Home Sweet Home 129


 波は顔をあげることが出来なくて、島が立ち上がった気配を肌で感じていた。泣きながらヤツ当たりするいっぽうで、しばらく傍にいて欲しいと甘い夢を抱いていた自分が、ひどく惨めに思えた。追い出されなかっただけまだマシ。また自己嫌悪で落ち込む。だからあたしは「甘ったれ」と呼ばれる。
 さすがに硬い大理石の上に座ってるのは、居心地悪かった。島がいないこの隙に、泣き止もうとドレッシングルームに入る。ようやっと点けられた淡い光に照らされて見る己の顔を見る勇気がない。わざと冷たい水を出して、ばしゃばしゃと顔を洗い続ける。ひりひりするほど肌に冷水が当たって、身の引き締まる思いがした。本当に、19にもなってびいびい泣いたりして。やや呆れながら見上げると、ひどく惨めな顔が映ってる。情けないと息が出る。もう部屋に戻ろう。そこで島と鉢合わせた。
「……」
 沈黙が流れる。
 なにか言うべきか。恋人同士や兄弟同士の喧嘩とは違う。島はなぜか手にマグカップを2つ持っている。波が戸惑いつつも腫れぼったい目をパチパチと誤魔化していたら、静かに「コーヒーでも飲みませんか」と誘われた。一瞬迷ったが、波ははいと返事した。島は片方のマグカップを突き出した。そして再び廊下に腰を下ろした。
 ここで飲むつもりだろうか。波がちょっと様子を見ていると、島は寛いだように玄関ラグの上で足を伸ばしている。品行方正な島にしては珍しい。どこかやぶれかぶれにも見えて、けれど島自身にその気配はない。
 なんとなく、波も真似をして、ふかふかしたムートンのラグに座った。通路の壁にもたれて島と向かい合うように腰を下ろすと、島がカップを手でもてあそんでいるのが見えた。
 過ぎたことが、もうどうでもいいような気になってきた。もちろん恋の痛みは消えない。すぐに出てきて苦しめる。けれど波の中の大人びた部分が傷みは時と共に忘れるものと諭しにかかって、この時間を壊すのを止めた。波はひとくちコーヒーを口にした。アーモンドのいい香りが広がった。この家に来て波が好きになったコーヒーだった。
 お酒もまわっていたし、夜も遅い。泣き疲れた後のだるさが、暖かいコーヒーと共に眠気を誘った。このままごろんと横になってしまいたい。
「飲み過ぎました」
 島が、ふいに口火を切った。
「そうですね」
 この言葉に、いったいどんな意味が含まれているのだろう。いや、もう考えるのはよそう。終わったことだ。すべては過去に流れるのだ。
「明日でいよいよ、この生活ともさよならです」
 そんなことを呟いて、コーヒーを再び喉に送る。でも、飲み込めない。さよなら、と自分で言ったことが、喉につかえてる。かわりに匂いを胸いっぱい吸い込んだ。勢いで、流れていった。
「先生にはご迷惑いっぱいおかけしました」
「いえ。こちらこそ」
「……」
 淡々と進む。これがきっと大人の世界だ。大人の世界では感情の起伏を最大限抑え、謝罪も淡々とこなされる。それが常識で、それが生き残る為の手段なんだ。
 きっと。