Home Sweet Home 133


 朝の光。
 まばゆい、静謐な光の穏やかに降る、広々としたリビングの中に沈む淡い光。
 すべては淡く、はかなく、遠く、穏やかな。
 そこへ突如広がった異質な彩りが、目を覚まさせるほど意識に飛び込み、五感を刺激する。
「……」
 よくはわからなかったが、こころのままに従ったら、体は動かなかった。
 ゆっくりと広がる液体がつっと広がり相手まで流れ着いても、波はただ島を見続ける。
 眩しい。光が眩しい。眩暈というより眠りに落ちそうな揺らぎが、体にのしかかっている。
 ごめんなさい、ぼうっとしていて
 そう言い訳したくても、波の口からはもうなにも言葉が出てこないような気がする。
 かわりに島が喋ってくれたのだろう。
「タクシーを呼びましょう」
 光が痛い。
 島の声は、ようやくかすかな響きを孕む程度に、不安定さを戴いていた。だが否定的な感じはない。むしろ、島自身の戸惑いとも取れた。波の反乱とでも思われたのだろうか。それでも、波の口からはなにも出てこない。
「これ以上は……」
 言葉を探す島の方へ、ゆるゆるとジュースは寄せていく。波はその辿り着く先を注視する。
 とうとう、しずくが床にまで零れ落ちた。
 島はわずかに眉をしかめたかと思うと、ふるりと肩を揺らし、濡れた指先を握りしめた。
 そのまま立ち上がった。
 バチンと、視界が弾けたようだった。
 自分の見つめていたものがいつの間にか静物に変わっていたのにも気づかず、波が同じ先を見ている間に、タクシーが呼ばれたらしい。
 少ない手回り品は、せめて車まで送るとひと言告げられ、島の手で運ばれ、何をしたか全く記憶にないうちに、波は車上の人となっていたのだった。びっくりした。荷物を渡される際、微かに触れた島の手が、波の心をしめつけただけで、いろんなことを忘れてしまった気がする。
 バタンと自動で閉まる扉の向こう側に、波の未練が残っている。
 でも行先を尋ねられ無意識に答える自分の声が、遠のかせる。あっさりと、あまりにもあっけない幕切れに、これで、よかったのだろうかと、急速に思考が動き出して…。
(あ、あたし、挨拶してない)

 そこに気付いても、すでに彼はいなかった。
 波を送り出してくれた人は、ただ背中を押し続けてくれた人は、もういない――

(あ……あ……)

 いない、いない、いない
 それだけがどっと、津波のように、押し寄せる。
 もう会えない。もうかかわれない。ゼミにも入れないし、話しかけられないし、見つめることさえも許されない。あたし自身、いないものとしてしか、扱われない――
(存在を感じることも)
 膝の上の荷物を、ぎゅうっと抱えなおす。
(存在を感じてもらうことも)
 怒涛の勢いが、感情を複雑に混ぜ合わせ、激しい色使いの絵画のように塗り重なる。
 後ろを振り返らず、波は前へ進むしかできないなんて。過去かかわった者たちを忘れて、新しいものだけ手に入れるなんてそんな――
 ガサリと揺れたそこに、瞳が揺らいだ。
 抱えた荷物の中に、いつの間にか本が載っていた。
 島の本。波がレポートのために何度も何度も読み返した、本。
 島の名前が表紙に綴られてしまっている、それがどうして波の荷物に紛れているかなんて、考えずともわかる。
 泣くかわりに、息を止めた。
 小さく、運転手に聞こえてしまわぬよう、固く閉じた口の中で呻き、そして――

(本当にそう?)

 ――初めて、波の胸に疑念が沸く。あたしは、本当にすべてを忘れてしか、進めない?
 あたしの生き方って、そんな器が小さいもんなの?