Home Sweet Home 106


 目が覚めると、痺れるような疲れが全身に残っていると感じ、何度か瞬く。
 窓から差し込む太陽は存在するのに、天気はよくないようだ。ゆっくり息を吐く。たしかな覚醒を待ってから、暖かなベッドの温もりを後にした。
 重い体でのろのろと支度する。
 今日も午後からバイトを入れている。
 さすがに連日のフルタイムは疲れて、半日にしたのだ。
 しかし、寝坊したと言っていい時間に起きたのに、体はついていきたくないと言ってるようである。波はまた息を吐いて、意を決するように部屋を出る。
 幸か不幸か、島の姿はなかった。この時間だ、おそらく出かけたのだろう。
 複雑な胸中で食事を済ませると、ふらふらと引き寄せられるように開けっ放しの書斎に入り、座り心地のいい回転椅子の上でくるくると、これまでのことを思い返してみた。
 1日1日がめまぐるしい初めてのことばかりだったせいだろうか。ここへ来てからさほど経っていないはずのことが、ひどく懐かしいような心地で蘇ってくる。
 ほとんどどうでもいいような思い出が、たったひと粒の芥子のように小さな言葉が、全部、波の中に収まってしまわれている気がする。
 冷たくて、あたかかい。意地悪で、臆病な。人のこころを持たぬようで、本当はひどく優しい……。
 人の表裏はわかりやすいとも限らない。だけれど、そんな難しい人だからこそその深層を垣間見ることができた時、真理を紐解いたような喜びとともに、頑な波の中にもすうっと溶け込んできた。そう、波は、島のことを、ちょっと自分に似ているなどと考えていた。考えて、恐れた。時々、気持ちがわかるような気がしてしまうから。思った以上に、相手を理解してしまうから。理解してしまえば、他人で終われる関係を、踏み越えてしまうと危惧したから……。
 でも、後悔しても、この感情のことまでを否定することはできないのだ。
 好きになってしまったことは憎くても、好きだという気持ちは憎めない。それで、波から溢れてしまうのだとしたら。
 そんな波を見て、王子は言ったのかもしれない――女の顔をした波、と。
 そこまで考えて、こんな時にまであいつの顔が浮かんでくるなんて、と波はうんざりした。そのくせ、なんで思い立ったのか、急にバタフライ効果について調べてみる気になった。新年会と称した波の誕生会の時、言われた言葉だ。結局、忘れられないでいる。

 “ブラジルでの蝶の羽ばたきが、テキサスでトルネードを引き起こす”

「……なによ」
 カオス力学においての比喩らしい。要するに『風が吹けば桶屋が儲かる』的なことのようだ。しかし、意味はわかっても、王子の意図はわからない。
 王子はもともと理系なのか、思考飛躍や言葉の使い方がときどき直感的で、理論的ではあるものの順序立てた演繹(えんえき)的思考タイプの波には、彼の帰納的な考えが理解しがたいことがままある。
 でもだからこそ、直感で物事を突くような彼の言い種に、波の真実が潜んでいるとも考えられる。
 益々うんざりした波は、椅子の柔らかな背もたれに倒れ、ふうと、伸びをした。
 なんでこんなものを覚えていたのだろう。波はぼんやりとまた、思考を巡らせる。
 突き詰めていけば、王子の考えが知りたいわけでも、言葉の意味が知りたいのでもない。
 結局、記録をしようがしまいが、一度自分でこころに留めてしまったら、その言葉も、感情も、忘れない。

 ――その、なにに自分が惹かれたのか、どうしてこころに留めてしまったのかを、あたしは理解したいのかな。

 今の自分のことを、知りたい。
 何が正しい。どうすれば前を向ける。
 でも目の前に先生がいて、あたしは前を向くことができないとしたら……
 不意に手遊びで触れていた机の抽き出しが開いて、慌てて閉じようと見た。