Home Sweet Home 65


「頼みがあるのですが」
 書斎を借りて予習をしていた波に島がそう切り出したのは、夕食も済んだ夜のことである。
「はい」
 波が体を向き直ると、島は動揺したようにいささかたじろいだ。相変わらず挙措が読めない。
「……申し訳ないが、明日1日外に出ていてもらえないだろうか」
 あまりに深刻そうな顔をするので、波は思わず尋ねてしまった。
「1日って、夜中の0時から明後日の午前0時までですか」
「幸嶋さん、1日というのは言葉のあやで…」
「わかってます! わかってます、あんまり深刻な顔されてるからちょっと言ってみただけです。で、具体的にはどうすればいいんですか」
「できれば、連絡するまで外にいていただきたいのですが」
「いっそのことどっかに泊まりに行ってましょうか?」
「いえ、そこまでは結構です。夜中にはならないよう早めに切り上げますから」
「はあ」
 ここは島の家で、島の都合が悪いなら従うのは当然だろう。そんなに恐縮するほどのことでもない。
「わかりました。じゃあ明日短期バイト入れたんで、その後は図書館にでも行ってます」
 波はあっさり頷いたし、別に機嫌悪く言ったつもりはまったくなかったのだが、島はポケットをごそごそと漁り出して――その後の行動には反駁せざるを得なかった。
「どういう意味ですか」
 目の前に突き出されている島の手にあるのは――現金――を包んだもの。
 突然お金を差し出されて、呆れるよりもカチンとくる。お金で体よく追い払われてるように見える。
「夜遅くなるかもしれませんし、これで食事でもと」
 島はいたって生真面目に返答するので、波は余計に悔しくなった。
「お金なんて頂かなくたって、ここは先生の家なんです。言うことくらい聞きます」
 ムカムカとして、テキストやノートをまとめるとすぐにリビングを出て行った。
 ひどく胸が痛かった。この期に及んでもまだ、島は波のことをそんな風にしか扱えないのだ。日は浅いとは言え、波がこれまで一度だってお金をせびったことも、島の金持ちに甘んじたこともなかったのはわかっていると思っていた。だいいち、島とは恋人でもなんでもない、赤の他人である、その他人の感情を金に換えることが、どういうことかわかっているのだろうか。波だって島を多少なりとも理解しようと努力してるのに、島は波のことなどこれっぽっちもわかろうとしていなかった。
 ――お金を払わないと出て行かないとでも思った? それともお金を払ってでも出て行って欲しいことをしようとしてるわけ
 島という人間は、近づいたと思ったら遠のく、蜃気楼みたいな人だ。
 別に知らないままだってかまわない。一時的な関係に深入りする必要などないのだから。でもそれでも、関係を悪くする必要なんかない。先生は年からいったらもう2倍くらい大人なんだから、少しは大人らしく振舞ってよ。一緒に住むことがそんなに嫌なら、始めなければ良かっただけのこと。決めたと言ったのは先生の方で、あたしは、あたしは……
 部屋に戻ってなにもかもやりかけのままベッドに潜り込んだが、気持ちは収まらなかった。
 今までこの家に客など律以外で見たことはないにしろ、確かに島には島の生活があって、他人がいては困ることがあると認識している。もし明日がその日なら、波がいればその関係性を疑われるし、説明もしづらい。波に出ていてくれと頼むのは筋が通ってる。だけれど、お金を払ってまで、と思うと、妙に落ち着かない気がするのはどういうことだろう。
 1日かけて島がこの家でなにをしようとしているのか、想像するだけでもイライラとして、暗い部屋のなか目を閉じることもできずに、波は宙を睨み続けた。