Home Sweet Home 120


 よろりとたたらを踏んだ。
「いい加減にしなさい」
 見上げる島の瞳には、狂気にも似た強い昏さが宿っている。こんな島は初めてだった。律に怒鳴った時でさえ、こんな底しれぬ憤りは見せなかったろう。それなのに胸が高鳴って声が出なかった。遠くに押しのけるように島が力をかけるので、波は動くこともできない。くちびるを噛み切ってしまいそうだ。でもおかしくなりそうなほど、切ないのだ。胸がときめくのだ。
「仮にも負い目を抱く相手に――どうかしてますよ。どうせなにも出来ないと高を括っているのでしょう」
「あたしは」
「あなたは勘違いしてる。僕は男だし男なんて考えることはみな同じなんです。長いこと恩を売った見返りを今ここで要求することだってできるとは思いませんか」
「――冗談はやめて下さい」
「冗談だと思いますか? 僕が本当になにもしないと」
 波は息をのんだ。島は影がかぶさるように波を見下ろしている。波は自分の行為が馬鹿げていたことを認めた。見えない下心があったのかもしれない。誘惑に負けてくれないかと。今でさえ、もし島になにかされてもそのまま受け入れてしまうかもという下卑た打算があることを否定できないのだ。それが恥ずかしくて、知られたくなくて、もっとくちびるを強く結んだ。あたしはいったいどうしてしまったのだろう。自らを切り売りするような真似して。相手を強く押し返すことも自分から受け入れることも出来ずに、ただ事態を膠着させたままでいることしかできなかった。怒気を孕んでいてさえ島の息づかいに強く惹かれてしまいそうだと、恐れ、波は思わず目をぎゅっとつぶった。波の心臓が体を揺さぶるほど脈打っていた。
 突然深い溜め息が聞こえて、波の肩が軽くなり冷たい陰が消えた。全身の強張りを解くように目を開けると、島が元いたソファで額に手を当て、くつくつと喉を鳴らしている。なにがおかしいのだろう。本人にさえわかるのか怪しいくらい奇妙なわらい方だった。それを見ていると、波の体は体温が抜け落ちてくみたいに冷めてった。今日の島はまるで別人のように感情が豊かであった。
「少しは自分の無防備さを理解しなさい」
 指の隙間から、きらりと鋭い視線が飛んでくる。
 島のガラス玉の瞳が蔑むように波を見ている。
「何度も申し上げたでしょう、あなたは他人を信用しないかわり、いったん内側に入れると信用しすぎる。以後は注意して、他人に隙を見せない方がいい。安心しなさい。僕が学生にそんなこと、するわけない。そう、あなたは学生だ」
 ――『学生』。
 バラバラと崩れ落ちる欠片。目が痛い。胸が痛い。心が痛い。波は痛みをこらえる嘆きを吐き出さぬよう、てのひらで口を押さえた。波も笑い出しそうだった。欠片が落ちていくのが見えるようだ。闇に突き落とされたみたいに暗い衝動が波を包む。落ちてるのは心なの。それともあたしなの
 腹の底から冷たく燃え上がるような絶望がこみあげて、同時に、島の本音を見つけてしまった。気付きたくなかった。知りたくなかった。でも、わかっていた。お陰で、自分がどれだけ島の生活を乱しているのか再認識させられるけれど。
 ああ――もう、いけない
 これ以上ここにいたら、狂ってしまう――あたしも、先生も
「あたし、保険がおりたんです」
 血の命ずるままに喋る。
 目が見えなくなったように熱を孕んでる。視界が映らない。
 でも手探りで今日銀行からおろしたばかりの封筒を取り出し、闇雲に突き出す。「これ、まだ足りないけど、一部、お返しします」受け取る手が見つからなくて、感覚だけを頼りに伸ばしたら、体の一部に手が触れた。慌てて手を離してしまうと、ぽとっと封が落ちる音がしたけど、それを拾いあげる者は誰もいなかった。
「お金、できたから」
「……そうですか」
「あたし――家を、探して」
「はい」
「ここを、出ていきます」
「……はい」
「一日も早く」
「はい」
「気が変わらないうちに」
「はい」
「それで、いいですよね」
「……それがいい」
 自分でもよくわからなかった。
「それがいい」
 もう一度呟かれ、会話は終わった。
 ぽろり、と一粒だけ、耐え切れなかった雫が、膝頭に冷たく落ちた。口の端は笑っているというのに。
 動けない。ただ闇雲に時だけが過ぎていく。
 わかった――わからない――わかりたくない――わかりたい――わかってる……いや、わからなくていい。たぶん、波はなにもわからないのだ。その答えが1番正しいのだ。
 わからないと信じて、ここを出て行くことだけが決まった。