必死な愛撫も空回り その後


 今だから言えるのは、数年前のアタシはどうしようもないガキだったってことだ。
 だけど、そのお陰で今があるってのも確かだと思ってる。でなきゃアタシはエリートと知り合えなかったろうし、エリートと恋人になることも無理だった。だからアタシは自分の人生に後悔も悔恨も負い目もない。いや、そもそもそんな風に生きてきたわけじゃないから、その言い方はおかしいな。
 いつだってアタシは自分が正しく生きてるって信じてる。
 それが揺らいだことはないってのが、昔も今も共通するアタシの生き方だ。
 アタシはこんな性格だし、夢見ることもないかわり、疑うことも少ない。弁護士であるエリートの言い方を真似すれば、“ようやくみなしでなく成年になり社会的責任も法的に負えるし覚束無くも社会活動を送るようになった”というアタシは、心根は変わってないけど、少しは大人ってもんになったんだろう。ようするに社会人になったってことだ。エリートにとっちゃ、肩の荷がおりたし、まっとうに付き合う相手として遠慮もいらなくなったってことでもある。対するアタシは、一生で一番惚れてる男と付き合い続けて、何を言われなくとももうあいつの妻になる決意を固めてしまってるんだから、今のアタシらのステータスは最高だ。
 そう、不思議だが、今のアタシはあいつに何か特別なプレゼントや言葉をもらって妻になりたいなどとはこれっぽっちも考えちゃいない。たぶん、アタシはそんなこと、魂でわかってるのかもな……そっちの方がよっぽど夢見てるかもしれないけどさ。いずれにせよ、疑いもなくいつかさらっと婚姻届け出して、立派な2世を産んでやるというのはアタシの中で決まりきったことなんだ。エリートが何をどう言おうと、アタシの中にはそれしかないんだから、もうすっかりと落ち着いてしまったといっていい。
 ところが。年がなんだかんだ大騒ぎして大人になるまでは子供らしくしろなどとほざいていたエリートの方が、今度は本当に大人になってしまったアタシに戸惑っているというか躊躇しているようなんだ。
 がっついていたアタシを抑えていればよかった昔と、急に阻害するもののなくなった今とのギャップに、自分の中のリズムをつかめなくなってるって言ったらいいんだろうか。
 直接的に要因があるわけじゃないだろう。ただ、エリートの中にはまるで、生まれたばかりの赤ん坊が次の日大人になって現れたくらい、どこでケリをつけたらいいかわからない壁ができてしまったみたいな、大きな迷いが存在してる。
 それを今日、アタシはどうしようもなくぶち壊してやりたい気持ちで、いっぱいだった。



 夕餉の食卓に、いつかの時と同じ一升瓶と猪口2つをどん、と置いてやると、相変わらず疑るような奇妙な顔をするエリートに、アタシは身分証明書を見せてやることにした。するとエリートは、芋虫でも飲み込んだようなおかしな格好で固まって、わかってますよ、なんて呟く。そういう問題じゃない、とも。ああ、こういう時にもすごく感じる。エリートの苦悩。アタシにどこまで触れていいのかどうかもエリートの中ではわからなくなっちまってるらしい。
 アタシはとりあえず気にした風もなく、今日はちょっと遅くなったからさっさと食べようぜと笑って、楽しく今日1日あったことの会話を始める。アタシも随分大人になったもんだから、会社じゃ立派な言葉遣いだってできるとか、どうしようもない馬鹿がいて困るとか、あんたみたいにいい男はどこ探してもいないだとか、色んなことを話して聞かせる。
 アタシがあんまり屈託なく酒を飲むせいか、エリートはよちよち歩きを始めるみたいに、おっかなびっくり相槌やら返答して、ちびちびと酒を口に運ぶのが、おかしかったけど今は無性に嫌でもあった。そのくせ、酒精にほろほろとほぐれてくと、眩しいようにアタシを見るその目つきが、全てを物語ってるじゃないか。
 それでも、そういうエリートの愛情、キライじゃないぜ。大事にしてもらってきたからこそ、わかるその気持に、アタシはむしろ感謝して、もっと好きんなる。喉が飢えてアタシは益々酒を飲み干す。
 好きんなるから、耐えられないってこともあるんだな。
 そろそろ、その理由や原因をわかったっていい頃だって、不安気にどのタイミングでタクシー呼ぶかどうか迷ってるエリートを見てると、アタシは叫びだしたくなった。
 もうアタシは心も体も立派に成長したんだ。
 ちょっとは大人の手管を使っても、許される身分になったんだ。
 だから、食後に寛ぐソファの上で、アタシはそっとあいつの体に手を回して、優しく、優しく諭してやることにした。



「悩みを聞いてやれるくらいには、大人になったと思うんだけど」
 それを聞いて、エリートは――あいつは心底驚いたようにアタシを見たあと――「ああ」と手を動かしてその場の空気を誤魔化すみたいにかき混ぜた。
「まさか姫の方から、そんな冗談を言えるようになる日がこようとは」
「だろ? だから大人になった、ってんだ。いい加減認めろよ」
「……」
 ちっと困ったようにするエリートの背中に、アタシは子供っぽく額を押し当てた。緊張した背中がすごく色っぽい。筋肉の動きがいちいち伝わって、頬を摺り寄せる。
「あれだろ。アタシが最近めっきり綺麗になったんで、それで困ってんだろ」
「――あなたには敵わない」
 そう言うとエリートはようやっと……笑ってくれた。アタシはそれが嬉しかった。だから、アタシは真面目に、じっとやつの目を覗き込んだ。
「なあ。アタシら、そろそろ前に進んでもいいんじゃないのか」
 アタシの視線から逃げないから、こいつはやっぱりいい男だって、アタシは体をしゃんと前に向けて告げる。それはエリートにとってどれほどの大きさを持っていたか、正直わからない。けど、アタシにとってそれは、思っていたよりも随分大きいことだったとは、口にしてみてから初めて実感した。少し、語気が緩んでたから。裏腹に、体は緊張してたけど。
「アタシはいつだってどんな覚悟だってできてるよ」
 指を1本立てて、やつのくちびるに押し当てる。歯列を割りゆっくりとそれを押しこむ。生暖かいその中で、ごくりと唾が飲みこまれるのを感じて、アタシは腹の底が熱くなった。
「アタシは狼を恐れない」
「……姫」
 少しの間の後、すいと引きぬかれた指を大事に抱えられながら、それでもエリートが正直に語り始めたんだとわかった。酒の力を借りていたんだとしても、アタシにはそれが弱さからじゃないってわかった。いや、エリートはとても強い男だ。
 強いって知ってるから、少しはその強情さを壊したくなることもある。
「姫。信頼して口の中にまで入ってきた者を、傷つけるのは本位ではない。けれど口を閉じるために別のものを提示したと思われるのも嫌だ。だからまだどちらも選べない」
 ふう、とアタシはひと息ついて、あっさり教えてやった。
「あんたの気持ちはわかった。だけどアタシにとっちゃ今が潮時ってやつだ。待ってやるから早くプロポーズしろ」
「!」
 あんぐりと口を開けかけたヤツの顔に、アタシは平然と息を吹きかける。
「ほら『菊、結婚してくれ』って、早く言えよ。アタシ、菊ってよばれんの、最近嫌じゃないんだよ。好きな人ができて、そいつが大事にしてくれてる名前だからな。そうだろ、――――」
 名前を呼びかけて急に指で塞がれた口は、その後かすめるように触れられてうずうずとした。
「本当にあなたには敵わない」
 急に緊張感の増したアタシはちょっとばかし逃げ出したくなったけど、あいつの手のひらに包まれてるのは悪くなかった。
「一度外れたタガは二度とはめ直せないんですよ」
「なんだよ、じゃああんたにとってアタシはタガでしかないってことかよ」
「そうではなく、姫は私しか知らないからそんなことを――」
「おい」
 アタシはぐっと目に力をこめて、牽制する。
「随分上から目線でものを言ってくれるじゃないか。だとしたらなんだってんだ? アタシの数年間を返してくれるってのか? そんな覚悟でこれまでいたのか?」
「……」
 険しい表情で黙り込んでいる相手に、アタシは怒ってないことをアピールする。
「なあ。違うだろ。アタシが言いたいのは、あんたが理由がないと進めないってんなら、アタシはなんだっていいんだってことだよ。理由を後に作ろうが先に作ろうが同じなんだからさ。けど、あんたは強情で頑固で真面目で立派な男だ。だから、自分で縛った縄に、とっくにほどけた今もがんじがらめになってる。そこから動いちゃいけないって決めつけてる。でももし今日、アタシと出会ったってんなら? それでもダメか?」
「今日出会った女性とそんな――」
「細かいな! じゃあ2週間前でも2ヶ月前でもなんでもいいよ! とにかく、今現在の身分のアタシとあんたが出会って好きで付き合ってるとしたら、それでもあんたはあたしのことどうこうしたいって思わないのかってんだよ!」
 そう言ってやれば、エリートもちょっと息を呑んで返答に窮してた。
「また何かごちゃごちゃ言うつもりなんだろうけどさ、こういうものは本能的なもので――たぶんアタシは今、あんたの子供を産みたくて仕方ないんだ。そんで、アタシは形式とか定番とか、んなもんどうだっていい。だから今ここで宣言することであんたが自分に許可を出せるってんなら――」
「姫、何がありました」
「え」
「何かあったんでしょう。正直に言ってください」
 アタシはちょっと言い淀んで口を噤む。目をキョロキョロしちゃって、なんだい。我ながら情けないったら。
「や、ちょっと今日は厄日だったってだけで、アタシはその」
「はっきり言いなさい」
 なんだよ。これじゃあさっきまでと立場が逆じゃんか!
 急にしどもどし始めたアタシに詰め寄るエリートの気迫はそれこそもう天まで昇る勢いで。勝手なとこだけ鋭いったら……
「……や、なんかさ。アタシ今日、世間的には恋愛運最強? ってえの。生まれて初めて告られたっつうか。あんまりびっくりしたもんで、逃げてきちゃったんだけども」
「……で?」
 すでにエリートの顔は険悪になってて、昔とった杵柄、尋常じゃない殺気のようなものがうっすら体から発散されてるから、アタシはますます声を落とした。
「いや、で? って言われても」
「まだ何かあるんでしょう」
 ちっと舌打ちしかけて、相手の顔見てやめた。冗談じゃすまない顔だあれは。
「ああ…えーと、ナンパ? わけわかんないヤツに飲みいこうとか声かけられて、しつこいからちょっと脅して逃げたんだよ。アタシでもそういうことってあんだなあ驚きー」
「……で」
「で」
「誤魔化さないで。はっきり全部白状しなさい」
「……」
「姫!」
「か、帰りの電車で……変なことに遭ったつうか遭ってないっつうか……」
「なんです」
「いや、大したことなくてさ」
「ならば言えるでしょう」
「あ、やっぱ何も遭ってない遭ってない」
「――き、く」
「…ち、痴漢……」
「……」
「痴漢に遭いました……」
 いまや完全に凶悪なオーラに包まれて、空手黒帯のアタシでも躊躇するくらい、エリートの表情が一変してる。事と次第によっては、痴漢野郎は抹殺されるんじゃないかってくらいヤバい。社会的にならともかくそれが生命的にじゃ困るんで、さすがのアタシも慌てて取り繕う。
「や、でも、ほら、痴漢の方はあれだぜ! おもいっきし腕捻ってやって、警察突き出しといたから! 最初はびっくししたけど、一応アタシも有段者だし、んなもんに負けねえっつうか、現行犯で捕まったからヤツも観念してもう二度と悪いことできねえし、へへ実は調書っての? 取られてたから今日の夕飯遅くなったんだよなあ、なんてぇ……」
「菊」
 急に強く抱きしめられくちづけられて、アタシの言葉が止まる。
 それはその先を我慢するための儀式なんてもんじゃなくて、魂から欲しがるみたいに強く、熱くて、びっくりするくらい激しい。アタシのこと全部わかってるって感じがする気持ちのいいくちびるが何度も何度もアタシの次の言葉をさらっていって、熱いのか冷たいのかわからない柔らかい舌が上顎の奥まで確かめるように差し込まれた。苦しいのに辛くない。手のひらが私の体をさまよってる。痴漢に触られたのとは全然違う心地だった。あの時の鳥肌が嘘みたいに体から消えて、アタシは夢中でエリートの名前を呼んだ。いつもなら絶対怒られるのに今日は相手から誘うようにエリートの上に乗せられて気づけば服も乱れて。
 一方で。そういうのと全然別の落ち着きみたいなもんが私の中に落ちていって。
 ああ、これだ。アタシの求めてたもの。
 泣きたくなるほど愛しい世界だと思った。こんな2人の世界があれば、他に何があったって怖くない。
 髪に差し込まれた大きな手がアタシの額をさらし、またくちびるが落とされる。まぶたに。まなじりに。耳に。顎に。なんて触れ方をするんだろう。数年前、アタシが挑発した時も、実はこれと同じ感じだったんだろうか。でもまだ子供のアタシには、理解できないことの1つだったのだとしたら、やっぱりアタシはガキだったんだ。
「ああ、もう、最低だ。俺は最低の糞野郎だ。畜生」
 首筋やうなじにもくちづけられながら囁かれた悪態が耳に入った。怒りはおさまってないらしい。アタシの方がすっかり怒りはおさまってしまって、恋人への愛しい気持ちだけに満たされる。急にそのままの格好で抱きかかえられ、2人の中で禁忌だった寝室へ運ばれた。びっくりする間もなくベッドに乗せられて、1人の時こっそりと転がった記憶しかないスプリングの2人分の重みに卒倒しかかる。恐怖じゃない。緊張で血の気が引いた。何かつぶやきかけたのに、またくちづけに呑み込まれた。漏れ出てるのが自分の喘ぎ声だって知って、羞恥に消えたくなった。
 鼻先で見つめられながら、根本までしっかり組まれた指が柔らかく、手の甲をさすってるのに、どぎまぎした。
「ここで断らなかったら、もう絶対に、何があっても止められない」
「こ、こんな時につまんないこと聞くな――」
「大事なことだ。ちゃんと答えなさい」
 幸いにして部屋はそう明るくなかった。でも、アタシの声の震えはバレてたんだろうか。

「――あ、アタシは、一生あんただけ知ってれば、それでいい」

 それでも精一杯、アタシは本音を告げた。もう自分で判断はきちんとできる。
 アタシの答えを聞いて、どこかでガチャンと扉が開いたような、妙な感覚があった。

「――そうだ。俺だけ知ってればいい。死ぬまで」

 もしかしたらそれは世界一ムードのない告白だったのかもしんないな。
 けどさ、アタシらが幸せなら、アタシらが満足してんなら、どんなやり方だって言葉だって結局は世界一最高のプロポーズだ。そうだろ?



「おい見ろ! 処女の証だぞ!」
 清々しい朝の光の中、ギョッとしてエリートは結んでいたネクタイを締めそこね、本気で嫌そうな顔を向けた。
「なんだよ、ちゃんと洗うって。落ちなかったら、新しいのを買って――」
「……そういうことじゃありません!」
「すごい! もう何も入ってないのに、まだ何かある気がする! 何か変な感じ。え、本当に何も入ってないよな?」
 無視して喋り続けたら、失敗したネクタイをしゅるりと外して、エリートは忌々しそうに訴えた。
「いいですか姫」
「き、く、だろ」
「――」
「姫は卒業。もうこれで、アタシはあんたの縄に一生縛られたんだ。違うか?」
「……」
「なんだよ」
 じっと、視線と視線があう。
 数秒の後。
 着かかっていたものを勢い良く脱いでベッドに戻ってくるエリート。
「じゃあ可愛い妻には今まで夫が耐えさせられた分、たっぷりお返しを頂きましょう」
「ちょ、え、う、嘘だろ」
「き、く」
「っ――」
「冗談です。今日は1日休みにして――指輪でも探しに行きましょう」
 それから、愛してますよ、と囁かれた。
 アタシはこれに、弱いんだ。


おわり