情けない声でお伺い 後


 これがラストチャンスだ、と思うと、案外冷静に、計画的になれるものである。
 永輔はあれからなるべく絵美の機嫌を損ねないように、下手に勘づかれぬように、危ない真似はしなかった。そのせいか、絵美は安心したように永輔と遊んだし、ご機嫌もすこぶるよろしかった。
 永輔が決戦の日と決めたその夜は、絵美と焼き肉を食べに行った。
 焼き肉を食べる男女はもうできているなどという伝説が永輔の頭の中をちらりとかすめたが、もうすぐ俺たちもそうなるのだと思うと永輔のテンションは簡単に上がる。自分は酒を飲んでるふりだけで飲み過ぎないようにいたって注意を払いながら、この後のことを考えると、緊張のあまり、幾ら飲んでも酔えそうにないのである。そして、絵美には「俺が甘くて美味しいカクテルを作ってやる」などと、ハチミツやジュースでうまく誤魔化しながら、通常の倍量の酒を入れたものを作って飲ませ、なんのかんのと勧めて、完全に酔っぱらわせてしまった。それを見届けただけでもう、鼻血が吹き出るかという態であった。
 だが、ここからが、本番だ。
 これまでの準備など、この後のことに比べたら、前戯にも等しい。
 自分で思った『前戯』と言う言葉に自分自身で敏感に反応し、卑猥な笑みを感じると、若干厳しい目つきの店員をやり過ごして店を出、ぐでんぐでんの絵美の手を引き夜の街に繰り出す。
 目指すところは、当然、ラブホテルである。
 ごくり、と永輔は唾を飲み込んだ。絵美の手を握る自分のてのひらも軽く汗ばんでいる。知識としてはいろいろ知ってはいたけれど、本当に入るのは初めてだ。考えていると硬直しそうな自分がいるが、絵美の千鳥足と比べれば自分のこのしっかりした足取りに自信が湧いても来る。いや、自信じゃない。期待だ。期待だけではち切れそうな気分と股間がじんじんと疼いているのだ。とと、やべえ、俺はこんなだから失敗してきたんだろ。とにもかくにも絵美を逃げ切れない状況にするまでは下手を打ってはならない。絵美に「だいじょうぶか? 歩けるか? 休むか?」「休むならこっちがいいぞ」などと何度も繰り返しながら、さりげなく怪しげなネオン街へと移動する。薄汚れた汗とともに永輔の体からはほとんどのアルコール分が抜けてしまい、ただもうなんとかホテルに押し込むことだけを考えていた。絵美はけたけたと笑って永輔のなすがままでいる。これは無理やりじゃない、入ったからってするとは限らないなどと、嘘っぽいことを自分に言い聞かせつつ。「休もう、休もうな?」絵美が頷くと、とうとう言質をとったとばかり、建物の中に足を踏み入れてしまった。
 空気が変わった。エントランスにはひと組だけいて、あっちはもう歴戦の勇者に見えた。酔った絵美を連れ込んだビギナー永輔は内心おたおたとしながら、手慣れた風を装いパネルを睨んでみる。予め友人から聞いていた穴場(らしい)ホテルだったので、この時間でも部屋はいくつか空いており、値段もそこまで高くはない。聞いていた手順で受付を済ませ、そっけないフロントのおばさんから鍵を受け取ると、エレベーターに乗り込む。歴戦の勇者は先にさっさと上がっていて、永輔の中じゃもうおっぱじめてるかもなどと、妙な妄想が広がる。
 目的階でおりると、なるほど、永輔の指定した部屋の上のランプがぴかりと光っており、ずいぶん親切なんだな…などとわけもなく感心した。緊張してると思いたくなかったのかもしれない。どうでもいいことにばかり意識が及び、どうでもいいことばかり口にして、絵美がにゃごにゃと何か言っているが、正直なんだかわからないのにも気がまわらない。
 気ばかりが先走っていたところで、ようやく部屋に入ってみて、現実がどしりと突きつけられる。必要以上につかんでいた絵美の手が震えてる。いっぽうの絵美は凧のようにゆらゆらとして危うげだ。永輔が手を離したら、本当にとんで行ってしまいそうな、思った以上に意識が怪しい様子だ。だが、自分のことで手一杯な永輔はそこまで意識が及ばない。あるのは、先にシャワーを浴びるべきかテレビをつけて気を紛らわせるべきかだけで、そうするうち手を振り切った絵美がごろんとベッドに倒れ込むのを見て、簡単に頭に血がのぼってしまった。
「絵美!」
 ばふんと沈むベッドに自分ものりあげて、ぎらついた目を光らせる。灯りも消してないから、白く光る絵美の肌が艶かしい。
 もうすでに作戦もへったくれもない。ただもう絵美が誘ったんだなどとわけのわからないことを思いつつ、永輔は絵美の体にそっと手を伸ばす。
「絵美、なあ――」
 とろんとした絵美が永輔の股間を見ている。ように見える。いつもなら冷たく色の変わる目が、今日はまだ可愛らしい様相のまま、しかし卑猥な部分を見つめている。永輔の中に妄想がまた広がった。「永輔…脱がないの…」永輔はとち狂ったようにかちゃかちゃとベルトをはずしデニムをおろしこの日のためにおにゅうのパンツの膨らみをさらけ出した。でもまだ絵美は、目を逸らさなかった。いいのか。いいのか! 電気を消してない分、絵美の動作が逐一よくわかる。永輔は震える両手でパンツをおろした! それでも絵美は視線を逸らさなかった! そのうえ乾いたくちびるを舐めるかのように噤み、こくんと喉を鳴らしたかと思うと、うすらと口を開いたのだ!
 ……これは! これはもう、あれだ!
 最初からそんなことを迫るのは鬼畜なのかと思っていただけに、絵美があまりにも寛容だったから、酒パワー万歳と、絵美は本質はエロい子だったのだと飛躍的に想像を逞しくしてしまった。たぶん、作り物を見過ぎだったのだろうが、永輔の中にリアルと作り物の境目はまったく消えていて、デニムを膝のあたりにひっかけたままの膝立ちで、血走った目が昼間みたら怖かったろう。それを絵美の方へと運びつつ、絵美の頭も片手で起こす。ただもう強引に絵美の口に押し込もうとして、わかったように絵美が赤いくちびるを開いたかと思うと――
「え、絵美いいいいいいいいいい!」
 なぜ、電気を消していなかったのか。後悔したがもう遅い。永輔の股間へ向けて、限界に陥っていた絵美の口から、さっき食べた焼き肉だったものらしきものが、生暖かくこぼれていく様が、ありありと永輔の目に映った。


 その日、永輔はまんじりともできぬまま朝を迎えた。血走っていた目はいまや充血で膨らみ、疲れきった顔は疲労に黒ずんでいる。着ていた服は一生懸命洗ったのだが当然乾いてない。さすがにパンツだけは穿かないわけにはいかず、半乾きの気持ち悪さを我慢しながら身につけて、備え付けの検査着のようなものをまとって、汚れたベッドに寝るわけにもいかないからソファで一夜を過ごし、今に至っているのだ。
 絵美はあの後すっかりグロッキーになってしまって、もう何かを問いかけられる状態でもなかったし、そうなったのは自分のせいであった引け目もあって、できるだけ介抱はした、その疲労はひどくあった。
 だけど、そんなものじゃ済まないずしりとした感情が落ちたのは、その直後だ。
 う、う、という妙なうめき声とともにぼんやりと目を覚ました絵美が、しばらくはぼうっと妙な装飾の施された天上を見上げている。
 かと思うと突然、がばりと起き上がって、その目を大きく見開いて、唾を呑む。
 目の前の永輔と、周囲の状況と、たぶん二日酔いの気持ち悪さと。
 すべてが、一度に、情報として流れ込んだのだろう。絵美はびっくりするほど素早く起き上がって。
 起き上がって、部屋を飛び出しにかかったのだ。
 ――あ、
と、永輔は力が抜けたみたいになった。
 まるで当たり前のように落ちて来たその重い感情にとらわれて、体より先に言葉が滑り出ていた。
「別れよう」
 びっくりしたのはむしろ永輔自身で、ドアをガチャガチャまわしていた絵美ははっと息を呑んだらしい。その時になってようやく、己の精神のひどさに気がついたくらいだ。上手く言えないが、ものすごく疲れて、ものすごく淋しい気分だった。俺と絵美は、きっと結ばれない運命なんだと、冷たいパンツのせいですっかり縮こまってしまったおのれの分身を意識して、でも口からはひどく冷静な言葉ばかりがするするとこぼれてくのを止められない。
「もうこういうのやめよう。絵美だって疲れたろ。こんなとこ連れ込んだのは俺だし、下心がなかったって言ったら嘘になる。正直に謝るよ。言い訳もしない。そんかわり何もなかったのはほんとだから、安心してくれ。けどさ、そんでさ、すべてが丸くおさまるかっつったら、違えじゃん。今日のこと、ずっと2人の間に残るだろ。おまけに、俺はこういう男だからやめらんねえし、絵美はそういうの嫌いだから逃げ続けるわけだし。お互い腫れ物に触るみてえにぎくしゃくしてさ、気づかないふりしてさ、そんなのやじゃん。絵美が辛いのわかってっけど、俺も嘘つけない。俺は自分が辛いのがやなのかもしんねえ。卑怯で、自分勝手で、最低って罵られても仕方ねえよ。俺もう、なんか精神的に参っちまったのかも」
 乾いた笑いのようなものがはりついて、泣きたいような寂しさがまとわりついた。漂う冷えた空気に、永輔は逃げ出したい思いに強くかられた。辛うじてとどまっていられたのは、やっぱり絵美に対する想いが強いからだった。
 でもこのままでいられるわけなかった。せめてチェックアウトの時間前には、早朝と呼べる時間のうちには、ここを出て行きたい。それも勝手なのだろうか。冷えた体に無理やり、ひやりとする重たいデニムをはこうと足を踏ん張った。そうでもしてないと、永輔は、泣き出してしまいそうな気分だったのだ。
 しくしくと、泣く声が聞こえてきた。当然だろう。絵美からすれば、ひどいことをされかかったうえに、勝手に「別れよう」なんて、最低のシーンだ。ラブホテルで別れるカップルは、どのくらいいるんだろう。絵美の方を見ることができずにデニムと格闘し続けていると、急に、冷えたデニムがずりずりと、ずりさがった。
「ごめん、永輔、ごめん。違うの」
 何故だかデニムにぎゅうとしがみつく細い腕が見えて、はっとする。
「ほんとは私、嫌だったわけじゃないの」
 みっともない姿で振り見れば、永輔の中に弾かれたような後悔を生む絵美の姿が映る。
「どうしていいかわかんなくて。恥ずかしくて。本当にいつも混乱しちゃってたの。いい加減、よくないってわかってた。だから昨日は、ちょっとうすうすわかってて、それで、お酒の力を借りて、覚悟を決めたつもりだった。そしたらすごい酔っぱらっちゃって、もうなにも覚えてないけど、でも今朝の状態を見て、たぶん失敗したんだってわかって…。永輔がすごい怒ってるから、それで、それで、また逃げるしかないって考えちゃって……」
 ごめんなさい、ごめんなさい。別れられても仕方ないってわかってる。でも本当の気持ちを知らないまま去られるのは、嫌なの。絵美は泣きながらずっと謝り、永輔のデニムにしがみついていた。足もとでわっかを作ってるデニムと絵美。パンツ一丁で突っ立っている永輔はその告白にぽかんとして、それから、さっきまでの自分のくだらない覚悟に、こんな姿で真面目なことを喋っている2人に、馬鹿馬鹿しいほどの笑いを覚えていた。
「絵美!」
「はいっ」
 唐突に怒ったように名前を呼ばれた絵美は、びくりと体をふるわせて、そうして縮こまる。
「俺やっぱ絵美が好きだ」
「えっ」
 永輔はははっと笑ってその場にしゃがむと、絵美を抱きしめる。
「ごめんな。俺が悪かった。絵美のこと、わかってたのに、わかってなかった。絵美がそんな勇気出してくれてたって気づかなくって、俺、勝手にいろいろ諦める気持ちになってた」
「……」
 絵美はまだ泣いている。
 優しくなでてやりながら、永輔は言う。
「あのさあ、絵美」
 はくしゅんとくしゃみをひとつ、ムードをぶち壊してからあっさりと告げられるのは、もうどこにも取り繕う余地がないからだ。
「勝手なことばっか言っておいてなんだけど、あの、いちおう、別れるって言った手前、いったん別れよう」
 ぶるりと震えた体を、逃がさぬよう両腕に包み込む。
 それから、部屋と己の惨状をあらためて見て、ああ、とちょっと情けない声で付け加えた。
 ――そんでまた、酒の力借りて、俺と付き合ってくんねえ?
 お酒なんかいらないよ、としがみついた体が、とてもとても温かかった。


おわり