Home Sweet Home 126


 特に日付を延ばす理由もなく、波の引越し日はそれからすぐに決まった。
 新しく買わなければならない大きな物はそのまま新居へ配送を頼んだし、残りは島の家にあるこまごまとした物で、引越し業者を頼まなくても全部自分で運べる。つまりは、波のこころもち1つで日取りは決まった。
 波がその日を告げると、島はあっさりと頷いて、予定を立ててくれた。最初は駄目だとか都合が悪いとか言ってたはずなのに、特に何もなく受け入れられたことが、また胸に重く沈む。


 島が連れて行ってくれたのは、あの、初めて2人で行った鮨店であった。
 気取ったところもなく、意識した女性を連れて行くムードでもないけれど、かといって大衆的な回転寿司ではないし、適当な感じは受けない。結局は島がここを気に入っているという事実によって、選ばれたのだろう。
 始まりと終わりに行くというのも、乙なのかもしれない。
 二度と踏み入ることのない所で、二度と味わえない味、二度と見ることのない嗜好品が次々と現れた。
 再びカウンターで、初めて訪れた時のように気ままに、それらはおおいに食され、初めての時と同じ感動をもって波の胃の中へと仕舞われた。
 そして、楽しい宴、これは祝いなのだと強調するように飲めない酒をあおる島につられ、波も複雑な胸中を誤魔化すように無理やり飲み続けた。
 店を出るころにはすっかり、自分勝手な感情でささくれだって、同時に、満たされた。
 ほとんど、会話した記憶も、何もなくあっという間に終わって。
 島とつかず離れずの距離で波は歩き続ける。
 島はしっかりと歩いているようでいて実は、酔った時の妙な気負いだけでぐんぐんと進んでいるのがわかる。だからともすると置いてかれそうになるほど歩みが早く、波は小走りに、けれど横へ並ぶほどの勇気もなく、ただ従うしかできないまま続くだけ。

 ――どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。

 何度も言い聞かせ決めたことなのだ。そして決めなくてはならないこと。いっときでもこうして共有できる時間や思い出があれば、波の胸に残っていれば、それは幸せではないのか。少なくとも今はまだ波は『こちら側』にいて、島もそれを許してくれる。今を大事に幸せに思っていなくてはいけないのに。
 もちろんそれが過ぎれば、過去の遺物として、もっと言えば過去の汚点として、島はきっぱりと断ち切るだろう。断ち切らねばならない。そこに波が寄りかかり甘えることは人として卑怯な手段になるから。
 だからこそ、明日までは一瞬でも惜しんでいればいいのに、考えるのは、後のことばかりなのだ。
 島の奥底の素顔というものを垣間見るようになってから、波の中からは意地悪で冷たい島の姿は消え、口下手だけど温かな人間が姿を現した。時に見せる深い優しさと紳士で真摯な態度に胸が焦がれるようになった。遅まきながら恋していると気づいてからは、それまでが嘘のように理性がはがれ落ち、島への思慕の念で行動を規制できなくなった。切なくなった。島の家に住んでいるだけの自分じゃ物足りなくて、島の部屋の前で立ち尽くしたこともあった。
 目の前を急ぐ島は、でも、いつもと変わりなく、波が去ることをただお祝いだと喜んで酒を飲んだだけだった。なんの意味ももたないのに、最後だからと自分にしかわからない位ほんのちょっとお洒落をした浅はかで乙女チックな衝動が、我ながらおかしい。今ははっきりと苦笑が出るけれど、店に行く前から緊張しっぱなしだった。