Home Sweet Home 132


 ガンガンと頭ががなり立てるようにぐらぐらして、気が付くと波は自室に戻っていた。明日の引越しのために部屋はすっきりしていて、もう波のものではないと訴えている。それが余計に自分の感情をあおった。悲しい気分に浸らせた。
 眠ることもろくにできずに、もんもんとした思考は現実味なく波を動かしたかと思うと、最後の豪華風呂を楽しむなどとうそぶいていたことも、義務のように果たしただけで終えた。そのせいか、あっという間に冷たく固まってしまった体を、ぎこちなくベッドにうつ伏せる。と、もう何もかもが終わったと真っ暗な中何度も思いが巡る。
 ひやりとした、絶望のような嫌な気持ちが、想像する未来を暗くしている。
 島が必死に前向きになれと明るい未来を示唆しているというのに、波にはまだそれが見えていない。
 いや、わかっていて、実は見えているのに、混乱した頭がそれを見せてくれない。
 たった1つ、波のこころを抑えるために、こんなにも落ち込み自暴自棄になっている、それが島をして『醜い』と言わしめてるならば、波はおのれの矜持を失わないために、こころのみならず、おのれ自身を捨て去るしかないのかもしれない。
 自分を捨てて、別人になる。
 時が解決してくれる、そんな甘っちょろいものじゃなく……
 大人って、自分を諦めて、違う人になることなのだろうか。
 考え続けるうちに、夜は更け、再び、明けようとしていた。


 茫然と朝を意識したときまず思い浮かんだのは、島と顔を会わせたら、また混乱してしまうだろうか、ということだった。
 ほとんど眠ることのできなかった疲れ気味の脳が、クマを作り、じんじんと熱く乾いた眼球をぱちぱちとひっきりなしにしばたたかせている。靄をかけたような空虚感漂う早朝の部屋は、よそよそしいまでに静かだ。
 現実から少し遠のいたような眠気は、波の緊張感を多少ごまかすのに役立った。ベッドのシーツ類をすべて外して畳めば、ひとまとめにした荷物以外、もうどこにも波の痕跡は残っていない。このまま黙って出たとしても、許される範囲程度には全部済ませているし――。かといって、黙って出ていくのも気が引けるほどには、頭は働いている。せめてひとこと、挨拶してくべきだろうなあとぼやけた思考がよぎる。手早く身支度を済ませて、波は両手をあわせて握り締める。小さく息を吐いて、島の起床を待つつもりで部屋を移動した。明るいリビングには、予想外だった。島がすでに起きていた。
 目は、合わせられなかった。そのかわり、錯乱もなかった。
 島は――いつにもまして顔色の悪い様子でうろついているが――さすがに大人で、腫れぼったい顔の波を見ても特に怒りもせず、ただ静かに挨拶をし、朝食を勧めてきただけだった。昨日までのめちゃくちゃや、夜というまやかしのカーテンの中でのことは、いい香りのするテーブルからは一切垣間見えず、取り払われてるようだ。まるで爽やかな食卓に、波はまぶしさを感じて、何度も瞬きしてみた。複雑な気持ちになった。
 食欲はまったくといっていいほど感じられなかった。なのに、席につき、過剰なまでに丁寧に用意された食事を眺めたら、自然に手が出た。
 数種類のパン、バターの塗られたトースト、艶としたジャム、芸術的な形のオムレツと色鮮やかなサラダ、ハムとチーズの大輪のような皿、紅茶とコーヒーと冷たいミルクとフレッシュジュース、ヨーグルトにフレーク、果物まで並んでいる。
 この甘やかし具合――そういっていいならば――と、青っちろい島の仏頂面と、眩しすぎる朝の光と、波の抜け殻が、なんだか結びつかないと意味を考えても、仕方ないだろうか。
 昨晩からの思考は今でもかすかに続いているらしく、オーバーヒート気味に熱をもたせていたから、考えたとて答えが出るわけではない。目が乾くのも、そのせいだろう。
 けれどじりじりと太陽に焦がされてるように、もどかしく、口に入れたものがわだかまるほど、波の中に他人のような感覚を植え付けてくばかりの食卓は、同じ画面を繰り返しているように時が進まないのだ。進まなくて、押し込めなくて、だから、波もつい――
 なんだろう。これはなんだろう。波の咀嚼は止まり、目の前の島の様子をうかがう。島も同様に食欲がないのか、いつものように意識が遠く及んでいるのか、小さく口に運んでは飲み物ばかり飲むことを、繰り返している。
 ガチャン、ぼんやりとしていた波のグラスがひっくり返り、鮮やかな色の液体がテーブルにこぼれた。
 はっと立ち上がると、島と目が合ってしまった。