Home Sweet Home 101


 ――あ

 そこにきて波はいきなり、すとん、と足の力が抜けるのを感じた。
 波は、床に尻餅ついていた。
 島はコトン、と眼鏡を置いて、勝手に尻餅ついている波を振り返る。
 いつも冷たく光ってる眼鏡のない顔は、険しそうにしている瞳が細められ、多分かなり目が悪いのだろう。苦悩のような表情を漂わせ、普段より尖って見えた。その目と、もろに視線がぶつかった。そんな強い視線がじっと注がれると、床に手足を釘で打たれたみたいだった。
 なに、これ。動かない体は痺れて熱いのか冷たいのかわからない。なに、これ。波は何度も同じ言葉を繰り返す。眼鏡のはずされた素の瞳に、見てはいけない深淵を覗いたような感覚を抱く。
 ――いやだ
 波はびりびりとする体を叱咤した。見るな、そんな目で見るな、そう思いながらも自分の方こそ島から目が離せない。島は眉間を少しつまんでから、転んだのですかと波に手を差し出した。その手をつかむかどうか迷っているうちに、島は波の二の腕を支えて、さっさと立ち上がらせた。
 ふわっと感じたくらいで、いつの間にか起こしてもらっていたことに気づいた波は、信じられぬ動揺にまだぐらついている。呼吸を、整えなくてはならない。必死で意識しないようにとテーブルに手をつき、荒く息を吐く。心臓に手を当ててみると、どくどくと信じられないスピードで胸を叩いている。
 波は自分がどうしてそんな風にドキドキしてるのか、知ってるくせに認めるのが嫌で色々と難癖をつけて否定しようと努力した。だが考えれば考えるほど目の前で訝しむ島の意識が実体化していった。
 ――馬鹿だ。あたしは度し難い愚か者だ。
 誤魔化そうと大笑いしようとしたのに、うまく笑えない。顔が引きつって、かろうじて泣かずに済んだ。
「目眩なら鉄分不足ではないですか。自炊なんてするから、少し――」
「け――結構です」
 椅子へ導こうとする島の手を身をよじってふりほどき、後ずさる。だめだ。こんな風にしたら、全部台無しだ。我慢しなきゃ、耐えなくちゃだめだ。だのに体がいうことを聞かず、逃げるように後ろを向く。
「は―――早く、ケーキ食べましょうよ」
 声が震えて、まともに喋れてない。だけど、逃げるわけにはいかないのだ。今ここで、逃げるわけには。
「それとも僕が――つけいっているのだろうか」
 小さく発せられた島の呟きが、波にわからない抑揚をもたらす。
「ケーキ、先生が作ったものですか」
「――ええ」
「こんなもの作る暇があったら、先生なんだから、他にすることいっぱいあるのに。先生は馬鹿です」
「…」
「先生は、馬鹿です」
 嬉しいのか。悲しいのか。恥ずかしいのか。怒りたいのか。それすらもわからない。
「先生は、大馬鹿だ」
 ――本当の馬鹿はあたし
 波は背を向けたまま、必死で耐えた。
 あまりに長い間、置き去りにしていた感情だった。
 あまりに突然に戻って来て、わかるはずもないではないか。
 ――だって先生のことが、好きになってたなんて
 島に取り繕った顔を向けられるまで、波はずっと、背を向け続けた。