ワンラウンドダウン


 今日こそ、はっきり文句をぶちまけて、完膚なきまでに叩きのめしてやる。

 かたい決意を胸に抱きながら、亜沙美は隣りの壁に向かって仁王立ちすると、わりと大きな声で「ばかやろう」と言ってみた。前哨戦のつもりだった。
 ここはこぢんまりとしたアパートで、見た目はそこそこ小奇麗ではあるものの、やはりアパートであるからには木造であり、壁も床も何もかも薄い。だから、亜沙美の暴言は隣りの部屋に筒抜けたかもしれない。いや、むしろ聞こえていればいいと思って言ってみた。何しろ亜沙美の我慢は限界で、怒りもとっくに臨界点超えしてるのだから、これからそれをぶちまけに行くことだとわからせなければならない。

 亜沙美は隣りの部屋の住人に会ったことがない。亜沙美の方が先に住んでいたのだが、後から越してきた隣人は生意気にも挨拶のひとつもよこさなかったから、どんな人間がいるのか、見たことがないためだ。
 男が住んでるのか女が住んでいるのかもはっきりしながったのだが、そのうちそんなことよりも、越してきたのはろくでもない住人だというほうが気になりだした。

 なんせ、とにかくうるさい。
 何時から何時まで家にいるのか知らないが、少なくとも朝も晩も亜沙美より早く起きて遅く寝てる。そのくせ、いる間音楽やテレビは大音量で聞き、床はどしどしと踏み鳴らし、大きな物をしょっちゅうひっくり返す。家具はぎぎぎと引きずる、ドアは大げさに閉める、目覚ましも鳴らしっぱなし、真夜中に突然楽器を弾き始めるといった騒音なしには生きてけない人間であった。これで下手くそな歌声が聞こえようものなら、亜沙美は放火してたかもしれない。

 それからどうも、ペット不可のこのアパートで猫を飼っている。
 それがまあ良く鳴く猫で、家猫にしてるのだろうか、ご主人様が帰ってきちゃあ鳴き、お腹が空いたとあらば鳴き、甘えては鳴きで、甘えん坊にもほどがある。おそろしいことに亜沙美の部屋側の薄い壁に爪とぎの場所を定め、ご立派にも亜沙美の部屋のベランダを自分の領土に決めたらしい。亜沙美がベッドを置いてる壁をガリガリガリガリしたかと思えば、わざわざひとん家のベランダに侵入してマーキングしては異様な臭気を漂わせるという奔放さは飼い主に劣らずで、亜沙美が育てていた植物を枯らしてくれたことも1度や2度ではない。満足そうににゃあにゃあ鳴いて自分家に帰っていくのに気づいたときはたいてい、落としようのない臭気放つスプレーを済ませた後で、たとえようのない悪臭の中立ちすくみ、怒りに震えたものである。

 その他にも言いたいことはいろいろあるが、けっきょくは全部「やかましい」のひと言が先に立つので、どうやって文句を言い、こちらの大いなる不満をわからせて叱りつけてやろうかに焦点が集まった。

 いちおう大家には実情を伝えてある。注意してもらうようはっきりと頼んだ。ところがこの大家ときたら、はいわかりましたと言っておきながら、実際やったことといったら、全員の家のポストに静かにしましょうという紙きれ1枚放り込んだだけ、あとは何もしてくれない。皆の家に配ったら誰が悪いってわからないじゃないか。それよりも何で直接隣りに言わないのあの糞ババア、と亜沙美は腹が立ち、また苦情を申し立てたのだが、何度訴えても同じことで、都度曖昧に濁され、そのうち亜沙美の方が煙たがられるようになってしまったため、大家に期待するのはやめた。ただ、唯一大家も腰を上げそうな猫のことを、亜沙美が言っていないのはあるかもしれない。勝手に契約違反で飼うほうが悪いのは当然でも、猫に罪はない。あれだけの騒音をぶちまけて平気でいられる人間のこと、大家に叱られたら自分が引っ越すのではなくて絶対に猫を捨てる方を選ぶ気がして、何となく言い出せなかった。可哀想な猫を作るきっかけが自分などと、寝覚めが悪い。

 そんなわけで、次に亜沙美がしたことは、ベランダに猫が嫌がる薬を散布することと、相手がうるさくしてきたら壁を叩き返してやることだった。以来、猫は入って来てないような気がする。植物も置かなくなってしまったからわからないけれど、猫よけの薬はものすごく臭いので、スプレーされてないと信じて、臭い薬をせっせと散布し続けている。大家に言えない以上そうするしかない。悔しいからかかった費用だけはメモしておいてある。

 残念なことに壁叩きは、効果がなかった。亜沙美が叩くと、ますます楽器を激しく弾いたり、あろうことか壁を叩き返してきたりした。唖然とした。腹が立ち今じゃこっちも更に叩き返したりしてるのに、相手はリズムに乗って叩き返してくることもあった。
 猫でも自分が嫌われてることがわかったというのに、隣人はよほどおつむが弱いのか?

 こんなことがふた月も続いて、いよいよ、亜沙美は直接交渉に出るしかないと決意した。今時いらぬ揉め事を起こすと仕返しが怖いとはわかりつつも、だって亜沙美はここを出ていくわけにはいかない。そもそも間違いを起こしているやつが自由にして、こちらが我慢して出ていくなんて絶対におかしい。納得がいかない。いざとなったら警察を呼ぶから、大丈夫だ、などと根拠のない自信を胸に、亜沙美は携帯と武器になりそうで日常で持っていても問題にならなそうなビニール傘だけ持って、これから隣りの部屋へ乗り込むことにした。

 いったい何歳のどんな人間が住んでるのだろう。楽器という時点でちょっと男も疑ったが、猫の存在から女の路線が濃厚な気がした。大家が遠慮するほどの相手なのだから、年がかなり上だったりするのだろうかとも疑っている。或いは相当な変人で、関わり合いになりたくないような人だったりして。
「……」
 ちょっとだけ挫けた気持ちを持て余していると、隣りの家からがっしゃーんという派手に鍋か何かをひっくり返す音と、猫がびっくりしてフギャーと叫ぶ声がしたので、亜沙美が気を取り直すのに充分だった。

 いつでもすぐに通報できるように110番だけセットして、片方の指を当てながら、亜沙美はいよいよ相手の部屋の前に立つ。薄い扉の奥から何やら騒がしい雰囲気と音が漏れ出している。もうこれ以上は耐えられない。亜沙美は勢い良くピンポンを押した! 押した! 押しまくった! 嫌がらせだった!

「ふあ〜い」

 亜沙美ですらうんざりするようなピンポンラッシュの後に聞こえたのは、呆れるくらい間の抜けた、男の声だった。男と判明して亜沙美は傘を構えなおした。いざとなったら傘を開いて対抗しよう。片手は携帯、片手は傘を構えて待っていると、なんの予告もなしにばっと扉が開いた。あまりに勢い良く、そして無防備にその男が顔を見せたものだから、驚いた亜沙美はうっかり傘を開くボタンを押してしまった。通報の方のボタンじゃなくてよかった。突然開いた傘に潰されそうになって呻いている相手の顔をビニール越しに眺めて、ぼたり、と落ちる。

「……」
「どちら様?」
「あ……」
「?」
「あ………」
「?」
「音が…」
「音?」
「鍋が……ひっくり返る音が……」
「ああ、さっきの? だいじょうぶ、ちょっと慣れない料理をしようと思ってひっくり返しちゃったけど、材料は無事だったから。盲腸も驚いてたみたいだけど、もう落ち着いたし」
「も、盲腸?」
 脈絡のない単語に喉のつかえも押し流されたが、相手にとってはなんてことないようだった。
「ああ、猫の名前。可愛いでしょ、もう大人のくせに、すごい甘えん坊なんだ」
「……」

 その時、盲腸なんてろくでもない名前をつけられた猫が部屋の奥からなあーんと鳴くのが聞こえた。亜沙美はまだ呆然としたまま立ち尽くしていた。何を言っていいのかわからなくなっていた。
「で、どうしたの、心配して来てくれたの? もしかして、隣りの家の人? だったら、いつもみたいに壁叩いてくれれば返事したのに。あれ、面白いよね。俺一人っ子だからさ、なんか兄弟できたみたいで嬉しくって」

 それを聞いてまたも亜沙美の頭の中に衝撃が走る。相手はあれを亜沙美からの楽しい合図か何かと思っていたのだという。そんな常識は生まれて初めて知った。
「でもなんで傘? 今日は雨降るの? 洗濯干しちゃったんだけどな。んー、でも盲腸も別に顔そんなに洗ってなかったし、あっ干してたもんがなんか飛んでっちゃったとか。そういえば見当たらないパンツがあってさ。……そっちは? 携帯? もしかして、盲腸の写メ撮りたい?」

 そう言って、間抜けな隣人は例の盲腸とやらを亜沙美の前にぶらーんとつきつけて、ご満悦そうに笑う。大家さんも可愛いって言ってくれたんだよなどと、聞いてもないことを話している。猫は生き物として確かに可愛いけれど、この猫はどうオオマケに見たってブサかわと分類される方に入っているのに。そうか、大家のこともとっくに篭絡済みだったのか。どうりで亜沙美の言うことをきかないはずだ。糞ババアめ。

 猫がなあーんとまた鳴いた。亜沙美はどきりと一歩下がった。こんなことをしに来たんじゃないはずだった。なのに、まだ次の行動に移せないのを責められてるようなのだ。
 猫がみたび鳴く。亜沙美に甘えるみたいに。撫でて欲しいと言うように。確かに甘えん坊らしい。人懐っこくて、自分1人じゃまともに生きてけませんみたいな様子をして。なんなの。やめてよ。亜沙美が恐れているというのにその猫は、盲腸は、抱えられたまま短い舌で足を舐めヒゲの手入れをすると、再び亜沙美に向かって何か言った。

「……」

 それで、亜沙美の気持ちはすっかり固まった。もう言うしかないと思った。思いの丈を、これまでのフラストレーションを解消するために。なにもかもぶちまけて、あの腹立たしかった生活とはおさらばするのだ! さっきまでの怒りも動揺も全て押し込んだ腹の底に、ぐっと力を入れて、それはようやく言葉になった。

「写真、撮らせてください!」

 盲腸をかかえて亜沙美を見ている笑顔は、どうしようもないほど亜沙美の好みだと告げている。
 さっき落ちたのは、亜沙美のハートだったらしい。
 全部わかってるというように盲腸が、なあーんと鳴いた。


おわり