 家族もよせつけないような島が、波を許す理由。あんな意地悪い雰囲気のくせに。口悪くて、目つき悪くて、顔も冷たそうで、なにも考えてないくせに――
「あたしは――あたしはろくでもない学生かもしれないんですよ」
 まるで腹立たしいほどに島が無防備に見えて、どうしてなのだと突き詰めてしまいたい。
 島は、他の人間にも、同じように施しているのだろうか。波以外にも、こんな風に、困れば手を差し伸べてしまうのだろうか。
 腹の奥底に沈むくすぶりが払えずに、波は微かにくちびるをふるわせた。
「あたしのこと、何も知らないのに。あたしだって、先生のことろくに――」
 なんで。あたし、なんで。
「せ――先生は、本当は、こんな風に誰にでも優しくて、」
「幸嶋さん」
 勢い良く席を立って逃げ出してしまいたいこころを抑え、波は島の手元だけを見た。島はまったく落ち着いた様子で、几帳面そうな繊細そうな、それでいて鈍そうな指をわずかに組み替える。
 島はさらりと言った。
「少なくとも僕は、あなたが努力家であると知っている」
 それはなんとも衝撃的であった。
 頭の中で反復している言葉の意味を、何度も何度も問い直す。
 いちおう島の口から出たのは褒め言葉――のように感じられた。徐々に恥ずかしさが募り、滅多に出さない羞恥で頬が染まる。
 必死で隠そうと深く俯くが、たぶん、島はそんな波のことをかけらも気にはしていないだろう。
 努力家だなんて、どこで知ったのか。どうしてそうはっきりと、言いきれるのか。
 なぜ、波が言われて1番嬉しい言葉を知ってるのか。
 ……ああ、先生は、大人だ。
 どんなに子供じみた行為をしても、肉体も精神も波より先の位置にある。子供が大人ぶっているのとは違う。波が思うよりもきっと多くのことをわかっていて、けれど表現するまでの間に、とても大きな緩衝剤が築かれてるのだろう。だから、島の表層に騙されると痛い目を見る。
 その島が言った。溝の埋め方を知らない、と。あれは包み隠さず告げられた本音だと思う。
 ならば波は、表面的な言葉に腹を立てるのではなく、溝を埋めたいと思う。
 会話の下手な島と、理解されにくい島の本質を乗り越えて、このわからないわだかまりを感じることなく、伝え合えたら――と…。
 島の言い種を真正面から受け止めるよりも、その向こうにあるものを覗こうと思ってしまった。
 そろりグラスの把手を握り、ひとくち口にする。ちょっとスパイスの効いた、やわらかい甘さが、美味しい。じんわりとした温かみが体に広がり、冬の飲み物が巡る、痺れるような心持ちだった。
「…美味しいです」
 素直に褒めると、島は「それは結構」と、自分も口にした。
 そして、島は静かで、無駄口も愛想もつかわない。
 でも、先ほどの孤独感は消えて、島でしか作れないような時の流れが動いている。
 柔らかな赤い色がグラスから漏れでて、電灯の美しい影を作る。
 こういう過ごし方が、自分にはひどく合っているのだ、と、波は思わずにはおれなかった。