Home Sweet Home 108


「あ――たし、は――」
 まるで波の恋心を指摘するかのように、さらっと言いのける島が大きく立ち塞がる。
 さっと頬に血がのぼって、それが怒りなのか羞恥なのかも考える暇がなかった。
 思わず――相手の立場も何もかも無視して――手が挙がっていた。高く挙げた手は相手の頬へおりる前に、だが容易に捕まり、そこから別の熱を感じとって波はまた己を嫌悪した。
「放して!」
「暴力は何も生まない」
「やだっ」
「あなたには知性も理性もある。それに従えばいい」
「――っ」
「やめておきなさい。間違っている。あなたのは誤りです。みすみす未来を捨てる必要などない。僕に感情を向けるのはやめなさい」
 手首をつかんでいた島の手が、ゆっくりと、波の手のひらをくるみこんだ。
 ものすごい衝撃的だった。

 先生が――先生が言っているのは――まさか、あたしの気持ちを知ってるって意味?

 逃れようとする手はまだつかまれている。歯を食いしばる。

 駄々漏れだったかもしれない。それでも、相手にも同じ感情を期待するつもりもなく、必死に隠そうとして、ダメだってわかってて、ずっとずっと苦しかった。その、伝えてもいない気持ちを先読みされて、あたしは振られたってこと?

 島の表情はやっぱり能面のように動きなく、見ている側の心理でしか映らない。
 悔しかった。泣きたくて、腹立たしくて、怒鳴り散らしてやりたかった。この手さえつかまれていなければ、もう一度ぶってやりたかった。知性や理性やなんて糞くらえとばかり、左手も挙げてやろうと思った。けど、できるわけなかった。右手をつかむ島の手の上に、左手を押し当てて、もがく。なぜだか島は力をこめたまま、それが波の胸をときめかしているのが、苦痛だった。なぜ放さない。あたしを惑わしておきながら。お前に何がわかる。知ったような口をきくな。
 次々と胸に浮かぶ暴言は同時に、胸を焦がしていく。このまま引き寄せてくれたら。この手を握ったままでいてくれれば。そう思うほど、島の手は甘くくちづけさえ落としそうな熱をもって波の手を包んでいた。こころが叫ぶ。ひび割れそうなほどの金切り声をあげる。やっとのことで波は本能に打ち勝った。驚くほどの意思をもって、拒絶し、その熱から逃れることができた。呼吸が乱れ、肩が震えていた。
 波は急いで荷物をまとめると、家を出て行った。バイトに逃げた。だが全ては千々に乱れ、息が荒いのは収まらないままだ。さっきまでろくに呼吸をしてなかったのだと気づかされ、怖いと思った。バイトが終わればまた戻らねばならないと思うと、動悸は早まるいっぽうなのだから。
 ――馬鹿だ。あたしはやっぱり馬鹿。
 叫びたいほどの恥辱、後悔が全身にまとわりついて消えない。右手が熱い。拭い去りたいのに、そこには何もない。まるで島の言葉と同じ。どうしたらいい。
 幾度思い返しても島の言葉は恐ろしい。知っているかもしれない。まさか波の気持ちを理解してるかもなんて。あんな人が。あんなアンドロイドが。いいやアンドロイドじゃない。あの人は血の通った人だ。知ってる。怖いんだ。あたしは怖い――
 卒然と携帯が着信を告げて、波ははっと息を呑んだ。なぜか不安のような暗雲が立ちこめた。
 知らない番号からであったが、波の勘は如実にその正体をつかんでいた。
「――はい。……ええ、はい。……わかりました。ありがとうございます」
 用件を聞き終え、話し終えて通話を切った時、波の体は半ば脱力していた。
 一応満足いく額が保証されるとの保険会社からの素っ気ないほどの連絡である。散々待たされ、苦労させられ、1日も早くと願っていたその連絡が、馬鹿馬鹿しいほど呆気なくやってきたのだ。
 保険がおりるということは即ち、借金を返し、ようやく出て行けるということ。
 手に握りしめた携帯を、そっと脇に置く。
 手から力が抜けたと言った方が正しいかもしれない。

 ――出て行くべき時が来た


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