Home Sweet Home 125


 最後、という響きがこんなにも辛いなんて、なんて残酷な人だと波は哀しく笑った。
 島のこんな嫌味な笑みが見られるのはむしろ有り難いのかもしれない。作り物みたいな顔の人間が、作り物の笑顔を見せると、それは悪意にしか見えない。いつもは無表情のくせに、急に人間らしくなっている。波はこころが冷えてくのを我慢して、その笑顔を受け止める。
 でもそう望んだのも自分であるとわかっている。これ以上優しくしてほしいとも、何かが起こればいいなどとも願っていない。だからあたしはきっぱりとこの恋心に別れを告げると決めた、その気持ちを後押しする島の態度に、満足してしかるべきなのに、それでも波は島を恨みそうになる。あいも変わらずままならない自分のこころに振り回され、気持ちを左右されてるのは、未練とするにも浅ましい。
「お祝い……してくれるんですね。最後に」
 こんな言葉が言いたいわけじゃなかった。もっと落ち着いて、もっと冷静に、まるで興味ないくらいのテンションで――負けず嫌いが邪魔をする。
「じゃあ、お言葉に甘えて、連れてっていただきます。もちろん、ご馳走してくださるって期待していいですか? それとも、お金が入ったから、これまでのお礼したほうがいいですか」
(あたしってつくづく可愛げないな)
 話しながら損な性分だと呆れる。でも、やっぱり無理らしい。今も必死で。余裕ぶってみせるのに、手一杯だから。
 すると島は、予想もしないことを口にした。
「あなたに払っていただくつもりはない。それに――これまでの費用も返済する必要はない」
 急な提案に、戸惑いと、なぜか島の拒絶を感じた。突き放すような言い種を波は負けじと拒絶しかえした。
「それはできません。先生に借りを作ったまま、それもしこりの残りそうな金銭問題なんて、とてもじゃないけど許容できません」
「では返済不要を認めた誓約書でも書きますか。法的効力は弱いが、少なくとも僕の言質は取れる」
「やめてください。あたしはそんなものが欲しいのでも、お金を誤魔化したいわけでもない。先生にはご迷惑おかけしないように、口座に振り込むとか、郵送するとか、そういう風にしてけしてのこのこお邪魔するようなことはしません」
「今後僕にかかわりを持たれては困るんです」
「――そ」
 れ、は、とぽろぽろ言葉がこぼれた。
 何度も、何度も、突き放されてきた。もうこれ以上、辛くなんかならない。ひどくはならない。そう思ってきた。
 それでも、島は何度でも、今まで以上にも、波にとどめをさす。
 また体中の力が抜けそうになる。
「そ…そんなこと、されたら、あたし、あたしこれから一生、先生に負い目を感じてかないと…ならないじゃないですか……」
 もう負けない。もう逃げてはならない。もう島を安い男にしてはならない。だから、波は強くならねばならない。好きな人のために。好きな人を好きな人のままに置くために。
「こころでは、負けても、お金とか、そ、そういうのは、やだ」
 島はふたたび渋い表情で、青白い波を厳しく視線で押し返している。
 ああ、わからない、わからない、わからない――!
 島の視線を払うように、波は手を振った。
「だったら、借金してでも、今すぐ返す! 返します! それならいいでしょう!?」
「あなたが生活できなくなっては困るんです」
「じゃあどうしろと言うんですか。お金の負い目と、精神的な負い目を負わせて、自分にはもうかかわらないでくれなんて、あたしはどうしたらいいんです。先生が二度とあたしにかかわって欲しくないって言うなら、あたしは死ねばいいんですか」
「馬鹿なことを言うな」
「でもそういうことでしょう!」
「みぞだ……」
「なに!?」
「――いえ。もう無意味なことです」
 ゆるやかに引き潮が攫っていく、その跡だけ残して、じくじくと見えない感触を奪っていく。島は波を置いて、ひとり、完結しようとした。
「あなたは少し疲れていますね、休んだほうがいい。冷蔵庫にはいくらでも食べ物がある。欲しいものはいくら頼んでも結構。せめてここにいる間にだけは体を壊さないでください。僕の責任になる。では引越しの日が決まったら、ご連絡を」
 矛盾だらけの島の言動は、もう波の理解値を超えていて、今この状態で把握することはなおさら不能だった。
 波は諦め気味に声を漏らした。
「先生が、わからないよ。先生のこと、一生懸命理解しようとしてきた。ちょっとはわかったとこもあった。でもあたし、先生がなにを望んでるのかわからない。あたし、どうしたらいいんですか。あたしは、どうしたら先生の迷惑にならないんですか。あたし、どうしたらちゃんとした学生で、いられるんですか……」
 ぐったりと、屈みこんで、呻くように。両手をまぶたに押し当て、答えを探す。こんなどうしようもない人間で、先生はあたしのこと迷惑がって、でも優しく気遣って、でもかかわりを持ちたくなくて、でもどこか――
「少し休みなさい。余計なことは考えず、引越しのことだけ考えなさい。それが今一番僕が望んでいることです」
 島はさっき、なんと言ったんだったか。なにを無意味だと言ったのか。
 波が出ていく最後の晩餐は、祝いとして島が外食へと連れ出してくれるという。それだけで、良かったのだろうか。