Home Sweet Home 131


「もういい」
「あたし、先生のことがちょっとわかったんですよ。先生、悪い人じゃない。すっごく優しいし。いい人だった。冷たくて意地悪かと思って期待してたのに。とんだ期待外れで。これじゃ、誰にも言えないよ」
「幸嶋さん、やめなさい――」
「先生がいい人だった、なんて――言えない。言いたくない。だって言ったら、みんな――あたし」

 熱っぽく止まらぬ舌が告げる端々に、未練がにじみ出てる。
 島が止めようとすることが、かえって波を怖気付かせ、止まらなくした。気が付いたらぼたぼたと涙が流れ落ちていて、カップの中に塩辛い一滴をこぼしていた。ああ、また泣いたりして。弱くなったら生きてけない。1人じゃ、生きてけない。さあ投げ出すんだ。自分をとことん打ちのめすのだ。すべてをぶち壊せ――

「先生のせいで。あたしは、こんなに涙もろくなってバカみたいで」
「幸嶋さん」
「先生なんて嫌いです。本当に大嫌いなんですよ」
「――わかっています」
「見返りも要求できない意気地なしのクソ真面目な先生を見返すために――」
 波の恐怖が伝播したかのように、島が語気を強めた。
「耐えることは気高くも崇高でもない。甘美さに騙された醜いものです」

 はっきりと伝わる言葉の羅列。文字通りの意味。その一元的な側面。どうあがいても、波にわかるのは波の側だけど、もう追求してはならない。島の側に寄ればまた子供に逆戻り。大人になれ。大人に。1分1秒でも早く。
 波は今本当に、自分がちっぽけな、ただの子供でしかないことが辛かった。
「もっと大人になります。だから心配しないでください」
「……本当にあなたは」

 滴り落ちるしずくが、柔らかく葉の上をすべるほどの弾みで、波の隙間に潜り込んでゆく。島の言葉は、波の隙をたやすくすり抜けてしまうのは、どうしてだろう。

「醜い」

 苦く、どろりとした嗚咽のようなものが逆流しかかるのを、揺れたコーヒーの香りが誤魔化した。震える膝頭を見ないふりをしたが、果たしてできていたのだろうか。

「醜い人間に価値はない。愚かさに惑わされ、本質を見失うのが学生の性だとしても、その中に甘んじるなど愚鈍これ極まりない。あなたが今それに満足しているというのなら、僕はもう何も言わないが」

 全身を駆け巡るように鳥肌が立つ。嫌悪感のような、憎悪のような、疎ましい感情が毛穴から放出されるようだった。

「もしわかっていないのだとしたら、もっと尊い人になりなさい。何度も言わせるな。あなたは背を見せてはならない。あなたは前を向く。そしてこれまで踏み越えたもののことなどいちいち考えるのはやめるのです。だから僕への義理など抱えなくていい」

 島はただ。
 波とは全く別次元で、物を言っていると感じた。それは驚きと、尊敬と、恥じと、苛立ちと、軽蔑とがない混ぜとなった、初めて島の講義を受けた時のような感覚を呼び覚ました。
 島の言葉はいつだって痛烈で、いつだっていたわりの修飾語など持ち合わせていなくて、島の言葉に内在する誠実さは――醜い人間には理解できないものなのだ。

「はは」

 愚かな乾いた自嘲が鼻をつく。
 眼圧があがって、じんじんとした。
 そうだ。今の島にとって、波は醜く、愛を与えうる対象ではなかったとだけ解釈すればいい。
 だから、だから、先生は精一杯の優しさと人としての愛情で、あたしを送り出そうとしている。
 先生としてできる限り、あたしのことを見逃そうとしている。
 そう考えて。
 違う、違う、なんて言ったらいいのだろう。
 そうじゃなくて。
 あたしは。
 あたしの未来は。
 あたしはこれから。
 あたしは尊く。