必死な愛撫も空回り 後


「――はっ」
 初めて触れ合ったくちびるは、あまくて、やわらかくて、ひどく官能的だった。
 最初のうちはしっかり口を閉じて抵抗するようにみせたエリートも、アタシが首にしがみついて、必死で舌をつかって愛撫すると、色っぽい声を出しながら、抗う力を弱めてる。
 さらにアタシは、乗り上げたエリートの体に手を這わすと、そのままゆっくりとずらして、服の上からやつの股間を触り始めた。
 びくりとして、エリートはアタシの手を押さえる。だがこっちも負けてられない。アタシは躍起になって、エリートのくちびるをむさぼる。
「こらっ、姫――なにを」
「うるさい!」
 慌ててアタシの両手を塞ぎにかかったので、今度は乗り上げた体を使って、胸を押し付け、やつのモノをこすり上げるように腰を振った。
 さすがの堅物エリートも、さしもの直截攻撃に低いうなり声をあげて、上気した頬のまま顔をしかめている。
 まだそういう経験のないアタシでさえ、これは気持ちよかった。だけどアタシは、もっと別の興奮に驚き、快感を覚えていた。だって、アタシの愛撫で、エリートは確かに反応してた。体で触れてわかるほどに、エリートのそこは硬くなり始めてたんだから。
 そして、アタシを睨むその眼差し、色に染まった頬、漏れ出る吐息の甘さ。過剰なまでのその色気に、アタシの方がおかしくなるかと思った。
 アタシはエリートのゆるめたシャツの襟元に吸い付くと、舌で舐め上げて、耳たぶまでたどり、やわらかく甘噛みしてやる。エリートはまた、これまでにまったく聞いたことのない性質の声をあげ、苦しそうに唸る。アタシがくんと腰を1回振ると、我慢強いエリートも辛くなってきたようだ。顔に焦燥を浮かべ「姫!」と悲鳴に近い声で叫ぶ。
「姫、ばかな真似はやめなさい!」
「ばかじゃねえよ。あたしは、本気だ」
 そう、まっすぐ目を逸らさずに言ってやると、エリートは一瞬、息を呑んだ。
 そこで、それまでの空気が、変わった気がした。
 淫靡な、男と女の匂いがする。
 ようやくアタシの本気をわかったのか、エリートの表情に匂い立つ色が濃く漂い、アタシの本心と触れ合う。
 アタシは、切なく胸が焦がれ、かつてないほどの興奮と恍惚感におそわれながら、エリートの色っぽいくちびるに、キスしようとした。

 ――が。

「!」
 ふい、と逸らされただけでなく、強く肩を押され、突き飛ばされ、アタシは床に尻餅をつく。
「……」
 呆然と、見上げる。
 乱れた服装のまま、むくりと起き上がったエリートは、アタシの方を見もせずに、こう告げた。
「今日はもう、帰りなさい。酒も飲んでしまったし、タクシーを呼びますから、1人で帰れますね」
 俯いた表情はまるで何事もなかったのようで、背を向けて服を正しているその姿に、アタシは、絶望した。
「なんで…なんでだよ」
 目を合わそうともしない。無言のまま携帯を手に取り、タクシーを呼ぼうとするエリートに、あたしは、これまで感じたことのない大きな憤りを抱いた。
 ――エリートは、アタシのことなんて本気で好きじゃないんだ
 ――子供だと思って、子供の遊びに、付き合ってやってただけなんだ
 ――だから。アタシのことなんて、本気で抱きたいなんて思わない
 ――こんな屈辱ってあるか
 ――こんな
「……ふざ、けんな」
「…姫」
「ふざ、けんな、ってんだ」
 わなわなと震える体が、声が、アタシの怒りの強さを表してた。
「何が“姫”だ…何が“降参”だ…てめえは、アタシのことなんて、これっぽっちも考えてやしねえ…。ただ、こうるさい女を黙らすために、適当にあしらっただけだ。畜生。どうせてめえは、アタシを女となんか思っちゃいなかった。性別の上じゃ女ってくらいにしか、アンケートでどっちにまるつけるかくらいにしか、感じてなかったんだよ。ばかにしやがって。いいよ、あんたがその気がないってんなら、今日でお別れだ! ガキのままごとに付き合わせて悪かったな! そんなガキとも、今日でおさらばだ! あんたは事務所の姉ちゃんとキスでもセックスでもなんでも好きにしたらいいだろ!? アタシだってな、こんなでも声かけてくれる男の1人や2人、ちゃんといんだ。そいつらに頼みゃあな、今すぐにでもなんだってしてくれるだろうよ、そっちをあたって、本物になってやらあ!!」
 激しい啖呵を切って出てこうとしたアタシの腕に、信じられない痛みが走る。
 エリートが、ものすごい力で、腕を握ってる。
「痛ぇよ!」
「――です」
「はっ!?」
「わかってないのは、あなたの方です、菊」
「な、放せよ、アタシは――っ!!」
 次の瞬間には、アタシはソファに叩き付けられ、口を塞がれていた。

 なんだこれ、なんだこれ

 さっきアタシがしてたのなんか、子供の戯れだってくらい、激しくて、強くて、熱い舌が口内中を蹂躙するような。息も継げないくらい、深くて苦しいキス。
「あ、ふっ…」
 あふれるほどの唾液が零れても、エリートはやめなかった。アタシの頭をがっちり両手で押さえて、重い体はずしりと体に密着したままぴくりとも動かない。
 急に、自分がすごく無防備な気がして、羞恥心がふくれあがった。その僅かな機微を目敏く拾うように、エリートの手がアタシの体におりて、あっという間に下着だけ服を残し取り払う。全身が熱い。そして恐ろしくなった。両手で隠そうとした手はつかまって、片手いっぽんでおさえこまれてしまった。
 余った手で、エリートはかけていた眼鏡を投げ捨てた。
「エリ――」
 叫びかけた口が、大きなてのひらによって塞がれる。
 直に見る目が凄みを帯びていて、興奮のせいか、少しめくれあがった額のかげの傷が、うっすらと血の色を帯び浮かびあがっている。
 まるで違って見えた。
 アタシの知ってるエリートじゃないと思った。
 怖い、と感じた。
 なにかわからない。でもいつもと異なる。エリートから発せられるオーラみたいなもんが。
 エリートと、こうなるのは嫌じゃなかった。むしろ望んでた。なのに、なんでだ。アタシ、なんでだよ。どうしてだよ。
 アタシの目に、どんどんと水が集まり、みるみるうちにそれはふくれあがって――
「――――」
 エリートの名前を。下の名前を、本名で、呼んでいた。
 何度も。
 ほとんど、裸同然にむかれ、恥ずかしいところにくちびるを這わせていたエリートが、その声にハッとしたのがわかった。
 するりと目からこぼれおちた――汗が――口をおさえていたエリートの手に辿りつく。
 ――ゆっくりと、アタシを拘束していた力が、外された。
 声もなく泣いているアタシと。力なく、うなだれているエリート。
「…すまない」
 そっと体を起こされ、ぎゅうと、抱きしめられる。
「すまない、すまない、すまない」
 強く、でも優しく。温かく、いつものように。
「すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない、すまない――」
「もういい!」
「……すみません」
 ぎゅうと、背中にまわった腕が強ばって、エリートの口から溜め息のようなうめきが漏れた。ああ、いつものエリートだ。なんでだろう。ずっとこいつはここにいたのに、なんに怯えた? アタシはどうしてしまったんだろ。
 初めて泣き顔を見せたアタシは、恥ずかしさにそっぽをむいた。
「姫、本当に――」
「もういいって! もういいよ。…もとはと言えば、アタシがやったことだ」
「ですが」
「エリートも、戸籍上だけじゃなく立派な男だってわかったし。もういいよ」
「……」
 そこでアタシのあられもない姿に気づいたのか、エリートは赤面して、慌てて自分が投げ捨てた服を拾い集めて、アタシに寄越した。すぐに背を向ける。
「早く、着て下さい」
「…」
「でないと――また、理性がとぶ」
「…エリート」
 その言い種に、少しだけアタシは震えた。
 アタシは、できるだけ急いで服をはおると――後ろから、そっと、エリートを抱きしめる。びくん、と揺らいだ大きな背中が、妙に怯えてた。
「なあ、それって――それって、少しは、アタシを女だと認識してくれてるってこと?」
「当たり前でしょう」
 エリートは怒って振り返った。だがまだ完全に覆われていないアタシの裸身に、慌てて目を背ける。
「早く服を!」
「自分が奪ったくせに」
「そっ…――ですから、申し訳なかったと、何度も――」
「嘘だよ。ごめんな」
「……」
「さっきつかまれたとこ、赤くなってら」
「姫、本当に――」
「アタシのこと、本気で、取り返したかったってことかな」
 手を放し、アタシが黙っていると、エリートはぽつんと、告白した。
「姫のこと、女性として見てないわけないでしょう。むしろ、あまりに意識しすぎるからこそ、触れることをいさめたんだ。でなけりゃ」
「…でなけりゃ?」
 とくん、と心臓が1つ、うねる。
「――タガが外れて、どんなひどいことをするか、わからねえよ」
 珍しく砕けた、本音に溢れたその口調も、言葉も。
 アタシは、嬉しかった。
 エリートが、アタシが知ってた以上に、大事にしてくれてたんだって、気づいて。
 そのふところの深さに、また、泣きそうで。
 もっと、惚れた。


 お互い落ち着いてから、淹れてもらった茶を飲みつつ、アタシはふと、尋ねてみた。
「エリート、生まれながらの坊ちゃんかと思ってたんだけど、意外に乱暴なとこってか、柄悪いっていうか、あの怒りまくってたときの雰囲気が、なんか別人てえの? 凄みありすぎて、びびったんだけど」
「……」
 いやあな目つきでアタシを見たエリートは、ふうとこめかみを揉みながら、ちょっと躊躇する。
「なんだよ」
「姫がもう少しきちんとした大人になったら告げようと思っていたのですが」
「ん?」
「私は、べつに、良家のぼっちゃんでも、育ちのいい品行方正な男でもありませんよ」
「え、そうなの」
「弁護士稼業などしてるので、それなりにきちんとしなくてはならないと思い、己を戒めてるだけで」
「で?」
「俺はガキのころ、それなりにオイタもしたし、そういう人間だってことだよ」
「あ!」
 急に言葉遣いの変わったエリートに、アタシはなぜか、ぴんとくる。
 そうだ、そういえば、エリートは、初対面のアタシのものすごい蹴りにも微動だにしなかった。そもそも、喧嘩の仲裁なんて大人でもびびる場に、恐れもせずに入ってきたんだ。え、なに、それじゃあそれなりに、けっこうなお子様だったってことかよ!?
 アタシがあわあわしてると、エリートはいつもの調子に戻って、苦笑する。
「安心してください。全て過去の話です。べつに、前科なんてありませんよ。まあ、この額の傷は、そのときの勲章だとでも言っておきましょう」
 あの、興奮すると赤く浮き出てくる傷は、子供のころ作ったなあんて言ってたが、単に転んでできたなんていう生易しいもんじゃないってことじゃんか。
 アタシは呆れて、そして、大笑いしてしまった。
「なあんだ! じゃあ、エリートなんて呼んでたけど、そういうわけじゃなかったんだな」
「そうです。姫なんかよりもっと修羅場を知ってますよ。でもね、私は途中で、そんな自分のばかばかしさに気づいて、人生をあらためたってことです。だから私は、どんなに辛いことでも我慢するし、大切なものは、命にかえてでも、守り通す」
 そういうエリートは、アタシが好きになったものん中でも、1番強くて、1番かっこいいと思う。そうだ、こんな強さを本能で感じとったから、アタシはエリートに恋した。嫌なことから絶対逃げない人だから、好きなんだ。
「だから、二度と男の理性を試そうとすんなよ」
 真っ直ぐに見つめられて出てくる言葉は、本心だ。
 エリートは、ただの優男じゃない。
 もちろん、男に丸を囲むだけでもない、ほんとの、男。
「――じゃあ、じゃあ、アタシも」
 ぱちくりと、眼鏡の向こうで瞬く目を見つめる。今日からは、ちゃんと、呼んでやろう。だって今日は、惚れ直した記念だ。
 アタシは大好きなこいつに飛びついて、本名を大声で叫ぶ。
 愛しい男に抱きとめられて、それから、「大好き、愛してるぜ」――と付け加えるのも、忘れずに。


 それからのアタシは、ちっと大人しい。
 なんだかんだいってエリートはやっぱアタシの年齢ってもんを気にしてて、大人になるまでは、なんて堅物なことを口にし続けてる。
 でもアタシは、エリートがちゃんとアタシのことを、未来もふくめて、大事にしてくれてるってわかったから、なにも言わない。不安も感じない。
 それに、最近のエリートは、ちょっとだけ甘くなって、甘い甘いくちびるへのキスだけは、許してくれる。
 あまりに夢中になってると、時々お互い、暴走しそうになるけれど。
 そこはそれ、2人とも、根性だけは立派だって、気づいたから。
 エリートがアタシを子供扱いする日々を、せいぜい今のうち楽しんでおこうと思ってる。


おわり