Home Sweet Home 66


 翌日、バイトの時間に合わせるよりも早く目が覚めると、勉強道具一式と共に早々と家を出た。当然島はまだ部屋から出て来てはいない。ホっとしたような腹が立つような複雑な気分で、アルバイト先に向かった。
 朝から2時までのシフトだったので、終わった後は島の家の近くの区立図書館に直行した。何時まで出ていればいいのかわからないが、連絡を寄越すと言っていたので、それまではフラフラするしかない。
 がしかし、よく考えたら図書館が開いているわけがなかった。まだ正月三が日も明けてないこの時期、公共施設は当然のごとく休みである。すぐ目の前まで来てから気づく、腹を立て過ぎて何も考えずにいた己に腹が立つ。仕方なしに長居できそうな店を探して、コーヒー1杯で粘るプランに変更することにした。
 ピンポンという音と共に入店すると、新年もへったくれもない散文的な雰囲気が漂っていた。人出はまずまずで、席は空いている。そういう方がいい。さっさとその1つに座ると、すぐにでも外の世界を断絶するように本を広げた。この瞬間は、辛いことも、嫌なことも全部忘れて、一種の現実逃避といえなくもない。だから、ともするといらいらと周囲に敏感になっている己に気づいて、なんとなく店を見渡した。皆お喋りに興じてはいるが、特別に騒がしい客がいるわけでもない。どうしたことだろうと、ふと、この環境を思い煩ってることを知った。ああそうだ、ここは食事をするところで、時間を潰すにはいい店だが、勉強するには向かない場所なのだった。波はたいてい学校の図書館を利用している。学校がある間は毎日のように通っていて、そこは静かで食べ物の匂いもない。でも、波が比較の対象としているのは、そこではなかった。思い描いているのは、島の家の書斎であった。知ってしまったらこもることが増えた場所だ。だから、余計に違いを感じてしまう。前ならばどこでも平気だったのに、今はあの部屋が恋しい。ちょっとでもざわざわとしていて、人の動きがあることに敏感になっているのがたまらない。
 明らかに贅沢になっている。昔は近所の図書館が気に入りだったはずだ。そこだって子供がいたり少々ざわついたりして完璧に静かとはいかない。しかし、それで充分な気がしてた。でも島の書斎を知ってしまった後では、どこにいても霞んで見えるだろう。あそこは間違いなく最高だ。綺麗でこざっぱりとして思わず勉強したくなるような雰囲気がそこかしこに漂っている。素晴らしい学術書がたくさんある充実した書架。頼めばいつでも貸してもらえるし、自分の学科の教授が持っている本だから当然質もよくて自分では見つけてこれないようなものも多い。同時にPCもプリンターも使えるから作業は驚くほどはかどる。開館も閉館もない。帰る時間やお金を気にすることもない。こもろうと思えばいつまででもこもっていられる。唯一いる人間は島だけで、島は決して騒がないし邪魔したりしない。そう、波があの部屋を占拠していても別に文句は言われなかった。自分の部屋に同じような設備が整っているのだろうか。わからないが、ありがたいことにお互い干渉しない雰囲気ができている。そういう時は2人でもそんなに居心地悪くないと思ってた。
 勝手だが、あの家において波は2人も1人もそんなに違いはないと感じ始めていた。むしろ静かでありながらどこかに他人の存在を感じるその環境を好もしくさえ思っていた。
 だから島に出て行ってくれと言われて、本当は怒りよりもむしろ悲しかったのだ。