Home Sweet Home 130


 夜のように静かに横たわる沈黙は、気怠く、湿気のような煩わしい重さがあったが、波の意識へ向け、呪文のように問いかけている。

 ――有終の美を飾ってはいかが?

 思い返しては捨て、答えを選んではまた投げ捨て。選択肢を選ぶというのは、思うほど簡単ではない。勢い余って選んだことはたくさんあったが、それでも、自分の選んだ道という充足感があった。けれど今度は、全力で投げ出さねばならない気鬱に気圧されている。おのれの感情を、おのれの欲望を。完膚なきまでに吐き出し、打ちのめす覚悟がいる。
 暖かいカップの中に注がれたコーヒー。その漆黒の表面、見えなくとも映っているであろう自分の姿を、探す。
 くっと、眉を寄せた。

(何も映すな。ぐるぐると回して、震えながらでも、もう一度、必死で、飲み込め)

「あたしは、ちゃんと、理解しています。でも、未熟なので、うまく言葉をつなげませんが、でも、結論から述べれば、先生に、感謝しています」
 支離滅裂なのに、島は指摘しなかった。ぺこりと下げた頭が、涙の重さにひきずられるように垂れてゆく。
「本当に、先生には――」
「明日の引越し、手伝いましょう」
「それは! いいんです。これ以上は…これまでして頂いた分で充分です。本当に全部自分1人でやれるくらいのことですし、特に手伝って頂くこともありませんから」
 島が波をじっと見てるのを感じる。波は慌てて次の言葉を探した。島の視線は波を困らせる。
「どうして――」
「どうして、と言われても。一応責任がありますし」
「いえ、そうじゃなくて、あたしが言いたいのは……」
「ああ、ご心配なく。あなたの新居まで追いかけたりしません」
「――つまり、早く追い出したい、とか?」
 半ば冗談めいて波は言ったが、島の顔は変わらなかった。
 波はこわばった表情を隠すために、髪の毛に手をやった。
「明日は朝早いです。先生も早く寝ないと。先にお風呂、入ってください。あたし最後のこのおうちのお風呂楽しみたいので後でゆっくり心ゆくまで入ります。明日からまた貧しい生活だなあ。ゴージャスライフも最後だと思うと、満喫しなきゃですよね」
「あなたは」
 流れを打ち切ろうとしても、島が話を続けてしまうのが、どれほど恐ろしく感じられることか。これも最後という思いがあるからだろうか。
「前を見るべき人だ」
 島は再び、波に言い聞かせている。
「僕は後ろから押すことはできても、あなたの前に立つことはできない」
「つまりそれは――」
 波は歯を食いしばって笑ってみせる。
「こんな豪華な所に住めるのなんて、2度とないってわかってるから、名残惜しいですけどね。でも確かにそうです」
 カップを持っていない方の手で、ラグをいじる。手触りのいい毛足を指に絡めては外し絡めては外し。
「確かにこの生活にどっぷり浸かったら、あたしもっと甘ったれになりますよね。でも先生には色々いい経験させてもらいました。あたし、あんな風に本物っぽいクリスマス過ごしたの初めてだったし、思いがけず誕生日もお祝いしてもらえたし。先生のご家族にも会えたし」